パニック!
町の広場に集まった人々は、高貴な視察団の姿に誰もが静かに見入っていた。だが、その中でひときわ騒がしい一角があった。
「ねー、ギル!見えない!肩車して!」
背の低いキスティーは、つま先立ちで首を伸ばすものの、大勢の人の頭で見物している使節団の姿がよく見えない。何度か背伸びを繰り返したが、すぐに疲れてしまい、ぶっきらぼうな幼なじみを見上げた。
「おい、やめとけって!こんな人前で!」
ギルは慌てて制止するが、キスティーは聞かない。返事をする間もなく、ひょいっと彼の背中によじ登ろうとする。
「きゃー、ちょっと、キスティー!」
アリシアが面白そうに声を上げる。ギルはため息をつきながらも、ずるずると背中をよじ登ってくるキスティーを支え、仕方なく肩車をしてやった。
「わぁ!よく見えるー!」
キスティーはギルの肩の上から、キラキラと目を輝かせながら歓声を上げた。その瞬間、広場の中央で周囲を見回していたレイエス王子の視線が、騒がしいキスティーたちの方へと向けられた。王子とキスティーの視線が、ぴたりと絡み合う。
ギルはたまらず顔を赤くし、居心地が悪そうに身をよじる。
「ちょ、キスティー!今使節団様と目合っただろ!すげー気まずいって!」
しかし、キスティーはそんなギルの様子など全く気にしていない。はしゃいだままで、王子に手を振ろうとさえした。
「ねーギル、私も見たいー!」
今度はアリシアが、キラキラした目でギルの腕をぺしぺし叩く。ギルはもう、どうしたらいいのか分からず、困惑しきった顔で二人の幼なじみを見つめる。
「お、おい!アリシアまで!」
一際騒がしく、それでいてどこか楽しげなキスティーたち三人の様子に、レイエス王子は興味を引かれたようだった。王子の口元に、微かな笑みが浮かぶ。
(…ふむ、面白い。あの騒がしい子供たちは一体…)
王宮では決して見られないような、飾らない彼らの振る舞いが、王子の好奇心をくすぐった。
広場での視察は、つつがなく進行しているように見えた。だが、レイエス王子の視線は、依然として遠くで騒ぐ三人の子どもたち――特に、ギルの肩の上ではしゃぐキスティーに向けられていた。
(まったく、なんという無邪気な子どもたちだ…)
表向きは、不躾な振る舞いを咎める貴族の顔で、レイエスは心中では彼らの無邪気さに惹かれていた。王宮では誰もが身分をわきまえ、ひそひそと囁くばかりだ。あんな風に感情を露わにする者など、見たことがない。
レイエスはちらりと隣に控える護衛の騎士団長に目配せをした。騎士団長は無言で頷くと、数人の護衛兵を従え、騒がしい三人の元へと向かった。
護衛兵たちが自分たちの方へ向かってくるのを見て、キスティーたちの間に動揺が走った。
「あれ?なんかこっち来るんだけど…」
アリシアが不思議そうに目を丸くする。
「なになに?」
キスティーはまだ事態を把握しきれていないようで、ギルの肩の上で身を乗り出す。
「えーーーっ!マジかよ!来るな来るな!」
ギルは顔色を変え、パニックに陥った。まさか本当に目をつけられるとは。 ギルが動揺したせいで、肩の上のキスティーもバランスを崩し、バタバタと手足を動かし始める。
「わわっ、ギル揺れる!」
「うるせえ!お前がバタバタするからだろ!」
「ええーっ!やだー!捕まるの!?」
キスティーの声が、広場に響き渡る。
護衛兵が三人の前に立ち止まると、その威圧感にギルは肩をすくめた。
「そちらの者、少しお話を伺いたい。」
護衛兵の一人が、咎めるような口調で言った。
レイエス王子は、少し離れた場所からその様子を静かに見守っていた。
(さて…あの三人は、どう反応するだろうか。)
彼はあくまで、好奇心を満たしたいだけだった。罰するつもりなど毛頭ない。むしろ、彼らの反応が楽しみで仕方ない、といった表情を浮かべていた。
護衛兵が目の前に立ち、威圧的な言葉を放った瞬間、キスティーの頭の中は真っ白になった。捕まる?叱られる?そんなことはコレットの平和な日常には存在しない概念だ。パニックに陥ったキスティーは、考えるよりも早く、咄嗟に身体が動いた。
「えーーーっ!やだー!」
キスティーの叫び声と共に、彼女を中心に強い風が巻き起こる。杖も、詠唱も、何の予備動作もなく、ただ純粋な意思だけで発動した風の魔法が、三人の身体をふわりと持ち上げた。
「ひゃあぁあああああ!」
「うわあああぁぁぁ!」
突然の浮遊感に、ギルとアリシアは同時に悲鳴を上げた。ギルの肩車の上に乗っていたキスティーは、そのまま上空へとぐんぐん上昇していく。
「キスティー!どうすんのよこれーっ!」
アリシアが半泣きになりながら、宙に浮くキスティーに叫ぶ。彼女の銀髪が風になびき、白い肌がわずかに青ざめていた。
「わ、わ、わかんない!つい!」
キスティー自身も、まさかこんなことになるとは思っていなかったようで、空中でバタバタと手足を動かす。ギルはもう完全に混乱していた。
「おい!俺たちはどうなるんだよ!落ちたら死ぬだろ!?」
彼の腕は、なぜかキスティーの魔法によってアリシアと共にしっかりと抱えられていて、三人まとめて風に乗って上昇しているのだ。上空で、三人はぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる。まさにいつものドタバタが、よりにもよって王族の前で、しかも空中という普通ではありえない状況で繰り広げられていた。
下では、広場にいた人々が突然の出来事に唖然としていた。
護衛兵たちは、目の前で人が消えるように宙に舞い上がったことに理解が追いつかない。
「な、なんだと…!?」
「今のは…風の魔法か!?」
そして、その光景を目の当たりにしたレイエス王子もまた、驚きを隠せないでいた。
「…馬鹿な。杖もなしに、詠唱もせず、あの高位の風魔法を…!?しかも、三人まとめてだと…!?」
王子の瞳は大きく見開かれ、驚愕に染まっていた。この世界では、魔法を使うには専門の杖を介し、厳格な詠唱を行うのが常識だ。それがなければ、たとえ熟練の魔法使いでも、これほど大規模な魔法を発動することは不可能とされていた。だが、今、目の前で、あの騒がしい少女はあっさりとその常識を覆したのだ。
護衛の騎士団長も、信じられないといった顔で空を見上げる。
「まさか…そんなことが…」
広場は一瞬の静寂の後、ざわめきに包まれた。
レイエス王子は、空中で慌てふためく三人の姿を食い入るように見つめていた。彼の好奇心は、今、これまでの比ではないほどに掻き立てられていた。あの少女は一体、何者なのか。