第113話 殺す気なの?
湖の対岸では、エリスが涼しい顔で氷の椅子とテーブルを創り出し、冷たいガラスの器に氷菓を並べていた。エリスは、まるで暖炉のそばでくつろぐように優雅に座り、透き通る琥珀色の液体が注がれたグラスを傾けた。
「ふむ、今年の茶葉はなかなか良くできておるな。香り高くて、氷出しティーにもってこいじゃ。」
彼女の表情はとても満足げだった。深海の瞳を細め、その氷のような唇の端に微かな笑みが浮かぶ。彼女にとって、この「雪合戦」は、長きにわたる退屈を破る、ささやかな娯楽でしかなかったのだろう。
「さて、音が聞こえてきたのう、始まったか。久しぶりの遊びじゃ。楽しまねばな。」
エリスは不敵に笑う。彼女の目には、湖面で奮闘するキスティーとギルの姿が映っていたのだろう。彼女は、彼らの雪玉が、自らが創り出した氷の巨体に全く通用していないことを把握していた。
一方、森の奥。アリシアは、体調不良による微熱と、エリスへの怒りが混じり合い、魔力の制御が乱れがちになっていた。彼女の全身の感覚は研ぎ澄まされていたが、その感情は沸騰寸前だった。
「はぁ…はぁ…くしゅんっ!もう、くしゃみまた出てきちゃった。寒すぎなのよ!どれもこれもあのおばさんのせいね!退治よ!」
彼女は、雪を蹴散らしながら、エリスの隠れている場所の近辺へと到達していた。雪化粧した針葉樹の暗がりの中、彼女の銀髪だけが不気味に光っている。
「そろそろね…慎重に。」
息を殺して警戒するその時、足元で、何か細いものがプツ…と微かに切れる音がした。それは、エリスが仕掛けたの感知罠だった。
次の瞬間、アリシアの意識が追いつくより早く、四方八方から、氷の弾丸と化した雪玉の嵐が殺到した。それは、エリスがアリシアの魔力を知った上で、本気で彼女を「ノックアウト」しようと放った、容赦ない猛攻だった。
「え!?何これ?…くしゅんっ!」
アリシアは、咄嗟に魔力を集中させ、傘のように周囲に氷の壁を展開した。
ドドドドドドッ!
轟音と共に、氷の壁が雪玉の連弾を受け止める。その衝撃は凄まじく、氷の傘全体が大きく軋み、衝撃波でさえアリシアの体を激しく揺さぶった。彼女は冷や汗をかきながら、壁の向こうの猛攻を耐え抜いた。
「…え?おばさん…ほんとに私、殺す気なの?この威力、普通なら一発でもノックアウトものよ…それが連弾でって…普通の人なら死ぬレベルよ!」
彼女は荒い息を整える間に、内側から湧き上がる怒りに身を震わせた。制御が乱れている証拠に、彼女の魔力は感情のままに暴走し始める。
「何?子供相手にこれ?大人げない…、そんなにおばさんって言ったの気に入らないの?絶対許さない!あのばばあ!」
アリシアは微熱だったものが、かなり上がっており、ムカつけばムカつくほどに、色々制御ができなくなってきた。魔力も言動も。彼女は、エリスの魔力が感じられる方へ、一気に駆け出した。
湖近く森の中、レイエス一行は、湖の方向から絶え間なく聞こえてくる異常な轟音と衝撃波に晒されていた。騎士団長は、その音の度に、顔面蒼白な上にさらに青ざめ、周囲を見回していた。
「殿下…これでも進むのですが?命をかけてお守り致す所存でありますが、万が一…万が一、私が命を落とした後、誰が殿下をお守りできましょうか…」
騎士団長の声は、もはや疲労でかすれ、その一言一言に、自身の無力さと、殿下を守りきれないかもしれないという深淵の恐怖が滲んでいた。彼の精神は、肉体の疲弊以上に、極限まで追い詰められていた。
レイエスは、剣を雪に突き立てた騎士団長の肩を、力強く叩いた。
「大丈夫だ。そなたは強い。死ぬことなどあろうか。必ず生きて私を守ってくれると、信じているよ。」
その信頼の言葉が、騎士団長にとっては、撤退を許さない鉄の枷となった。彼は、理性を保つ最後の糸が切れそうになりながらも、涙を流して応じた。
「はっ!必ずや…お守りいたします…」
遠い目をし、彼は悟った。これ以上、進言することは、無意味であり、ただ殿下の命令に従うことこそが、今の彼に課せられた絶対の義務であると。彼の忠誠心は、絶望的なまでの献身となって、彼の体を支えていた。クロエはそんな騎士団長を優しく見つめていた。
その時、クロエが鋭く反応した。彼女の剣が一閃し、氷の破片が切り裂かれる。それは、キスティーたちと遊んでいるアイスゴーレムの軌道から外れた流れ弾だった。
「殿下…!『人外』の湖の氷の湖面に人影と大きな氷の何かがいます…交戦中です!」
クロエの冷静な報告に、レイエスは迷わなかった。
「『人外』か?行こう。『人外』であれば、国家の危機だ!対処を!」
クロエは正面からはさすがに危険と感じ、森の中を迂回することを提案し、レイエスは頷いた。
騎士団長は、蒼白な顔で、凍てついた空を仰いだ。彼の目には、自分が殿下の盾となり殉職する未来が映っていた。重い足取りで、彼は再び雪を踏みしめ始めた。




