第十三話 父から二人に
「霞、お前は…」
奴は俺から目を逸らしてブツブツ何かを言っている。
それを無視する霞、夫婦仲が完全に冷めきっているのがよく分かった。
二人の不幸を願わなかったかと聞かれたら、嘘になる。
せいぜい苦しめと思う一方、実際目の当たりにすると、気持ちが良いものではない。
普通に、俺達の分からないところで暮していて欲しかった。
霞には、不意打ちみたいな接触をしてこないで欲しかった。
「…この人は一体何を言ったの?」
「それは…」
「だから一切口外しない約束だろうが!!」
「あなたは黙って!」
霞は血走った目で怒鳴り返す。
本性はこんな女だったのか?
それとも8年で変わってしまったのだろうか…
「お前も傷つける事になるが、それでも良いのか?」
「わ、私も…?」
「そうだ」
誰にも…優馬にさえ、話すつもりは無かった。
しかし霞を納得させるしかない。
「コイツから離婚は、お前の意思だと言われた」
「……嘘よ」
「本当だ。
お前は離婚を決めたが、俺達を見捨てられなくて、最後の踏ん切りをつけたい。
だからコイツに頼み避妊を止めて貰って妊娠した、そう聞いたよ」
「…………」
「…畜生が」
霞は目を剥き、言葉を失っている。
この反応からすると、やはり武左夫が言ったのはデマカセか。
だけどあの時の俺はその言葉を疑えなかった…
「なんでそんな事を言ったのよ!
離婚なんか望んでなかったのに!!」
「うるさい!お前だって現に何度も俺に抱かれていただろうが!」
「だからって、そんな嘘をつくなんて!!」
「声を抑えてくれ」
もう手遅れだとは思うが、これ以上の恥をかきたくない。
「黙れ!
お前だって、その話を信じただろうが!」
「確かにな」
「なんで……どうしてそんなデタラメを…」
武左夫の言う通りだ。
俺はコイツの言葉を信じた。いや、信じてしまうしかなかった。
「どうして…なぜ私に聞いてくれなかったの」
「お前が倒れたからだろ、そのまま確認が出来なくなった」
「…あ、あれは優馬が倒れたショックで入院して」
「そうだな、お腹の子供に障ったらいけないから話には参加出来ないと聞いたよ」
「嘘よ!
私はなんとか、あなたに連絡を取りたかった、でもコイツに病院の個室に閉じ込められて出来なくなったの」
「……止めてくれ、頼む」
ガックリと武左夫は肩を落とす。
今の霞の様子から見れば、そうだったんだろう。
「俺が武左夫の言葉を疑えなかったのは、お前が武左夫のパートナーとして、取引先の人間達に紹介されていた証拠を見せられたのもあるんだ」
「…は?」
「身に覚えがないのか?」
「ちょっと…待ってよ…」
忘れていたなら、霞は随分都合の良い頭だ。
離婚に向け、武左夫と弁護士で話をした時、提示された書類にそれはあった。
コイツの会社内だけではなく、外部の人間にまで武左夫のパートナーだと霞を認知させ、社内では有名だった。
「ひ……秘書だったからよ!
私は仕事として業務上の立場として…」
「無理だ」
「なぜ?なんで信じてくれないの?」
「写真や関係者の証言書類まで見せられたんだぞ?」
「し…写真?」
「いっておくが、行為中のは無かった」
さすがにセックス中の写真までは無かった。
しかし、パーティ会場と思わしき場所で、美しいドレスに身を包み、武左夫に腰を抱かれ談笑する霞の写真は、誰が見ても二人の関係は親密と分かる物だった。
「そんな写真いつ撮ったの!」
霞はますます激昂する。
だが写真は捏造だと否定はしなかった。
「…取引先との懇親会パーティで撮影した写真だ。
見せて何の問題がある?」
「あれは、仕方なく…そうよ場の空気で仕方なくだったの!」
「だから無理だ」
そんな言い訳が通じる筈ない。
間違いなく、二人はパートナーにしか見えなかった。
……キスしてるのもあったし。
「でも……本当に私は離婚なんか、したくなかったの」
項垂れるが、まだ終わりじゃない。
霞を絶対に信じられなくなった理由はまだあった。
「俺から優馬を奪って、引き取る話まで言われたら…」
「…は?え?」
「止めてくれ!頼む止めろ!!」
武左夫が叫ぶが、ここで止める訳には行かない。
「音声だよ、武左夫がお前を口説いていた時の。
[心配しなくても、大丈夫。
息子さんは引き取るから、霞は変わらず一緒に居られるんだよ]だったか?」
「イヤヤヤァ!!」
霞は耳を塞ぎ、悲鳴を上げた。
申し開きが出来ないと思ったのか。
その言葉に対し、
『…分かりました』
そう答える霞の声が残っていたんだから。
「おかしくなっていた…
…あれは私じゃない…あんな事私が言うはず無い…」
霞はガタガタ震える。
だから言いたく無かったんだけど。
「…そんなに霞を追い詰めて楽しいのか!」
「楽しいかって?」
コイツ、何を言ってる?
「そうだろうが!
