さんざんな夕暮れ
ひと月後、お葬式も諸々の法事も無事に終わり北条家にはいつもの日常が戻っていた。父は会社へ、母は経営している趣味の店へ、兄は大学へと、変わらぬ日々の再開である。
花音の高校はスポーツに力を入れており、文化部はあまり活発ではない。花音はもちろん文化部所属なため、学園祭シーズン以外は学校が終わると自宅へ直帰というのがほぼお決まりのパターンだった。
そう、今日も今日とていつもと変わらぬいつもの午後を迎えている・・・はずなのだが。
徐々に日が高くなり、夕方に近いとはいえまだ空は青く心地よい初夏の風が吹いている。帰宅した花音はガーデンエプロンを身に着けて、広い庭の一角にある花壇へと向かった。そして少々調子の外れた鼻歌を披露しながらリールに巻かれたホースを振り回し、いや取り回して花々への散水をし始める。
(天国の花園はきっとこの庭よりきれいで、おばあちゃんは元気な頃みたいに毎日花を摘んだりお水をあげたりしているに違いないわ)
北条家の花壇は祖母が丹精込めて整えたもので花音も幼いころから一緒に土いじりや草むしりをするなどして育ててきた大切な場所なのだ。
この時期の花壇ではペチュニア、サフィニア、フロックスといった可愛らしい小花が風にそよぎ、その奥でシャクヤク、アマリリスなど大輪の花が誇らしげに揺れていた。
それらの花々に順番に水をやり、チューリップとシルバーリーフ、ネモフィラ、ラベンダーが寄せ植えされている花壇へと移ろうとした時、ぐいっと強引に引っ張ったホースが何かにひっかかった。
「あっ」
勢いに負けた花音の手から落ちたシャワーノズルがあちこちに水を跳ねさせ暴れまわる。
「まってまって、やだ冷たい~~~」
なんとか足で押さえた花音だったが、すでに頭からサンダルまで水びたしとなってしまっていた。
その脇をタッタカターっと小さな影が通りすぎていく。
降り注ぐ大粒の水に慌てて飛び出してきた灰色ネズミである。
「あらっ。またネズミ?時々見かけるわね、同じ子かしら」
灰色ネズミはキョトンとした顔で振り返ると、花音の足元までひょいひょいと近寄ってきた。
「だめだめっ。私はネズミって好きじゃないのよ。一番嫌いなのはヘビだけど、あなたもこれ以上近寄っちゃいやよ」
花音にシュッと水をかけられた灰色ネズミはまた植え込みへと逃げ込んだ。
「うちには近所のネコがよく遊びに来るから気をつけなさいよー」
苦手とはいえ、花音は生き物には優しい。ただ、ヘビだけは例外だ。つるりとした肌に、裂けたような舌。顎を外して獲物を飲み込む異様に大きな口も、足もないのにうねうねと素早く動くさまも、とにかくに何もかもが受け入れられない。
断固拒否なのである。
「さて、と。水まきは終わったから次はお仏壇に飾るお花を切って・・・」
ホースをリールにぐるぐると巻き終え呼吸を整えると、ガーデンエプロンから園芸鋏を取り出して季節の花をパチンパチンと切り集めていく。
(これも、これもおばあちゃんが好きだった花)
祖母との思い出に浸りながら花を束ね、最後の1本へと手を伸ばした花音の動きが、ピタリと止まった。
植え込みの中に見覚えのないロープが落ちている。くすんだ緑色のロープだ。
丁寧に丸く巻かれたそれは細かい褐色の縞模様をしていて、先端にはなぜかチラチラと揺れるピンクの、、、リボン?
