第六話 優馬は思う
『これで先に進める』
面会の翌日、家に来た美愛はそう言って微笑んだ。
その眩しい笑顔は、ようやく自分の気持ちに一つの区切を着ける事が出来たからだろう。
少しだけ羨ましい気持になった。
季節は進み、8月になった。
受験生の俺達にゆっくり遊んでいる暇は無い。
この先、美愛と一緒に歩んでいくには同じ大学に進む事が絶対条件。
今日も朝から美愛と家で勉強に励んでいた。
「優馬、そろそろお昼にしよう」
「そんな時間か…」
気づけは時計は12時を回っている。
集中していたので気付かなかった。
「簡単に作るから、リビングで待ってて」
「ありがとう」
美愛はエプロンを着けキッチンに向かう。
父さんから冷蔵庫の食材や調味料は全て自由に使う許可は取っている。
もっとも夏休み以来、美愛は毎日食料を持参して来るので、こっちは買い出しに行かなくて良いので助かっているのだけど。
「ふんふん…」
楽しげな鼻歌が聞こえる。
リビングのソファからは美愛が料理を作る姿が見えた。
「何?」
「なんでもないよ」
「もう少し待ってて」
「うん」
ふと脳裏に母の顔が浮かぶ。
『ママ、ご飯まだ?』
『もう少しだからね優馬』
なぜだ?
最近は殆ど思い出す事なんか無かった。
悪夢に頭を振る。
昼食を食べ終えると美愛は冷たい飲み物を用意してくれた。
「さっきはどうしたの?」
「さっき?」
「私が料理してた時」
「見てたのか?」
「まあね」
美愛の洞察力は凄い、俺の僅かな仕草をいつも見抜いてしまうんだ。
「あの人を思い出したんだよ」
「あの人って、優馬のお母さん?」
「ああ」
秘密や隠し事を絶対しない。
これは美愛と付き合う時に決めたルール。
どんな些細な事でも、聞かれたら出来るだけ答える。
一人で胸の内に抱え込まないようにしていた。
「優馬のお母さんが今どうしてるか気になったの?」
「どうだろう…」
気になるのか、よく分からない。
「私がお母さんに会ったから?」
「かもな…」
それはあるだろう。
「私は見捨てられた訳じゃなかったの」
「…みたいだな」
美愛はゆっくり話始めた。
面会の翌日に聞かせてくれた話をもう一度。
「浮気は絶対にしてはならない。
そんな常識を守れなくなる程、母さんは浮気相手に心を奪われて、私や家族をもう愛して無い、そう思ってた」
「普通はそう思うよ」
「でも違った。
母さんは自分のしたい事を後先考えず行動しちゃう人間だった。
結果全てを失ったけど」
「少し考えたら分かるのに、浅はかだよ」
「そうね…」
「ごめん、言い過ぎた」
つい言ってしまった。
「本当の事だから良いよ。
実際手遅れになってから気づいたんだから。
それで新しい幸せを探して、結局掴めず足掻き続けた」
美愛の母親が日本に戻ったのは、現地で一緒に暮していたパートナーと破局して、傷心での帰国だったらしい。
もう新しい出会いも諦めて、美愛の家族の側で暮らしたいとの希望だったそうだ。
結局は弁護士から改めて、美愛の家族に今は接触しないよう通達された。
「俺の母親とは違うよな」
「そうね」
俺の母親は美愛の母親と違うパターンだった。
一緒に暮していたのに全く気付かなかった。
浮気が発覚したあの日まで、本当に気付かなかったんだ。
一体どんな気持ちで毎日暮していたのだろうか?
「確か相手は社長だったよね」
「そうだよ、母さんが勤めていた会社の」
母さんが浮気した相手は勤めていた会社の社長だった。
その会社に秘書として入社する時、面接に来た母さんに一目惚れしたらしい。
最初は誘いを断っていたが、相手は二年を掛け母さんを籠絡した。
高いプレゼントを贈り、遠方の仕事に同伴させ、高級なレストランに連れて行った。
普通の暮らしを送っていた母には強烈な刺激だったろう、やがて感覚は麻痺…ついに堕ちた。
「いきなりだったよ」
「優馬…」
「突然男と一緒に帰宅した母は、父さんと俺の前で…」
「止めようよ」
美愛は止めようとするが、今は吐き出したいんだ。
「子供が出来ました。
あなたの子供ではありません、この方の子供です、って…」
頭が真っ白になって、俺はぶっ倒れた。
そして気づいたら、母さんは消えていた。
夢…そう悪夢だと思った。
しかし俺が寝ていたベッドの隣で項垂れる父さんに、これは現実だと思い知った。
「優馬…」
「大丈夫だよ」
そっと抱きしめる美愛の頭を撫でる。
昔なら泣き叫んでいた記憶だけど、今はコントロールが出来る。
全ては美愛のお陰なんだ。
「もう会う事もないしね」
「そうだけど、未だに年賀状が…」
「心配しなくても大丈夫だよ」
年賀状の意図するところは分からない。
だけど母が再婚した家族はここから飛行機の距離に住んでいるのだから。
「おや?」
インターホンの呼び出し音が鳴る。
まだ父さんは仕事だし、一体誰だ?
『誰かいませんか?』
「どなたですか?」
モニターには小学校低学年くらいの女の子が映っていた。
「知らない子だな」
「私も初めてだけど。
この声、見た感じ…なんだろう…」
美愛も知らないのか。
『川口優馬さんのお家って、ここですか?』
俺の名前を言ったって事は、知り合いなのか?
「そうですが、どちら様でしょう?」
「開けて下さい、ここは暑くって」
しっかりした子だ。
確かに外は暑いだろうが、知らない人を家に上げる訳には…
「…優馬、開けてあげて」
「美愛?」
どうしたんだ?
美愛は真剣な表情でモニターを見つめていた。
「どうぞ」
「失礼します」
玄関の扉を開ける。
女の子は静かに頭を下げてから俺を見た。
「あの…君は?」
「私は伊藤真奈美、優馬さんの妹です」
「はあ?」
この子な何を言ってるんだ、俺は一人っ子だぞ?
「お母さんの名前は伊藤かすみです」
「ま、まさか…」
「かすみって、それは俺の母の…」
「優馬兄ちゃんと私のお母さんはおんなじで、私達は半分兄妹だって、お母さんが言ってました」
女の子の話に言葉が出ない。
こんな話を信じろと?
それに年賀状に写っていた子供と顔が違うじゃないか。
「やっぱり…」
混乱から声が出ない。
俺の後から美愛の呟きが聞こえた。