第7話 殿下、唖然
木々の間を抜け、さらに森の奥へ進むと、レイエスの視界が開けた。目の前には、木漏れ日が降り注ぐ美しい泉。そして、そのほとりで、彼が捜し求めていた三人の子供たちが、楽しそうに笑いながらバーベキューを続けていたのだ。
「もうー!キスティーが負けたから、変な実食べなきゃいけないんだよ!」
「やだー!ギルが自分が得意なゲームにしたからずるいんだもん!」
彼らの騒がしい声が、静かな森に響き渡る。レイエスは、その光景に思わず足を止めた。彼の目に映るのは、先ほど自身が命の危険を感じた強大な魔獣を倒した存在とは到底思えない、あまりにも平和で、そして滑稽な子供たちの姿だった。
そして、倒れたアースゴーレムの額に刺さっていた、あの焦げた串…それが、今、キスティーの口元についている肉と同じものだということに、レイエスは気づいてしまった。
(まさか…あの魔法だけではなかったのか…?あの少女が、今度は物理的な力で…?しかも、たかが遊びの延長で…?)
レイエスは、驚愕と混乱が入り混じった表情で、泉のほとりの三人を凝視する。彼の知る世界の常識が、またしても目の前でひっくり返された瞬間だった。
「…君たちは、一体…」
レイエスは、無意識のうちに呟いていた。彼の声は、しかし、子供たちの楽しげな喧騒にかき消されて、誰にも届くことはなかった。
レイエス王子は、泉のほとりで騒ぐキスティーたちをただ見つめていた。疲弊しきった護衛の騎士たちが遅れて追いついてくるが、彼らもまた、目の前の光景に言葉を失っている。
「もう!キスティー、早く罰ゲームの実、食べなさいよ!」
アリシアが、楽しそうに笑いながらキスティーに迫る。
「やだー!だって、あれ本当にまずいんだもん!アリシアもギルも意地悪ー!」
キスティーが頬を膨らませて逃げ回る。ギルはそんな二人を呆れた顔で見つめながらも、口元は緩んでいる。
「自業自得だろ。ズルするからだよ、お前は。」
レイエスは、耳を疑った。アースゴーレムを一撃で倒した、あの“棒”が、この子供たちの「的当てゲーム」の道具だったというのか? そして、その一撃を放ったのは、まさかあの魔法少女キスティーなのか? しかも、彼女が普段は魔法を使わないだと?
(なぜだ…なぜ、これほどの力を持つ者が、こんな森の奥で、ただ無邪気に遊んでいる…?)
レイエスの頭の中は混乱でいっぱいだった。王都では、魔法使いは厳しく管理され、その力は国家のために用いられる。ましてや、杖も詠唱もなしに高位の魔法を操る者など、伝説の中にしか存在しない。そんな規格外の存在が、このコレットの小さな町に二人もいるというのか? しかも、一人は遊びの時だけ魔法を使い、もう一人も無詠唱の魔法の使い手で、残りの一人は魔獣の攻撃すら寄せ付けない頑丈な肉体を持つ…彼ら三人の間に流れる、あまりにも自然で、そして強固な信頼関係。
彼の知るすべての常識が、音を立てて崩れていく。この泉のほとりで繰り広げられているのは、王国の常識からかけ離れた、あまりにも異質な光景だった。レイエスは、彼らの存在が、この国の、そして世界の運命を大きく左右するかもしれないという、漠然とした予感を抱かずにはいられなかった。しかし、その圧倒的な「日常」を前に、レイエスは声を発することもできず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
レイエス王子は、泉のほとりで繰り広げられる「日常」を目の当たりにし、言葉を発しようとして、結局やめた。あまりにも規格外な光景に、思考が追いつかない。アースゴーレムを一撃で倒すほどの魔獣討伐が、子供たちの「的当てゲーム」の延長で行われ、その張本人が「まずい木の実を食べたくない」と駄々をこねているのだ。
(一体…何なんだ、あの子供たちは…)
目の前で起きた事実を、到底飲み込むことができない。レイエスは、一度この場を離れ、冷静に情報を整理する必要があると判断した。
「…戻るぞ。」
レイエスがようやく口を開くと、疲労困憊の護衛騎士たちは心底安堵した表情を見せた。騎士団長は、ほっと息をつきながら深々と頭を下げる。
「御意!殿下!」
彼らは、王子の気が変わらないうちに、急いで森を後にした。レイエスは歩きながら、騎士団長に静かに命じた。
「あの三人について、詳しく調べさせろ。出自、生活、普段の行動…全てだ。」
「はっ…しかし、殿下。彼らはただの民間人かと…」
「良いから調べろ。あの者たちは、ただの民間人ではない。」
レイエスの声には、有無を言わせぬ響きがあった。騎士団長は、王子の真剣な表情を見て、それ以上反論することはできなかった。
レイエスたちが森を去った後も、泉のほとりの騒がしさは続いていた。
「いやだー!絶対食べないー!」
キスティーが、体をよじらせて抵抗する。彼女の手には、ギルが森の洞窟から取ってきた、奇妙な形をした黒い実が握られていた。見るからにまずそうだ。
「だーめだ、約束は約束だ!ほら、早く食え!」
ギルが容赦なくキスティーの腕を掴み、実を口元に近づける。
「そうよ、キスティー。ちゃんと罰ゲームは受けなきゃ。」
アリシアも、にこやかな笑顔でキスティーの背中を押した。彼女の顔には「ざまあみろ」という表情が浮かんでいる。
「ううぅ…アリシアまで意地悪ー!」
観念したキスティーは、涙目でその実を一口かじった。
「うぅ…まずーい!にがーい!やっぱりー!」
キスティーは、まるで毒薬を飲んだかのように顔を歪ませ、飛び跳ねる。ギルとアリシアは、それを見て大爆笑した。
「ほら見ろ!だから言っただろ!」
「あはは!キスティー、変な顔!」
三人で笑い転げ、日が傾き始めるまで泉で遊び続けた。夕焼けが森を茜色に染め上げる頃、彼らは満足げに家路についた。
「明日もまた来ようね!」
キスティーが元気に言うと、アリシアとギルも頷いた。コレットの町に、いつもの夜が訪れる。だが、その静かな闇の下で、王子の命を受けた兵士たちが、密かに三人の子供たちの情報を集め始めていることを、彼らはまだ知らなかった。