第117話 ご命令とあれば
アリシアとエリスの「遊び」は、もはや「雪合戦」という「遊び」では収まらない、規格外の魔力衝突となっていた。体調不良など、アリシアの意識から完全に消え去っていた。彼女の全身を駆け巡る高揚した魔力と、エリスへの燃えるような闘志が、彼女の微熱をさらに引き上げ、頬を紅潮させていた。
アリシアは、凍てついた湖畔の雪の上を、狐のように軽快に駆け回っていた。その足取りは、一瞬たりとも止まることなく、エリスの周囲を円を描くように高速で旋回する。彼女の長い銀色の髪が、その動きに合わせて激しく舞い上がり、雪煙となって視界を惑わせる。
対するエリスは、優雅に、しかし圧倒的な余裕をもって、その場に立っていた。彼女の純白のショートパンツスタイルと引き締まった肢体が、極寒の中で静謐な美しさを放っている。深海の瞳には、アリシアの目にも止まらぬ高速移動が、まるでスローモーションのように映っているようだった。
「狐娘!駆けてるだけじゃ倒せぬぞ。かかってこぬか。」
エリスは、口元に微笑みを浮かべ、挑発的な言葉を投げかけた。その声には、彼女の自信と、アリシアの力を引き出したいという純粋な期待が滲んでいた。
「そんな事分かってるわよ!おばさん!」
アリシアは、その挑発に乗るかのように、叫び返した。彼女が「おばさん」という言葉を発した直後、エリスの死角となる背後から、強化氷玉が凄まじい速度で投げつけられた。それは、アリシアが湖面から切り出した氷を、鉄よりも硬く硬化させ、さらに風魔法で超加速させた、正真正銘の魔弾だった。それと同時に気付かれぬように、上空に複数の氷玉を投げて留め用意した。
エリスは、氷玉が背中に当たる寸前で、まるで予期していたかのように、滑らかに体を捻ってかわした。しかし、アリシアの攻撃はそれだけでは終わらない。間髪入れずに、二個、三個と、後続の氷玉が、エリスの顔面と胴体を目掛けて放たれた。
エリスは、かわすことなく、優雅に左腕を振り抜いた。
ガキンッ!ガキンッ!
硬質な衝突音と共に、二つ目と三つ目の氷玉は、エリスの左手で叩き落とされた。氷玉は粉々に砕け散り、その破片がキラキラと光を放つ。
エリスの顔から、一瞬にして余裕の表情が消え去った。彼女は、左手首を微かに震わせながら、アリシアに向き直った。
「お主、やはり強いのう。この痺れ…いつぶりかのう…楽しくなるわ。」
エリスは、すぐに豪快に笑いながら、その痺れの久しぶりの感覚に高揚した。彼女の深海の瞳は、さらに熱を帯びてキラキラと子供のように輝き始めた。
アリシアは、エリスの手の痺れという明確な手応えを得たにも関わらず、すぐに言葉のナイフを投げつけた。
「いつぶり?思い出せないの?やっぱり年取りすぎよ!物忘れ外来オススメするわ!薬はわたしの家の薬売ってあげる。そもそも痺れって何?手足の痺れは老化の始まりよ!おばさん!」
彼女の言葉は、まるで氷のように冷たく、エリスの弱点である「年齢」を執拗に攻め立てた。
その言葉を聞いた瞬間、エリスの口元の笑みがピクッと引きつった。彼女の全身の魔力が、わずかに、しかし明確に揺らいだ。彼女の銀色の髪の毛が、静電気を帯びたように逆立つ。
「まあよい。童の言う事よ…」
エリスは、その怒りを深いため息で抑え込んだ。そして、静かに左の手のひらを掲げた。その掌には、凍てついた湖面から瞬時に切り出された、無数の鋭利な氷玉が生成されていた。彼女は、それをアリシアに向かって放とうとした。
アリシアは、エリスが攻撃に移るその一瞬の、防御に隙が出来る刹那を待っていた。エリスが左手を振り下ろした、まさにその「間」を捉え、アリシアもまた、右手を天に向かって勢いよく振り下ろした。
「かかったわね!おばさん!」
アリシアが事前に上空へと投げておいた複数の強化氷玉が、その合図と共に隕石のようにエリスの頭上へ向かって一斉に落下し始めた。それは、アリシアの周到な準備と、勝利への執念が実った瞬間だった。
エリスは、アリシアに氷玉を放ったのと同時に、頭上からの恐るべき魔力の気配を察知し、驚愕に目を見開いた。
「なっ!?」
彼女の驚きの声は、降り注ぐ氷玉の轟音に掻き消された。
ダダダダダダダダッ!
