第103話 私の命に変えても…
凍てつく湖畔から、数キロほど離れた魔獣の森の比較的まだ深くない場所。鉛色の空の下、雪が降り積もる森の中で、王国軍の雪中行軍演習部隊が、重々しい足取りで進んでいた。彼らの周囲は、針葉樹の暗い緑と積雪の冷たい白だけに支配された厳しい世界だった。この時期の魔獣の森は、人里離れた静寂と、どこから現れるか知れない危険とが張り詰めた空気の中に同居している。
部隊は、この冬場に活発化する一部の魔獣の生態調査と、伝承にある「人外」の実態調査を兼ねて編成された比較的少人数の調査班である。
行軍を率いるのは、王国軍副司令クロエであった。彼女は最年少で副司令になった容姿端麗な才女である。魔法も剣術も飛び抜けて優秀であった。
クロエは、黒髪のロングヘアーを雪が濡らさぬようフードで覆い、小柄な体には雪地用の軽装の革鎧を纏っていた。彼女の動きは雪に足を取られる兵士たちとは一線を画し、華奢な外見からは想像もできないほどの安定感を保っている。明るく、優しい性格が滲み出るような美しい顔だが、その瞳の奥には鋭利な知性と、王国軍の副司令という重責を担う者の冷静な決意が宿っていた。
クロエは、ふと、隣を歩く、今回どうしても同行したいと無理についてきたお方に目を向け、つぶやいた。
「結構、雪が深いのね。魔獣もかなりの確率で遭遇するし、さすが魔獣の森といったところね。」
彼女は雪を踏みしめる音に負けないよう、横のお方に少し張った声で言った。
「殿下?お疲れではありませんか?」
クロエの気遣いの声は、若き副司令としての職務と、王族への敬意、そして純粋な心配が混ざり合っていた。
声をかけた相手は、レイエスであった。レイエスは、重い足を引きずりながら答える。
「あ…ああ、大丈夫だよ。雪が深くて足を取られるがね。」
しかし、彼の顔は、その言葉とは裏腹に、疲労の色が濃く、息がかなり上がっていた。王城の執務室で過ごす時間が長い彼にとって、この雪中の行軍は体力的な限界に近いものがあった。
クロエは目敏くその矛盾を見抜いた。
「言葉と顔が合っていませんが…。少し休みましょう。」
彼女は優しくも、指揮官としての的確な判断で、部隊に休息を取るよう促した。
その時、部隊の後方から、雪をかき分けて豪快に進む、切実な声が近づいてきた。
「殿下ー! この辺でおやめになりませんか?『人外』にご興味を持たれているのは分かるのですが…お身体が持ちません!どうか!どうか! 引き返すご命令を!調査はクロエに任せましょう!」
声の主は、騎士団長であった。
彼の顔色は、景色と同化するように青白く、目の下の隈は雪の白さにかえって強調されている。鎧は雪で濡れ、その重みが彼の疲労をさらに深くしているかのようだ。
数日前、レイエスがこの調査に同行を申し出たその瞬間から、騎士団長の心労は始まっていた。王都での子供たちの騒動から少し経過し、気持ちもおちついていたのだが、今度は極寒の魔獣の森で王族を守るという、命に関わる任務が課せられたのだ。
(もう、ダメだ… 魔獣どころではない…これでは殿下のお身体が保たれない…そして、私の心が持たない…)
彼の心は悲鳴を上げていた。しかし、忠誠心と職務への義務感が、鉛のように重い体を、必死に前へと押し進めている。
クロエは横で聞いて、レイエスに向かって言った。
「殿下、それがよろしいかと思われますが… 騎士団長もあのように言われていますし…あとは私が…」
彼女の声には心からの心配がにじみ出ていた。騎士団長の顔色が尋常ではないことは、誰の目から見ても明らかだった。
レイエスは微笑み、その疲れを悟られまいと努めた。
「大丈夫だよ。ほんとにダメなら自分からちゃんと言う。すまないが、もう少し同行させてくれ。」
彼の好奇心は、疲労を乗り越える力となっていた。特に、子供たちの力を知って以来、世界の「人外」というものへの存在への関心は、抑えがたいものとなっていたのだ。
クロエはレイエスの強い意志に、さすがに断ることはできなかった。
「わかりました。全力でお守りいたします。騎士団長もよろしいですね?」
クロエは、騎士団長に向かって確かめるように言った。
騎士団長は天を仰ぎ、雪に向かって、遠い視線を送った。その後、職業的な規律に従い、力なく背筋を伸ばした。
「はっ! もちろん、何があろうと…私の命に変えても…」
その声は、心労の極致から来る、ほとんど諦めの境地であった。彼の心の中では、「また何か起こるのではないか」という恐怖と、「いっそ、何か起こってくれた方が楽だ」という自暴自棄の念が渦巻いていた。
クロエは、横で騎士団長の極限の心労と忠誠心を見て取り、クスッと小さく笑った。その笑いは、彼の真面目さへの愛嬌と、彼の心労を理解していることの表れだった。そんな騎士団長に、頑張れるように優しく微笑んだ。
騎士団長は、レイエスに向かって、本題へと戻った。
「しかし、殿下、『人外』とは出てくるものなのでしょうか?伝承では聞きますが、実際の被害は過去にはあったと書いておりますが、最近聞くことは全くないかと。」
その言葉には、「いるかどうか分からないもののために、これ以上疲弊するのは…」という本音が隠されていた。
レイエスは顎に手を添え、深く考え込んだ。
それを見て、クロエが言葉を継いだ。
「確かに、調査に入ることはよくありますが、見かけたことはございません。魔獣は多いのですが…」
彼女は冷静に、これまでの調査の事実を報告した。
レイエスは、静かに目を開け、真面目な表情で言った。
「そうだな。いないならいないに越したことは無いであろう。ただ、万が一遭遇の場合は、王国の方針通り対処を。」
対処、とは、すなわち「敵対するものとして排除する」ということだった。レイエスの言葉には、王族としての冷静で厳格な判断が込められていた。彼は子供たちの純粋さを知っているからこそ、得体の知れない力を持つ者への警戒心を強めていた。
騎士団長はその言葉を、体が震えるのを堪えながら心に刻んだ。
「はっ!」
クロエは、その横で、レイエスと騎士団長の真剣なやり取りを見守りながら、実直で忠実な騎士団長の横顔に、もう一度優しく微笑んだ。
部隊は短い休息を終え、再び雪の中を進み始めた。騎士団長の心労は増す一方だったが、彼の足は、未来の王への忠誠という鋼の精神力で、一歩、また一歩と、雪に埋もれた道を踏みしめていくのだった。




