第119話 バカ者!
アリシアは、極大魔法の極度の疲労と、体調不良による高熱で、もはや何も考えられなくなっていた。彼女の視界は揺らぎ、頭の中は真っ白な霧に覆われていた。
「もう!わかんなーーーい!」
アリシアは、苛立ちと無力感を爆発させ、雪の上に崩れ落ちそうになった。
エリスは、アリシアの限界を察しながらも、さらに挑発することで、彼女を奮い立たせようとした。
「もう終わりか?大した事ないのう。」
エリスの言葉は、まるで冷たい氷片のようにアリシアの心に突き刺さった。
アリシアは、疲労と、高熱で意識が朦朧とする中、エリスの挑発を受けて、訳が分からなくなり、理性が完全に吹き飛んだ。何の考えも浮かばず、ただ目の前の強大な存在を打ち負かしたいという本能的な衝動に駆られた。
「…もう…もうどうにでもなれ!」
アリシアは、最後の力を振り絞るように、再び極大魔法を放つ体勢で、両手を上空に掲げた。しかし、彼女の魔力制御はすでに限界を迎えていた。体内の暴走する魔力は、彼女の意図とは全く異なる属性の極大魔法を生み出した。
エリスの上空に、轟音と共に灼熱の火の極大魔法が瞬時に生成された。それは、アリシアの意図していた魔法ではなく、制御を完全に失った魔力の暴走を意味していた。巨大な火球は、雪景色の中で不気味な赤とオレンジの光を放ちながら、落下を始めた。
エリスの顔から、一瞬にしてすべての笑顔が消え去った。彼女の深海の瞳に、初めての明確な怒りが宿った。
「バカ者!何を放っておる!ここにおるのは我だけじゃないぞ!」
エリスの激しい怒声が、アリシアの意識を僅かに引き戻した。アリシアは、上空の巨大な火球を見て、自分が犯した過ちを理解した。しかし、時すでに遅し、火球は加速しながら落下していた。
「え…私…わたし……ど、どうしよう…」
アリシアの瞳から、恐怖と後悔の涙が大粒となって溢れ出した。彼女は、「遊び」のつもりが、取り返しのつかない大惨事を引き起こしたことに、激しく動揺した。
エリスは、アリシアの涙と混乱を見て、大きくため息をついた。彼女の怒りは、すぐに深い諦念と使命感へと変わった。その表情は、遊びの氷の女王ではなく、長年この地を見守ってきた守護者のそれだった。
「ふう…仕方ないのう…」
エリスは静かにそう呟き、右手を上空の火球に向かって掲げた。その時、彼女の右腕にわずかな銀色の光が走った。それは、この地を守るために右腕に長年集約してきた魔力の一部が、一瞬だけ解放された証だった。
次の瞬間、常識では考えられない光景が展開した。
灼熱の巨大な火球は、エリスの右手の魔力に触れた途端、瞬時に青白い氷の膜に覆われ、活動を停止した。そして、そのまま音もなく粉々に砕け散った。
『人外』と呼ばれていたエリスは、ただこの地を守っている存在であり、危害を加えるような悪さをするものではなかった。彼女は、土地神に近い、自然の均衡を保つ役割を担っていたのだ。
アリシアは、呆然と、その信じがたい光景を見ていた。火球の熱も、高熱による視界のゆがみも、すべてが消え去った。
エリスは、静かに右手を下ろし、ゆっくりと、しかし確かな足取りでアリシアに歩いて近づいた。その表情には、もはや挑発の色はなかった。
エリスは、アリシアの目の前に来ると、静かに左手を持ち上げ、アリシアの紅潮した頬を強く叩いた。
パチンッ!
その衝撃音は、静寂を取り戻した湖畔に鋭く響き渡った。アリシアは、一瞬世界が止まったかのように、目を大きく見開いたまま硬直した。
一拍おいて、涙が再び溢れ出すのと同時に、アリシアの口から、堰を切ったように、激しい嗚咽と共に声が上がった。
「うぁああああん!!」
エリスは、冷静な、しかし優しい声で、アリシアに語りかけた。
「お主、あんなものをここで落としたら、すべて吹き飛んでしまうぞ…。自分の力が分からぬ訳があるまい。湖には友達もおるのだぞ。巻き込んで、みんないなくなってしまったらどうするのじゃ?」
その言葉は、叱責ではなく、深く愛する者への諭しだった。
アリシアは、ただ泣きじゃくることしかできなかった。自分の身勝手な行動が、どれほど危険だったかを深く理解し、反省した。
エリスは、泣き崩れるアリシアを見かねて、優しく抱きしめてあげた。彼女の体温は、氷のように冷たかったが、その抱擁は温かい安堵をアリシアにもたらした。
「遊びじゃと申したであろう?お主が強いのは分かっておる。我も挑発しすぎたかの。大人げなかった…楽しくてな。…すまぬな、アリシア…」
エリスは、優しく、慈愛に満ちた声で、アリシアの名前を呼んであげた。
アリシアは、エリスに抱きしめられながら、嗚咽混じりに謝罪した。
「……ぐすん…ごめんなさい…お姉さん…」
エリスは、優しく微笑んで、アリシアの銀髪を撫でた。
「もう良い…楽しかったぞ…ありがとう、アリシア。」
エリスは、仲直りの証として、もう一度深くアリシアを抱きしめた。湖畔には、雪解けのような静けさと、優しい抱擁だけが残った。
クロエは、アリシアが火の極大魔法を放った瞬間、すべてが終わったと心の底から思った。自分の無力さと、聖剣の破壊という絶望的な失態が、彼女の意識を極限まで追い詰めていた。
それが、エリスの右手一本で凍りつき、粉砕された時、彼女の思考は完全に停止した。
(な、何が起きた…?あれほどの火球が…一瞬で…?)
クロエは、自分がなぜ今生きているのかさえ分からず、ただ呆然と立ち尽くした。言葉など一切出ない。自分の力が、目の前の「人外」の存在とは、天地ほどの差があることを痛感し、全身の力が抜けていくのを感じた。
(この者たちは…触れてはいけない存在だ…)
彼女は、畏怖と無力感に打ちひしがれていた。
レイエスもまた、森の木々の隙間から、立ち尽くしていた。彼の頭の中は、混乱と疑問で溢れていた。
「あれは…何だ?火が消えた…巨大な火球だぞ…どこへ行った?」
彼の知るすべての法則が、目の前で打ち破られていた。
騎士団長は、絶望の淵で、膝から崩れ落ちそうになるのを必死でこらえ、かすれた声で報告した。
「おそらく、あそこにいるアリシアと『人外』と思われる者の仕業であるのは明確ですが、どのようになったのかまでは分かりません。知るのは危険すぎます…」
彼の精神は、既に限界だった。彼の報告は、冷静な状況判断ではなく、恐怖からくる警告だった。彼は、極大魔法の応酬、そして火球の消滅という一連の出来事から、命の危機を感じていた。彼の忠誠心は、生きたいという本能と、殿下を守るという使命の間で、激しく軋んでいた。彼の目の前で繰り広げられた光景は、彼にとって耐え難いほどの心労となっていた。