エリスに降り注いだ氷玉は、辺り一帯を白い雪煙で覆い尽くした。氷と氷、魔力と魔力の衝突によって、凄まじい衝撃波と轟音が、湖畔の静寂を打ち破った。
一方、アリシアもまた、エリスが放った超高速の氷玉をかわしきれなかった。彼女は、咄嗟に薄い氷の傘を頭上に展開したが、エリスの純粋な魔力によって強化された氷玉は、その防御を容易く貫き、彼女の体に容赦なく命中した。
「きゃ!痛ーい!もう!」
アリシアは、小さく悲鳴を上げ、全身に走る激しい衝撃に、雪の上に体勢を崩した。彼女の体調不良は、この一瞬のダメージで再燃したかのように、荒い息遣いとなって現れた。
アリシアたちの雪合戦の轟音と、氷玉による雪煙は、湖を迂回して進んでいたレイエス一行の視界に、ついに捉えられた。
レイエスは、雪煙が渦巻く凄まじい光景と、そこから伝わる異常な魔力の波動に、思わず息を呑んだ。
「なんだ?あれが『人外』か…近づかなくても危険なのが感じられるな…」
彼は、一瞬、その圧倒的な力の前に、王族としての本能的な危機感と、恐怖から尻込みしそうになる。
傍らで、騎士団長は、雪煙が渦巻く光景を、精神的な混乱の極致で見ていた。彼の頭の中は、レイエスの信頼の言葉と、眼前の絶望的なまでの脅威によって、雪景色と同化するほど真っ白だった。彼の体は、疲労と心労で鉛のように重い。
「殿下…あれと戦うのですか…私はお勧めは致しません。戦うのであれば、態勢を立て直し、軍勢を率いて討伐するのがよろしいかと…」
騎士団長の声は、もはや懇願ではなく、最後の理性の糸で絞り出した形式的な進言だった。彼の心は、すでに「殿下を守りぬき死ぬ」という、絶望的な決意へと傾きかけていた。
レイエスは、騎士団長の進言を理解しつつも、王族としての使命感がそれを上回った。
「それは分かる…分かるが、情報収集だけでもせねば対策も立てられまい。クロエ、いけるか?」
レイエスは、この中で腕の立つもの、行軍の指揮をしている、冷静な副司令官であるクロエに命じた。
クロエは、その光景の美しさと危険性に驚きながらも、すぐに指揮官としての冷静さを取り戻した。
「は!…ご命令とあれば。交戦してまいります。」
彼女は、雪煙の向こうにいる「人外」の力を恐れつつも、職務への忠誠心で迷いを断ち切った。
レイエスは、クロエの献身的な姿勢に感謝の念を抱き、優しく言葉をかけた。
「すまないが頼む。その間、騎士団長は私の護衛に専念してくれ。頼りにしているよ。」
このレイエスの「頼りにしているよ」という一言が、騎士団長の頭の中に響き渡る。彼の思考は停止し、もはや感情を伴わない返答しかできなかった。
「は!…」
彼は、形式礼の一言だけを絞り出し、その場に硬直したまま立っていた。彼の心の中には、「私は盾とならねばならない」という、鋼の呪縛だけが残っていた。
レイエスは、国家の危機という最優先事項を前に、さらに続けた。
「クロエ、書物で読んだのだが、『人外』は、普通の剣では傷つかないらしい。本当かは分からぬが。これを使え。」
レイエスは、腰に携えた立派な意匠の剣を、クロエへと差し出した。それは、王族が代々管理してきた、特別な魔力を帯びた剣だった。
クロエは、その剣を見た途端、驚愕のあまり息を呑んだ。
「これは…数本しか存在しないと言われる、王室管理の聖剣ではありませんか!良いのですか?」
その剣は、伝説的な存在であり、王国の至宝とも呼べるものだった。
レイエスは、静かな決意を瞳に宿して頷いた。
「書物の情報が正しければ、それでしか倒せないらしいからな。頼んだぞ。」
クロエは、その重い使命と信頼を胸に、深々と礼をした。彼女の顔には、緊張と、そして歴史的な戦いに挑む覚悟が浮かんでいた。クロエは騎士団長のたくましい姿を確認し、優しく微笑んだ後、聖剣を手に、彼女は雪煙の上がる戦場へと、静かに参戦していった。
レイエスは、クロエが戦場へ向かうのを見届け、再びやる気をみなぎらせた。
「さあ、我々も行けるところまで進もう。」
その言葉に、騎士団長は遠い目をしていたが、ふと、その視線の先に映る、雪煙の中にいる小さな人影に、意識を集中させ始めた。
「………あれは……人?子どもか?銀髪…」
騎士団長の疲弊しきった心に、鋭い針のような嫌な予感が突き刺さった。その銀髪は、彼が見知っている子どもの特徴にあまりにも酷似していた。彼の胃が、キリキリと悲鳴を上げ始めた。
ついに、騎士団長の不安と絶望のもと、アリシアとエリスの規格外の雪合戦に、クロエが参戦することとなった。




