第121話 難しいのじゃ!
先ほどまでの天地を揺るがすような魔力の衝突が嘘のように、湖畔には穏やかな静寂が戻っていた。アリシアの心と体の熱はエリスの冷たい抱擁によって少しずつ鎮まり、その意識は再び明瞭になりつつあった。
その頃、ギルとキスティーは、雪合戦の後の腹を満たすための薪集めへと向かっていた。森の雪は深く、彼らの足跡だけが、静かに続く銀世界に新たな模様を描いていた。
少し調子を取り戻したアリシアは、エリスに連れられ、ギルが狩り獲って湖畔に置いてきたアイアンブラッドベアの巨大な獲物の元へと歩き出した。巨大な魔獣の体は、血が流れないように丁寧に処理され、雪の上に横たわっていた。その大きさを見れば、数日分の食事には困らないことが一目でわかる。
エリスは、純白のショートパンツスタイルで、その巨体を見下ろした。彼女の深海の瞳には、好奇心と、かすかな困惑の色が浮かんでいた。
「ふむ…そなた、これを捌けるのか?まさか、丸焼きではないじゃろうな?」
彼女の口調には、この獲物をどのように調理するのかという純粋な疑問と、丸焼きという原始的な料理法へのわずかな抵抗感が混じっていた。
アリシアは、エリスの問いかけに、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。体調が戻り始めたことで、いつもの自信が蘇ってきている。
「エリスさん、料理したことある?」
アリシアは、挑戦的な視線をエリスに向けた。
エリスは、アリシアの真っ直ぐな視線に、一瞬言葉を詰まらせた。彼女の顔に、微かな朱色がさした。
「し、したことはあるぞ…したことはな…遠い昔に……」
その言葉には、明らかに動揺の色が混じっていた。彼女が長年生きてきた中で、料理という行為がどれほど稀有なものだったかを示している。
アリシアは、その反応を見逃さなかった。彼女は、エリスに一歩近づき、顔を覗き込むようにして、さらに問い詰めた。
「へえ?じゃあ、《《食べられるもの》》を作れるの?」
アリシアの目は、まるで珍しいおもちゃを見つけた子供のようにキラキラと輝いている。エリスの意外な弱点を見つけたことが、彼女にとって最高の娯楽になっていた。
エリスの顔は、みるみるうちに真っ赤に染まっていった。その氷のような美貌に、予想外の人間的な赤みが広がる様は、何とも言えない可愛らしさを醸し出していた。
「む、難しいのじゃ!火加減が分からず焦げたり……水加減を間違えて吹きこぼれたり……包丁で指を切ったり……」
彼女の言葉は、まるで子供が失敗を告白するように、しどろもどろだった。雪と氷を統べる『人外』が、まさか家事全般、特に火を使う料理に関しては、とてつもなく不器用であることが露呈した瞬間だった。
アリシアは、それを見て声を殺して笑った。口元に浮かべたニヤニヤとした笑みが、彼女の顔全体に広がっていく。
「へー、そうなんだー。ふふ。かわいい、エリスさん!」
アリシアは、その『人外』らしからぬ人間臭い失敗談に心から愉快になり、満面の笑みをエリスに向けた。その笑顔は、彼女の微熱を一気に吹き飛ばすような、生命力に満ちていた。
「大人をからかうでないぞ!」
エリスは、アリシアの「かわいい」という言葉と、からかうような態度に、さらに顔を真っ赤にした。その怒声には、威厳よりも照れ隠しの感情が強く滲んでいた。
アリシアは、そんなエリスの反応を見て、さらに弾けるような笑顔で笑い続けた。その笑い声は、凍てついた湖畔に響き渡り、周囲の冷たい空気を微かに温めるかのようだった。
エリスは、怒りながらも、その心からの、屈託のないアリシアの笑顔を見て、すぐに表情を緩めた。彼女の深海の瞳に、優しい光が宿る。アリシアが完全に元気を取り戻したことを確信し、安堵と喜びを覚えたのだ。エリスは、慈愛に満ちた微笑みをアリシアに返した。
「仕方ないわね!私が捌いて、お料理を見せてあげるわ!」
アリシアは、エリスの不器用さを知ったことで、一気に主導権を握った気分になり、誇らしげに胸を張った。彼女は、まるで名誉ある役割を担うかのように、張り切って調理に取り掛かろうとした。
