第28話 ただいま!
夜の執務室、アズール港に到着したのは、夜遅くのことだった。楽しかった船旅と美味しい料理に、キスティーとギルは部屋に着くやいなや、ベッドに飛び込んでぐっすりと眠りに落ちた。アリシアもまた、静かに旅の疲れを癒すように眠りについている。
豪華な宿泊施設の一室を執務室として使っていたレイエス王子は、机に広げた地図を前に、静かに思索にふけっていた。
「……信じられんな。」
彼は、ポツリとそう呟いた。
「あれが…『日常』で…『遊び』だというのか…」
レイエスの脳裏には、今日一日で起きた出来事が、鮮明に焼き付いていた。
凶悪な魔獣ギガンティックマーリンを、まるで魚を捌くかのように一瞬で解体したアリシア。
誰もが震え上がる魔法を弾くタコ相手に、冷静に指示に従い、この世のものとは思えない威力の「たこやきファイヤー」で大量の塩を作り出したキスティー。
そして、そのタコを、船に穴を開けるほどの怪力で叩きつけ、柔らかくしたギル。
彼らの行動は、レイエスが今まで培ってきた知識や常識を、根底から覆すものだった。彼らにとって、それはただの「遊び」であり、自分たちの力を誇示する意図など、微塵も感じられなかった。
「しかし…この思いつきは、うまくいった。」
レイエスは、机の上に置かれたアズール港の地図に目を落とし、安堵の表情を浮かべた。
「遊びという名目なら、彼らは疑うことなく、喜んで力を貸してくれる。これならば、彼らの規格外の力も、制御できるかもしれない…」
デスサイズオクトパス討伐の報告は、すでに王都に送られている。この討伐によって、アズール港は再び活気を取り戻し、漁師たちは安心して海に出ることができるだろう。
そして、その功績は、第三王子であるレイエスのものとなる。
「これで、父上も…」
レイエスの顔に、わずかな安堵と、確信に満ちた笑みが浮かんだ。
しかし、彼の胸には、まだ拭いきれない疑問と、一抹の不安が残っていた。
(この子たちは…これから、いったい何を「遊び」と称して、この世界にどんな変化をもたらすのだろうか…?)
レイエスが知る魔法や常識が、彼らの前では無力だということを、彼はすでに身をもって知っていた。そして、彼らの無垢な力が、時にとんでもない破壊力を持つことも、目の当たりにしている。
レイエスは、夜空を見上げ、静かに息を吐いた。
翌朝、豪華なベッドの上でキスティーはぐっすりと眠りこけていた。窓から差し込む朝日に顔を照らされても、起きる気配は全くない。
「もう、キスティーったら…」
アリシアは呆れたようにため息をつくと、優しく声をかけた。
「キスティー、朝よ。早く起きないと、みんなに置いていかれてしまうわ。」
しかし、キスティーは「んー…もうちょっと…」と寝返りを打つだけ。アリシアは仕方なく、布団を剥がし、彼女の体をベッドからずるずると引きずり下ろした。
「…!ひゃっ!つ、つめたーい!!」
床の冷たさに飛び起きたキスティーは、ぶつぶつと文句を言いながらも、アリシアが用意してくれた服に、まだ寝ぼけた手で袖を通そうとする。しかし、どうにも上手くいかず、結局アリシアが手伝って着替えさせてやった。
軽い朝食を済ませると、一行は馬車に乗り込み、コレットの町へと帰路についた。
行きとは違い、馬車の中は静かだった。
「んむー…」
キスティーはアリシアの肩に寄りかかり、気持ちよさそうに眠っている。口元からは、小さなよだれが垂れていた。アリシアは、微笑みながらハンカチでそっと拭いてやる。ギルもまた、窓の外をぼんやりと眺めながら、うとうとしていた。
彼らは、もはや強大な魔獣を倒した規格外の子供たちではない。ただ、楽しい「遠足」から帰ってきた、ごく普通の子供たちだった。
レイエスは、そんな三人の様子を静かに見つめていた。彼の胸には、この数日で起きた出来事の衝撃と、そして彼らの持つ無垢な力への、計り知れない思いが去来していた。
今回の旅で、レイエスは一つの確信を得た。彼らの力は、正しく導けば、この王国、ひいては世界を大きく変えることができるだろう。しかし同時に、その力をコントロールすることの難しさも痛感していた。
馬車は、静かにコレットの町を目指して走り続ける。
レイエスは、この小さな町に隠された、とてつもない可能性を秘めた三人の子供たちを、どう導いていくべきか、深く考え込んでいた。