ま、まさか・・・。
いやそんなはずはない。目を見開いて凝視する花音。
パチリ。
つぶらな黒い瞳が花音の姿を捉えた。
「いやぁぁぁぁぁ」
思わす鋏を掘り投げて悲鳴を上げる花音。
「うわぁぁぁぁぁ」
同時に響く野太い悲鳴。花音のものではない。
ドオォォォーーーン
続いて爆発音とともに起きた衝撃波が、ロープとおばあちゃんの大切なお花たち、さらに花壇に潜んでいた灰色ネズミまでも次々と吹き飛ばした。
「ああ!ひどいっっっ」
なぎ倒された花に声を上げる花音。
折れた花の上では灰色ネズミがひくひくとヘソを天に向けて痙攣していた。
隣家への垣根を越えて慌てて逃げるのは先ほどのロープ、もといアオダイショウだ。
しかしなぜか花音だけは前髪ひとつ乱れていない。
「後ろで何が!?」
衝撃音がした窓のほうを振り返る花音。
振り返った先のベランダには、まるで押しあてられたかのように背中を壁にはりつけた男が2人、信じられないといった面持ちで花音のことを凝視していた。
「えっ。だ、だれ?」
驚く花音の声で我に返ったのか、2人はキュッと表情を引き締めた。そして身構えながら体勢を整えると、自分たちの無事を確かめるように互いの身体をぱんぱんと叩き合った。
「異常なし!」
「変化なし!」
「異常も変化も大ありなんですけど!」
花音が怒りの声を上げる。
「大切な花壇をめちゃくちゃにして!!!!」
この男たちのほうがよほどめちゃくちゃなのだが、目の前の惨状に怒り心頭の花音には気づく余裕がないようだ。
「君はいったい何者なんだ?」
2人の男のうち20歳そこそこの若い見た目のほうが詰問するような口調で話しかけてきた。
男は花音が今まで見たことのないような金色の瞳と紫がかった黒髪を持ち、ゆるくカールのかかった前髪を額に垂らしている。しなやかな長身で、まるで黒豹のような雰囲気を持った国籍不明な美丈夫だ。思わず見とれてしまうほど、といっても過言ではない美しい容姿をしていた。
しかし花音は面食いではなかった。常人なら気圧されるに違いない相手の風貌など意にも介さず問い返す。
「あなたたちこそ誰なんですか!そこで何してるんですか!?」
「僕たちは・・・いや、それよりも君はさっき何をしたんだ?」
また問い返されムッとする花音。それでも聞かれたからには素直に答えるのは育ちの良さか根の真面目さか。
「ヘビと目が合ったのが怖くて大声をあげたのよ。騒いだのは良くなかったけど、ヘビだけならともかく花までなぎ倒して異常なし!だなんてひどいと思わない?」
「君、僕たちの転移を破ったんだよ。自覚ないの?」
若者の口から妙な言葉が聞こえた。
聞こえたものの、意味がよくわからない花音は前半部分をがっつり聞き流す。とりあえず何かをやった自覚などないので後半部分についてはウンウンと頷いてみせた。
黒豹のような若者の金色の瞳が不思議そうに瞬いている。彼が瞬くたび、金色の光がパチパチと音を立てて零れ落ちていく――。そんな不思議な錯覚を花音に起こさせた。
「ちっ」
いらついた声を上げたのはもうひとりの男だ。
こちらは30手前くらいだろうか。若者よりもさらに長身で体格もよい。濃い褐色の肌にシャム猫のようなサファイアブルーの切れ長の瞳が見事に映えている。しかしその瞳は感情を映さず、雪原のように輝く銀の髪も相まって近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
「おい、異常がないならやり直しだ。追手が来る前に移動するぞ」
声も硬く、冷え冷えとしている。
「はい。合わせます」
2人の男は、向かい合って互いの腰のベルトを掴んだ。いわゆるがっぶり四つである。
「待って先輩」
「なんだ?」
先輩、と呼ばれた男は不機嫌そうに眉を寄せたが、若者は向かい合った姿勢のまま顔だけを花音のほうに向ける。
「君、名前は?」
「か、かのん」
花音が思わず答えると、若者の猫のような金色の瞳が丸く輝いた。
「僕はエース。花を台無しにしてごめんよ」
「えっ。あ、ああ直せるから大丈夫」
思わぬ謝罪だったが、花音は目の前の状況が強烈すぎて適当に返してしまう。
「それより2人して何してるの?変よーーー」
男同志で正面切ってくっつき合うのなんてスポーツや何かの受賞で喜んでいる時くらいじゃなかったかと花音は思うのだ。
「ははは。じゃあね」
「じゃあね、って?」
言い終わらないうちに妖しく密着した怪しい不審者2名はベランダからふっと消えてしまった。
「ええっ?いったい何なの?なんで消えるの???」
面食らう花音。だが
「あーーー!ベランダの壁まで壊して!!!今度会ったら絶対文句言ってやるんだから」
ベランダの床に散らばる欠片を見つけて、ぴょんぴょん跳ねながら怒り出した。不審者が忽然と消えたという事実はどうでもよくなったようだ。
塵取りとほうきで床の欠片をささっと掃除し、花壇を整えるため庭へと戻る。散り散りになった花たちにため息をつきながら拾っていくと、端っこの方にまだヘソ天状態でひっくり返っている灰色ネズミを見つけた。
「あら、ネズミが伸びてるわ。なんかごめんね」
自分のせいではないが謝りつつ横を通り過ぎる。灰色ネズミが伸びている花壇の向かい側の植え込みに、もうひとつ見慣れないものが目に留まった。
「何だろうこれ?」
手を伸ばして拾い上げると、それは美しい刺繍が施された小さな布の袋だった。どことなく神社のお守りに似ている。
「あの人の物かなぁ?取りに来るかな?でもどこから?・・・そういえばこの模様、どこかで見たような」
ぶつぶつと呟く花音の肩に、いつ目覚めたのかあの灰色ネズミがピョンと飛び乗ってきた。
さきほどの衝撃がよほど怖かったのだろうか、ぶるぶると震えている。
「あんたも驚いたの?しかた無いわねぇ。でも懐かないでよ。わたしネズミって好きじゃないんだから」
ペッ。と手で追い払うと灰色ネズミはコロンと落ちた。落ちた先の石畳の上でまたもやひっくり返って手足をヒクヒクさせている。
「あーっ。ネズミちゃんしっかりして!いじめたわけじゃないのよー」
慌てる花音。
さんざんな夕暮れが静かに過ぎていった。