第104話 遅いー!
魔獣の森の奥深くに位置する凍てついた湖面では、アリシアとキスティーが、自分たちの秘密基地作りに熱中していた。
二人は、アリシアが切り出した巨大な氷のブロックを、せっせと積み上げ始めた。魔法で軽く強化されているとはいえ、その氷塊は子供の体には重すぎる。
「ふぅん、ふぅん…! よいしょ、っと!」
キスティーは、自身の身長ほどもある氷のブロックを、両手で懸命に持ち上げ、アリシアが指定した位置に、ドンッと音を立てて積み上げた。頬は寒さで真っ赤に染まり、吐く息は白い煙となって空に昇るが、その瞳は期待に満ちてキラキラと輝いている。
「ね、アリシア、どのくらいの大きさの作るの?なんか、いっぱい切り出したよね。」
キスティーは、次のブロックを運ぶために戻りながら、楽しげに問いかけた。その声は、広大な銀世界に響き渡る。
アリシアは、氷ブロックの角が綺麗に合うように調整しながら、鼻をすすって答えた。
「そうね。前のはギルが入ったら狭かったもんね。だから、三人が十分くつろげるくらいにしようかなって。…くしゅんっ! ほら、キスティー、そこじゃなくて、もうちょっと右よ。ちゃんと置かないと崩れちゃうわよ。」
アリシアは、少し雑なキスティーの置き方に、指一本で正確な位置を指示する。彼女は厚手のウール素材の服を重ね着しているにも関わらず、寒さで体が強ばっているように見えた。銀色の長い髪の一部が、冷たい風にさらされ、氷の輝きと同化している。
「はーい!」
キスティーは元気よく返事し、再び重い氷塊と格闘する。
「それにしてもギルまだかな〜? 力持ちのギルがいれば、すぐ終わるのに!」
キスティーは、作業の合間に、心底待ち遠しそうな声を上げた。
アリシアは、氷ブロックの間の隙間を、圧縮した雪で埋めながら、小さく息を吐いた。
「そうね。こういう作業はギルがいればすぐ終わるのにね。…くしゅんっ! 全く、本当に遅いわ。」
その言葉は、友情と、彼女の体調不良からくる苛立ちが混じっていた。
しばらく作業を続けると、アリシアの動きが止まった。彼女は、急に体の芯からくる疲労に襲われたかのように、へたり込んだ。
「キスティー…疲れたわ…休みましょう。…はぁ…」
彼女は、ショールに顔を埋め、呼吸を整える。くしゃみと寒さ、普段しない肉体労働の疲れが一気に彼女を襲ったのだ。
キスティーは、その様子を見て、すぐに氷ブロックから離れ、心配そうにアリシアの顔を覗き込んだ。
「アリシア、やっぱり調子悪くない? 風邪ひいたんじゃないの?無理しちゃだめだよ?」
キスティーの目には、心からの心配が浮かんでいた。
アリシアは、無理に口角を上げて微笑む。
「…くしゅんっ! くしゃみだけよ。心配しないで。すぐ治るわ。ただ、ちょっと寒いのよ。」
その言葉とは裏腹に、彼女の顔色は青白い。
キスティーは、そんなアリシアを見て、自分のリュックへと手を伸ばした。彼女の大きなリュックの中には、もちろん大量のお菓子が詰まっている。
リュックから取り出したのは、町のいつものお菓子屋さんの、色とりどりのすごく甘いアイシングクッキーだった。銀世界に鮮やかな色彩が広がる。
「アリシア!これ食べよう! 甘いの食べたら元気が出るよ! おばあちゃんが言ってた、元気の素だよ!」
キスティーは、屈託のない笑顔で、クッキーを差し出した。
アリシアは、その温かい心遣いに、顔を緩めた。
「ありがとう。…くしゅんっ! いただくわ。確かに、甘いものは正義ね。」