コレットの町に到着したのは、夕暮れ時だった。西の空がオレンジ色に染まり、家々の窓に明かりが灯り始める頃、馬車はゆっくりとアリシアの家の前に止まった。
馬車の揺れが止まったのを感じて、アリシアが静かに目を開ける。隣を見ると、キスティーはアリシアの肩にもたれかかり、すやすやと寝息を立てていた。ギルもまた、窓に頭を預けてぐっすりと眠っている。その無邪気な寝顔は、つい数日前まで凶悪な魔獣と「遊んで」いた子供たちとは、とても思えなかった。
「もう、二人とも。着いたわよ。」
アリシアが優しく声をかけ、そっと二人の体を揺さぶった。キスティーは「んむむ…」と小さくうめき、目をこすりながら体を起こす。ギルも「ん、もう着いたのか…」とまだ眠そうな声で呟いた。
馬車のドアが開く。外には、離れてそんなに経ってはいないが、懐かしい顔ぶれが待っていた。
「キスティー!ギル!アリシア!」
元気な声で駆け寄ってきたのは、キスティーのおばあちゃんだった。その隣には、大きな体にたくましい腕を持つギルのお父さんと、優しげな顔つきをしたアリシアのお母さんが立っている。三人の顔には、子供たちの無事を喜ぶ、安堵と愛情に満ちた笑みが浮かんでいた。
その顔を見て、キスティーたちの顔がぱっと明るくなる。
「おばあちゃーん!」
「父ちゃん!」
「お母様!」
三人は馬車から飛び出し、それぞれの家族の元へと一斉に駆け寄った。
「ただいまー!」
キスティーは、おばあちゃんの胸に勢いよく飛び込み、ギュッと抱きついた。
「おかえり、キスティー。寂しかったよ、いっぱいお話聞かせておくれ。」
おばあちゃんは、キスティーの小さな頭を優しく撫でた。
ギルは、力こぶを作るお父さんに向かって、同じように力こぶを作った。
「父ちゃん!でっかくなって帰ってきたぜ!」
「がははは!大物を釣ったと聞いているぞ、ギル!」
ギルのお父さんは豪快に笑い、ギルの頭をガシガシと撫で回した。
アリシアは、お母さんの優しげな抱擁を受けながら、穏やかに微笑んだ。
「ただいま、お母様。お出かけを許可してくれて、ありがとう。」
「おかえりなさい、アリシア。あなたがいない間、少し寂しかったわ。」
お母さんは、娘の成長した顔を見て、嬉しそうに目を細めた。
家族の温かい出迎えに、三人の疲労は一気に吹き飛んでしまったようだった。
少し遅れて、レイエス王子が馬車から降りてくる。その後ろには、この数日で一気にやつれ、目の下にクマをこさえた騎士団長が、ふらふらとした足取りで続いていた。
三人の家族は、レイエス王子の姿を見ると、ハッと息をのんで一斉にかしこまり、深々と頭を下げた。
「この度は、王子様に息子をお預けし、大変お世話になりました。心より感謝申し上げます。」
ギルのお父さんが、三人を代表して礼を述べた。
レイエスは、そんな彼らに穏やかな笑みを向けた。
「いや、こちらこそ。私にとっても、彼らとの旅は忘れられないものとなりました。」
レイエスがそう言うと、キスティーのおばあちゃんが、少し遠慮がちに口を開いた。
「あの…うちのキスティーが、ご迷惑ばかりおかけしたようで…」
「はは…いえ、とんでもない。賑やかで、楽しい旅でしたよ。」
レイエスはそう答えながらも、その言葉の裏にある、想像を絶する出来事の数々を思い出し、小さく苦笑を浮かべた。その横で、騎士団長は遠い目をしながら、船の甲板に開いた穴や、目の前で消滅した魔獣たちのことを思い出している。
(殿下…貴方様にとっては「楽しい旅」だったのかもしれませんが…私の胃は、この数日で完全に潰れました…)
騎士団長は、心の声が漏れそうになるのを必死にこらえ、ただ虚ろな目で宙を見つめるしかなかった。
レイエスは三人の家族と短い言葉を交わした後、再び馬車へと乗り込んだ。
「では、私はこれで。また、近いうちにお会いしましょう。」
レイエスはそう言い残し、馬車は静かに走り去っていった。三人は家族に囲まれ、その小さな背中を見送っていた。
「近いうちに……?」
三人は顔を見合わせて、首を傾げた。
「さあ、おうちに帰りましょう。」
アリシアのお母さんの言葉に、三人は頷き、それぞれの家路についた。
豪華な旅から帰ってきた三人を迎えたのは、温かい家族の食卓と、いつもと変わらない日常だった。