アリシアは、すぐに湖上に作った氷のお家へと向かった。彼女は、バッグから、研ぎ澄まされたマイ包丁を取り出した。
そして、雪の上に横たわる巨大なアイアンブラッドベアの元へ戻ると、一切の躊躇なく、その体へと刃を入れた。
その手つきは、驚くほど鮮やかだった。刃は、獣の分厚い皮と筋肉を、まるで絹を切るかのように滑らかに切り裂いていく。アリシアは、無駄のない流れるような動作で、部位ごとに肉を切り分け、骨から剥がし、あっという間に巨大な獲物を調理しやすい塊に変えていった。彼女の銀髪は、集中によって微動だにせず、その青い瞳は、肉の繊維と構造を正確に捉えていた。その姿は、まるで熟練の料理人というよりも、神聖な儀式を執り行う巫女のようでもあった。
エリスは、アリシアの見事な包丁さばきに、驚きを隠せなかった。彼女は、深海の瞳を丸くして、深く感心したように呟いた。
「ほう…見事じゃな。まるで剣舞でも舞っておるようじゃのう。」
アリシアは、エリスの純粋な感嘆の言葉を聞き、ニコッと笑顔を返した。その笑顔は、褒められた喜びと、自分の特技を見せつけられた満足感に満ちていた。彼女の顔には、もう先ほどの体調不良の影はほとんど見えなかった。彼女自身も、この料理という創造の行為を、心から楽しんでいるようだった。
その時、湖畔の木々が立ち並ぶ森の入り口から、二つの人影が現れた。息を切らせながら戻ってきたのは、キスティーとギルだった。
キスティーは、両腕いっぱいに乾燥した薪を抱え、その頬は寒さと運動で真っ赤に染まっていた。彼女の白い息が、抱えた薪の隙間から勢いよく漏れ出している。
ギルは、キスティーよりもさらに重そうな荷物を持っていた。彼の分厚い胸板と腕には、かまどを作るための大小さまざまな石が、ぎっしりと抱えられていた。その重さにも関わらず、彼の表情は、もうすぐ食事にありつけるという期待で満ちていた。
「アリシア!薪持ってきたよ!ギルは石いっぱい!」
キスティーは、喜びと達成感に満ちた声で、アリシアに報告した。彼女は、アリシアの元気な様子と、さばかれた「熊」の肉を見て、さらに安堵の笑みを浮かべた。
アリシアは、切り分けた肉の塊に視線を落としながら、楽しげに二人に指示を出した。
「ギル!キスティー!かまど作って火起こしして。私はこれから味付けをするから。」
キスティーは、アリシアが完全に元気になった様子を見て、ニコニコと笑い、力強く頷いた。
「任せて!」
一方、ギルは、鮮やかにさばかれた「熊」の肉の山を見て、思わず生唾を飲み込んだ。
「すげーな。全部食うぞ!」
彼は、すでに食事のことしか頭になく、よだれがわずかに口の端から漏れそうになるのを必死でこらえていた。
ギルは、空腹に耐えながら、せっせと持ってきた石を配置し、かまどの形を正確に作り始めた。
キスティーは、ギルがかまどを組み立てるのを見届け、抱えてきた薪を丁寧に焚べた。そして、火起こしに取り掛かるため、小さな手に魔力を集中させた。
ギルは、過去の経験から、キスティーの大雑把な魔力制御を警戒し、釘を刺した。
「おい…加減しろよ?絶対だぞ!」
キスティーは、ギルの過保護な忠告に、口を尖らせて反論した。
「もう!大丈夫だってば!見てて……」
彼女は、自信満々にそう言い放ち、焚き付けに火をつけようと火魔法を放った、まさにその時だった。
「ほら!うまくいっ……は……はっくしゅんっ!」
魔法がうまく制御できたと思った矢先、予期せぬくしゃみが彼女を襲った。
その瞬間、キスティーの制御を失った火魔法は、焚きつけを超え、轟音と共に目の前で巨大な火柱となって立ち上がった。雪景色の中で、赤とオレンジの炎が荒々しく雪を焦がす。
ギルは、反射的に顔を覆い、怒鳴りつけた。
「うわぁぁぁぁ!キスティー!!お前なぁ!」
彼の顔には、いつもの呆れと慣れからくる疲労が入り混じった表情が浮かんでいた。
キスティーは、鼻をすすりながら、苦笑いを浮かべた。
「ごめーん!アリシアの風邪移ったのかな…くしゅんっ!」
彼女の鼻からは、鼻水がわずかに流れ出してきた。キスティーは、ギルに怒鳴られながらも、鼻をすすり煤まみれにながら、再度火をつけるのであった。