二人は、凍てついた氷の上で、向かい合ってクッキーを食べ始めた。一口食べると、濃厚な甘さが疲れた体に染み渡り、寒さを一時忘れさせてくれた。
その穏やかな休憩の最中、二人が来た森の奥の方向から、雪を踏みしめる重々しい音と、何かを引きずるような音が聞こえてきた。音は、次第に大きくなる。
二人は、クッキーを食べる手を止め、音のする方を振り向いた。
「なに?」
アリシアが、鼻をすすりながら警戒の声を上げた。
やがて、木々の間から見えてきたのは、先ほどキスティーが土の壁で潰したはずの、巨大なアイアンブラッドベア。その鉄色の巨体が、よろめきながらもこちらに向かってきていた。
「え…」
アリシアの瞳が大きく開く。彼女の記憶では、あの魔獣は完全に埋もれたはずだった。
二人は顔を見合わせ、「またなの?」という表情を浮かべ、仕方ないと思い、もう一度壁を作ろうと身構えた、まさにその時、魔獣の元から、荒々しい、しかし聞き慣れた少年の声が響いた。
「お、おい!俺だ俺だ!見りゃわかるだろ?何しようとしてんだよ!?あぶねぇなぁ…」
アイアンブラッドベアは、その声に反応するように前へと押し出された。
そして、魔獣の背後にいた人物が、その姿を現した。それは、雪と土でで汚れた分厚い使い込まれた毛皮を羽織ったギル、その人だった。彼は、巨大な魔獣の体を、特に重たい気配もなく、力強く抱え上げていた。魔獣は息絶えているのか、ギルの腕の中でぐったりとしていた。
ギルは、魔獣を軽々と抱えたまま、大きなため息をついた。
キスティーは、目を丸くした後、すぐに破顔した。
「あ!ギル!遅いー!もう疲れてお菓子タイムだよ!」
アリシアは、抱えていたクッキーの包みを膝の上に置き、鼻をすすりながら、不満を爆発させた。
「本当に遅いわね、もう…くしゅんっ! 女の子に力仕事させるなんて!私もう、くしゃみが止まらないんだから!」
来たばかりで、魔獣を抱えているにも関わらず、二人に立て続けに責め立てられるギル。彼は、不当な扱いに目を白黒させた。
「いや、そこまで言わなくてもよ…雪は深いし、熊は出るし、これでも急いだんだぜ?昼メシの材料も取ったしな。」
ギルは、ぼやきながら抱えていた魔獣を、湖畔の雪の上にドンッと音を立てて置いた。
キスティーは、魔獣に目もくれず、ギルに歩み寄った。
「うーん…まあいいや! お土産持ってきてくれたんだもんね!休憩終わったら、ギル、氷の家づくりの続き始めようね!」
キスティーは、ギルの腕を引っ張り、お菓子タイムへの参加を促した。
アリシアは、ショールにくるまりながら、ギルの顔を見て、少し申し訳なさそうに言った。
「そうね。ギルが来てくれたから、もう安心だわ。…くしゅんっ! 一緒に食べましょう。」
アリシアは、クッキーの包みをギルに差し出した。
ギルは、さっきまでの不満を忘れたかのように、顔を輝かせた。
「おう!力仕事は俺に任せとけ! すぐ終わらせてやる! で、昼メシな!この熊をさばくぞ!」
彼は、差し出されたクッキーを、一口で頬張った。その屈託のない笑顔に、雪景色が少しだけ明るくなったように見えた。
三人は、巨大なアイアンブラッドベアが横たわる凍てついた湖畔で、まるで遠足に来た子供たちのように、笑い合った。アリシアのくしゃみと、ギルの豪快な咀嚼音、そしてキスティーの楽しそうな笑い声が、冬の森の静寂に響き渡る。
彼らにとって、魔獣の森の厳しさも、全ては日常の延長にある、ただの「遊びのスパイス」でしかなかった。




