第120話 勝ちでも負けでもどっちでもいいけどよ
アリシアとエリスの周りには、先ほどの極大魔法の衝突と消滅によって、一瞬で奇妙な静寂が訪れていた。エリスは、優しさに満ちた瞳で、アリシアの小さな体をしっかりと抱きしめていた。アリシアの激しい嗚咽は、エリスの冷たくも、包み込むような温もりの中で、徐々に震えが治まり、静かなすすり泣きへと変わっていった。
エリスの体温は氷のように冷たいが、それが逆に高熱で朦朧としていたアリシアの頭を優しく冷やし、少しずつ意識をクリアにしていった。
その静寂を破って、息を切らせたキスティーが、雪の斜面を駆け上がってやっとの思いで到着した。彼女の顔は、激しい不安と焦りで歪んでいた。
キスティーは、轟音の原因も、雪煙も、巨大な火球が消えたことも理解できないまま、エリスがアリシアを抱きしめている光景を目にした。
「何があったの?アリシア?大丈夫?お姉さん!」
キスティーは、動揺しながらも、エリスに恐る恐る尋ねた。
エリスは、アリシアを抱きしめたまま優雅に振り返り、静かに答えた。
「大丈夫じゃ…少し熱が上がりすぎたんじゃよ。冷やしておるのじゃ。」
その声は、慈愛に満ちており、先ほどまで規格外の力で火球を消し去った『人外』とは、まるで別人のようだった。
キスティーは、エリスの言葉を半分も理解できないまま、先ほどの恐ろしい出来事を申し訳なさそうに口にした。
「あの…すごい音と…その、たぶんアリシアがなんか大きなの空から落としたり、火の玉もきっとアリシアだよね…」
彼女は、全てがアリシアの仕業であることに疑いを持っておらず、自分が体調不良のアリシアを遊びに連れ出した責任を感じていた。
エリスは、抱きしめているアリシアの頭を優しく撫でながら、微笑んで言った。
「そうじゃのう。この負けず嫌いのやったことじゃ。この通り反省しておる。」
エリスに抱きしめられ、静かに涙を流しているアリシアを見て、キスティーは激しく反省した。彼女は、深々と頭を下げた。
「お姉さん、ごめんなさい!アリシアこんな状態なのに連れてきて、こんなにしてしまって…」
エリスは、アリシアの顔を優しく撫でて、キスティーに優しく、しかし真摯な言葉を投げかけた。
「そうじゃな…。体調が悪いなら、まずは気遣ってやることじゃ。遊びたいのは分かる。でも友達の健康が第一じゃ。何かあってからでは遅いのじゃ。ずっと一緒にいたいのじゃろう?なら、尚更じゃ。」
その言葉は、キスティーの心に深く刻まれた。彼女は、エリスの優しさに感動した。
「うん!アリシアとずっと一緒にいるから、絶対そのこと忘れないようにするね!ありがとう、エリスさん!」
キスティーは、心からの笑顔を浮かべた。エリスも、それを見て穏やかに微笑み返した。
アリシアは、泣き止んでいた。エリスの抱擁によって心が落ち着き、冷たい魔力で熱が少し下がったことで、体も楽になっていた。彼女の目に、心から安堵したキスティーの顔が映った。
「キスティー…ごめんね。負けちゃった。」
アリシアは、舌をペロッと出して、負け惜しみと照れ隠しを込めて軽く笑った。
キスティーは、そのいつものアリシアの顔を見て安心し、笑顔で返した。
「えー!負けたの?残念…ふふ。楽しかったね!」
アリシアは、キスティーの言葉と、全てを受け止めてくれたエリスの深くて綺麗な優しい瞳を見て、心からの感謝を感じた。
「うん!楽しかった!ありがとう、エリスさん!」
アリシアは、さらに強くエリスを抱きしめ返した。温かい時間が、凍てついた湖畔に流れた。
そこに、最後にギルが到着した。彼は、重たい靴で全力で走ってきたため、激しく息を切らせながら、雪の上に手をついた。
「はぁ…はぁ…、やっと着いた…アリシア、お前何かしてただろ?ヤバいのやめろって!生きた心地しねーぞ!」
ギルは、アリシアへの心配と、極度の疲労が入り混じった不満を爆発させた。
アリシアは、笑いながら応えた。
「大丈夫よ。ギルなら死なないわよ。ふふ。」
キスティーも、そのいつもの会話に安心し、一緒に笑った。
