第47話 プツン…!
「…始め!」
国王の声が響き渡るも、三人はどうしていいか分からず、ただ恐怖に固まっていた。訓練場の真ん中で、まるで凍りついたかのように動かない。
トビアはそんな三人を嘲笑う。
「どうした?来ないなら、こちらから行ってやろうか?」
そう言い放つと、信じられないほどの速さで三人の間合いを一瞬で詰めた。まるで風が通り過ぎたかのような速さだ。ギルの後ろに隠れていたキスティーに、その手が伸びる。
「パシッ!」
乾いた音が響き、キスティーの頬が軽く叩かれた。何が起きたか分からず呆然とするキスティーの顔に、一拍遅れて痛みが走る。
「ううっ…!」
キスティーは痛みに顔を歪めると、こらえきれずに大声で泣き出した。反射的にアリシアにしがみつき、顔を彼女の肩に埋める。
トビアは三人と距離を取り、薄ら笑いを浮かべていた。
「なんだ、結局ただの子供じゃないか?軽くはたいただけで、このざまだ。レイエスの言っていた力とやらは、どこに…」
トビアがそう言って、上から見守る国王に報告しようとした、その瞬間。
背後から、不気味な音が聞こえてきた。
「ゴゴゴゴゴゴゴ……!」
その音は、大地が震えるような、低く、重い轟きだった。
キスティーは、アリシアの肩に顔を埋めたまま、嗚咽を漏らしている。アリシアは、そんなキスティーをぎゅっと抱きしめ、静かに、そしてゆっくりと顔を上げた。
彼女の瞳は、いつもは穏やかな光を宿しているが、今は違う。まるで氷のように冷たく、底知れない怒りの炎が燃え盛っていた。
(キスティーを…泣かせた…?)
アリシアにとって、キスティーは特別な存在だ。同じ年頃なのに、まるで可愛い妹のようで、いつも隣で笑い合っている。問題ばかり起こして、口を尖らせて、文句ばかり言って、よだれを垂らして、だらしなくて、駄々こねて、お菓子が大好きで、遊ぶことが大好きで、それでも、アリシアにとって何よりも大切な、大好きな子。その子が、たった今、理不尽に叩かれ、痛みに泣いている。
アリシアの怒りは、理性で止められるものではなかった。
プツン…!
ギルは、アリシアのその表情を見て、凍りついた。
「あ…キレてる……やばい…」
ギルの脳裏に、忘れもしない光景が蘇る。まだ幼かった頃、キスティーと自分が激しい言い争いをしていた時のことだ。何度アリシアが止めてもやめなかった二人に、彼女は怒り、そしてその瞬間、彼らが遊んでいた森は跡形もなく、巨大な広場へと変わってしまった。
ギルは冷や汗を流し、思わず呟いた。
「ここ、吹き飛ぶぞ…!」
ギルは慌ててアリシアに駆け寄り、彼女をなだめようとした。その場の空気は、ひどく張り詰めていた。キスティーもまた、泣きながらアリシアの異変を感じ取っていた。彼女の体に触れるアリシアの手は、熱く、震えている。キスティーもまた、ギルと同じ光景を思い出し、恐怖で顔を青ざめさせた。
キレるとこうなるのを知っているから、アリシアが言うことには、二人とも素直に従っていたのだ。
アリシアは、静かな声で問いかけた。
「誰が…キスティーを泣かせたの…?」
その声は、訓練場全体に響き渡るほど、恐ろしく、静かだった。もう、彼女を止めることはできない。
その様子を呆然と見ていたレイエスは、驚愕に目を見開いた。
(な、なんだ…この魔力は…!)