別れても幸せを祈るのが男の度量じゃないのか!」
「……意味が分からん」
話にならない。
コイツの勝手な言い分には反吐が出る。
僅かな同情すら抱く気にならない。
「俺の夫婦関係は既に破綻していた、そう主張して最初は慰謝料を渋った、あなたがそれを言いますか?」
「……あ」
「嘘よ…充分な償いはするって言ったじゃない…」
霞にはそんな事を言ってたのか。
「こちらの弁護士に言えば、貴方と話し合った経緯の記録を全部教えてくれますが、どうしますか?」
「…止めてくれ」
「そうですか」
離婚の際、話し合いは全て弁護士を同席して行った。
当初、武左夫側の弁護士は一気に俺を絶望に叩き込み、不利な同意書で終わらせようとしてきた。
こちらの弁護士は俺がヤケを起こさないよう支えてくれた。
そして山内さんの家族からの応援もあって、俺は最後まで戦い、相応の慰謝料と養育費を得る事が出来た。
「…お前が消えたら上手く行ってたのに」
「消える?」
何の話だ?
「慰謝料を払えば引っ越すと思ったんだ」
「ああ…」
実際、俺は実家の田舎へ帰る事も考えたが、山内さん家族に反対された。
『なぜ被害者の貴方達が逃げるんですか?戦いましょう』
政志さんの言葉に救われた。
後で美愛ちゃんにも知られて、かなり怒られた。
『優馬だけは置いて行って下さい』って。
「なにを笑ってる?
俺が……社長を解任されたのを思い出してるのか…クソ」
「解任?」
武左夫が社長を退任したとは聞いたが、解任だったのか。
「君は知っていたか?」
「……もう…どうでもいい」
霞は無表情で武左夫を一瞥して首を振った。
不倫をネタに会社を追われ、それを妻に言えず、情けない。
「だから年賀状を?」
「…お前に敗北感を味あわせたかった」
「あのな…」
そんな事で敗北感なんか味わう物か。
妻を奪われた時点で充分だ。
「私の為に許可したんじゃなかったのね…」
「すまない…」
「酷いわ…」
年賀状に写っていた写真。
豪邸も、笑顔の家族も、みんな俺を苦しめる為か。
「馬鹿共が…」
こんなくだらない理由で毎年送り付けてたのか。
「私は元気と知らせたかったの…」
霞の言い分はどうでもいい。
結局は俺を苛立させただけだ。
「今日はお前の弁護士は来なかったのか?」
「断られたよ…もう付き合ってられませんだと」
「…そうか」
弁護士が断るって、武左夫は何を言ったんだ?
それになぜ俺はここまでコイツに固執されなければならなかったんだ?
「霞に愛されたかった……
俺だけに、心を開いて欲しくて…お前さえ居なくなれば…」
「………」
なんと言うか、言葉が出ない。
「もういい……好きにしろ。
…離婚でもなんでも応じる、娘はお前に託す」
「あなた……」
何を神妙な顔してるんだ?
「お前らふざけるな…」
「なに……」
「どうして……」
「まさか霞は、ここで暮らすつもりじゃないよな?」
「な……なぜそれを?」
「やはりか」
止めてくれ、俺が耐えられない。
「俺だって新しい人生を歩みたいんだ」
「池田さんでしょ?
そんな女は金目当てよ」
「……なんて事を」
紗央莉さんの事を知りもしないくせに。
「彼女は金に困っていない」
「嘘に決まってるわ!」
「彼女の実家は資産家だ、それに亡くなられた旦那さんの保険金もある」
「そ…それなら、あなたの顔が目当てよ!」
「外見なんか意味がない、それは金で俺と息子を裏切った君が一番証明しただろ?」
「………」
霞と武左夫は項垂れる。
武左夫には頑張って貰わないと。
「真奈美ちゃんの父親はお前だ」
「それが…どうした」
「夫婦は離婚しようが、真奈美ちゃんはお前の娘だ。
ちゃんと最後まで面倒を見ろ」
「貴様に言われずとも、分かっている」
「それなら良い」
「…私は失礼させて貰う」
武左夫はゆっくり立ち上がり、部屋を出る。
小刻みに揺れる背中、小さな嗚咽が聞こえた。
「君も帰りなさい」
「…いやよ」
「真奈美ちゃんが待ってるだろ」
「だって………まだ何も決まってない」
霞はこんな性格だったかな?
もっと割り切りが良かった気が。
「優馬に……また会いたい」
「それは優馬が決める事だな」
「あなたは止めないの?」
「面会交流は子供の権利だ」
優馬が18歳まで、後3ヶ月ある。
その後は優馬に任せよう。
「分かりました、後は弁護士と相談します」
「そうしてくれ」
どうやら終わりか、凄く疲たな。
「ん?」
サイレントに設定していた携帯を確認すると、優馬から1通のラインが来ていた。
「霞」
「は…はい」
「優馬が帰る前に真奈美ちゃんとドリームキャッスルに行きたいそうだ」
「ドリームキャッスル?」
「ああ、母さんも来てくれないか、だと」
ドリームキャッスルは隣の市にある中規模の遊園地、昔は家族でよく行った。
「…なんで遊園地に」
「忘れたのか?」
「あ!!」
どうやら思い出したか。
「ゆ……優馬……ごめんなさい」
霞は激しく泣き出した。
8年前、風邪で体調を崩していた優馬。
ようやく元気になり、霞はどこに行きたいか聞いた。
『ドリームキャッスル!』
『良いわよ、美愛ちゃんも誘って、みんなでお弁当持って行きましょ』
『やった!ありがとうママ』
優馬は嬉しそうだった。
…しかし、それは叶わなかった、その2日後に霞の浮気がバレたからな。
「…これで終わりなの?」
「さあ」
それは優馬……美愛ちゃんとの考え次第だろう、俺には分からない。
「ごめんなさい…優馬……真奈美…」
慟哭する霞を残し、部屋を出た。