ギルは、ようやく落ち着き、エリスがアリシアを抱いているのを見て、勝負の決着がついたことを理解した。彼の頭の中は、空腹で食べること以外何も考えられなくなっていた。
「まあ、勝ちでも負けでもどっちでもいいけどよ。みんな無事だし。腹減って限界なんだよ。『熊』食おうぜ!」
ギルの純粋で能天気な一言は、張り詰めていた空気を打ち消した。アリシア、キスティー、そしてエリスも、つられて笑った。
エリスは、アリシアを優しく雪の上に降ろし、楽しげに言った。
「戻るかのう。我も馳走になろうかのう。」
アリシアとキスティーは、エリスが一緒に食事をしてくれると聞いて、さらに喜び、顔を輝かせた。
ギルは、生き生きとした表情を取り戻し、テキパキと指示を出した。
「それなら早く行こうぜ!アリシア!料理よろしく!キスティー!薪取りに行くぞ!」
ギルの前向きな姿勢に、またみんなが笑い、三人はエリスと共に、来た道を戻っていった。湖畔には、和やかな笑い声の余韻が残った。
一方、その温かい光景から完全に隔絶された場所に、一撃で全身傷だらけになったクロエは、一人取り残されていた。誰も、彼女の存在に気づきさえしなかった。
クロエは、まるで雪の彫像かのように、折れた聖剣を両手で握りしめたまま、雪の上に膝をついてたたずんでいた。彼女の心は、屈辱、絶望、そして自責の念で凍りついていた。
そこに、レイエスが焦りの表情で合流した。
「クロエ無事か?生きているか?何があった?」
レイエスの心配する声が、クロエを徐々に現実へと引き戻した。
クロエは、体を震わせながら、震える声で報告した。
「…レイエス…殿下…は!申し訳ありません。『人外』は手に負える相手ではございませんでした。…あと子供も…」
レイエスの表情は、諦めにも似た優しさを帯びていた。
「すまない、私が無理を言った。アリシアが相手をしていたのだ。他の誰かが倒せるはずがあるまい…」
レイエスは、アリシアの規格外の力と、エリスの神にも等しい力を目の当たりにし、戦いを挑んだ自らの浅はかさを悟っていた。
騎士団長は、クロエの報告を聞きながら、彼女の傷だらけの様子を目にし、心配の表情を浮かべた。彼の絶望は一旦脇に置かれ、仲間への優しさが前面に出た。
「クロエ!お前傷だらけではないか?すぐに治療をせねば!殿下、話はあとにいたしましょう!まずは手当が先です。」
レイエスも、クロエの傷だらけの状態を見て、すぐに同意した。
「そうだな。これはひどい。すぐに拠点まで運べ!」
クロエは、全身の痛みと罪の意識で、レイエスの優しい言葉も耳に入らない状態だったが、最後の力を振り絞って、最も重要な報告をした。
「殿下…申し訳ありません。聖剣が…聖剣が折れてしまいました…。その…『人外』ではなく…女の子に折られました…」
その言葉に、レイエスと騎士団長は、同時に、小さく呟いた。
「アリシアか…」
レイエスは、深い溜息をつきながらも、今はそれどころではないと、クロエの治療を優先させた。
「今は何も気にするな!早く治療だ。」
騎士団長は、聖剣の破壊という絶望的な事実を一瞬で振り払い、クロエに向かって駆け寄った。彼の顔には、苦渋と仲間への深い愛情が混ざった表情が浮かんでいた。
「クロエ!すまんな、少し痛いかもしれんが抱えるぞ。」
騎士団長は、迷うことなく、クロエを軽々と抱き上げた。それは、騎士の礼節を超えた、優雅で丁寧な、お姫様抱っこだった。
荷物のように背負われるとばかり思っていたクロエは、予想外の行動に顔を真っ赤にした。
「え?え?あ、あの…あ…えー…と…その…ありがとう…」
彼女は、体中が軋むような痛みを感じながらも、騎士団長のたくましい腕の中に抱えられ、恥ずかしさと、彼を慕う気持ちからくる嬉しさ、愛情、そして温かい安堵を同時に感じて、安心して身を委ねた。
騎士団長は、大事な仲間の体をそっと抱きかかえて、一歩一歩、戦場から遠ざかっていった。彼の心は、今だけは、絶望的な使命から、クロエを守るという小さな、しかし確かな使命へと変わったのだった。