トビアは、背後から聞こえる轟音に驚き振り返り、そして、ゆっくりとこちらへ向かって歩いてくるアリシアを見て、怯え体を震わせた。彼女の背後で、大地がひび割れ、空気が震えている。
「な、なんだ…お前は…!」
トビアは、その底知れない威圧感に、一歩、後ずさりした。彼の顔には、それまでの余裕は一切なかった。
アリシアの静かな問いかけに、答えが返ってくるよりも早く、凄まじい轟音が響き渡った。
「ドォォォンッ!!!」
その音は、まるで世界が崩壊するかのようだった。訓練場の石畳は一瞬でひび割れ、地面はまるで蜘蛛の巣のように無数の亀裂が走った。騎士が訓練のために使っていた巨大な石の柱は粉々に砕け散り、建物の壁は崩れ落ちていく。しかし、そのすべてが、人間を避けるかのように、寸前で止まっていた。アリシアの母の教え――人を傷つけてはならない――という絶対の戒律が、彼女の無意識の内に働いたのだ。
訓練場は見るも無残な姿になり、地面には深い溝が刻まれている。だが、誰一人として怪我を負っていなかった。国王も、レイエスも、そして恐怖に震えるトビアも。
アリシアは、その異様な静けさの中、ゆっくりとトビアの前に歩み寄った。彼女の顔は感情をなくしたように冷たく、瞳の奥にはまだ怒りの炎がくすぶっている。
「謝りなさい…」
アリシアは、低く、冷たい声で命じた。その声は、トビアの耳には、まるで地獄の底から響いてくる悪魔の囁きのように聞こえた。トビアは、全身を震わせ、今にも泣き出しそうな顔で、震える声で謝った。
「す、すまなかった…!本当に…すまなかった…!」
その様子を呆然と見ていたギルは、周りを見回して呟いた。
「これ、さすがにヤバいだろ…」
キスティーは、アリシアの後ろ姿を見つめながら、彼女が自分のために怒ってくれたことに、こんな状況だが嬉しくなった。
「まさかここで…アリシアがキレるなんて…」
ギルは、目の前で起きた現実を受け入れられずに、冷や汗を流しながら続けた。
「船の穴も、宿の壁もヤバいけど、これは完全にアウトだろ…」
その言葉に、キスティーは再び泣きそうになり、アリシアに助けを求めるように叫んだ。
「うー!嫌だよー!早く戻って!捕まりたくないよー!」
その時、遠くでこの様子を呆然と見ていたレイエスが、我に返って駆け寄ってきた。
「みんな、大丈夫か!?」
レイエスは、瓦礫だらけの訓練場に佇むキスティーとギルに声をかける。
「お、俺たちは大丈夫…だけど…」
ギルはそう言って、未だに背筋を凍らせるほどのオーラを纏ったまま立っているアリシアに視線を送った。彼女の髪は、怒りで逆立って見えていたが、今は元の美しい髪に戻り、落ち着いて見える。しかし、その表情はまだ冷たく硬いままだった。
キスティーは、アリシアにゆっくりと近づき、後ろからそっと抱きついた。
「…アリシア…もう、大丈夫だよ…もう痛くないから…」
キスティーは、アリシアの背中に顔を押し付け、温かい体温を伝えるように抱きしめた。
「あの人も、謝ってくれたし…もう、大丈夫だから、ね…!」
キスティーの温もりと声に、アリシアはハッと我に返った。彼女の怒りのオーラが、ゆっくりと消えていく。アリシアは振り返り、キスティーを思いっきり抱きしめた。
「キスティー…痛くない?本当に?本当に?」
アリシアは、キスティーの顔を覗き込み、何度も尋ねた。彼女の瞳は、怒りから不安と安堵へと変わっていた。
その様子を見ていたトビアは、アリシアが自分から意識を逸らした隙に、引きつった顔でレイエスを突き飛ばし、全速力でその場から逃げ出した。レイエスは、その背中を見て、小さく呟いた。
「兄様は…終わりだな…」
その時、上から見ていた国王が、静かに言った。
「…よく分かった。」
国王はそれだけを告げると、騎士たちを従えて退席していった。三人は、その一言が何を意味するのか分からず、ただ茫然と立ち尽くした。




