○第四条○ネクタイピン
こういう時代なのだ。道を歩けば野盗に殺され、留まれば疫病に殺され、死ぬまで炭鉱で働き工場で働き、三十過ぎれば大往生。そういう世界なのだ。
その中で幸せを見つけるのが人間の本分では無いか。きっとその通りだ。
貧民街に戻ってきた。街を一周した。人々は皆、新顔の私に怪訝な顔をしていた。一万人にも満たない小さな街なのだろう。
糞と尿と泥の匂いがした。そうだ。私一人で何ができる。一人で政界を動かすなんてことはできなかったのだ。全ては積み重ねだ。人の悪意が環境の中で煮凝りになって、一人じゃどうしようもなかった。
居眠りする国会議員も、見て見ぬ振りする汚職も三権分立にはあってはならない圧力も都合も歴史も何一つ、一人では。
これが本質だ。ありのままやってこうなるなら、それが正しいのだ。
仕方ないのだ。仕方ない、仕方が……。
向こうに人影が見えた。言い争っている。いや、
貧しい格好をした一人がもう一人に縋り付いている。何か必死に懇願しているように思える。他の三人くらいはただ見つめているだけだ。
恐らく雇い主と労働者では無いだろうか。しかし雇い主がわざわざ貧民街に足を運ぶものであろうか。
縋っている男が頬を張られ引き剥がされた。その暴行に何一つ言うことなく、臆病な笑みを湛えて、なお媚び諂っている。敗北者の顔だ。
それでも雇い主が態度を変えないと見ると、男はすごすごと引き下がっていった。
雇い主がその背中に唾を吐く。そしてこちらを振り返った。
「おいてめえ、何見てんだーーあっ」
男が驚きに顔を歪める。私も同じ気持ちだ。その雇い主は、昨日世話になった野盗だったのだ。
「またキミたちですか」
鎖帷子はそれには答えず、バツが悪そうにこめかみを掻くばかりだった。三下はオロオロしている。意外だった。私は事情があったとはいえ彼らを気絶させた上で身ぐるみを剥いだのだ、恨まれていないわけがない。
問答無用で飛びかかられる覚悟もしていたのに、この反応は一体どういうことだろう。
「あー。くそったれ。飛びかかりたいのは山々なんだがーー」
「ダメっすよ兄貴。掟があるでしょ、下手に出ないと。とんでもねえペテンを使ったとはいえ、俺だちゃあいつにしてやられたんです」
鎖帷子、ここで一つ、舌打ち。
それを見て、ああ、そういうことかと合点がいく。彼らはダーズリィ一家の盗賊であると自称した。恐らく少人数の盗賊なのだろう。すると、何か彼らには盗賊なりの美学というものがあって、戦って盗られたものを大人数で寄ってたかって取り返すのは獣と同じだ、なんて考えているのかもしれない。
「ふん、見てんじゃねえ、こっちは見せ物じゃねえんだぞ」
「なぜキミたちがここにいるんです」
そう、そもそもわからないのは盗賊であるはずの彼らが堂々と街中で振る舞えることだ。領主の警邏が飛んで来ないのだろうか。そもそもそういうことがないように街とは有るものではなかろうか。そりゃあ、入るために大きな門を潜るような城塞都市というわけでもないが、入ってこのように振る舞えるような街にも思えない。
するとまた鎖帷子はバツが悪そうに三下を見て、「どう答えるよ?」などと目で問うたあと、答えを待たずに
「そんなのどうだっていいじゃねえかよ。お前だってどうしてこんな貧民街にいるんだ。お前もお仲間に入りたいのか?ここのクズどもの仲間にヨォ」
今の鎖帷子の発言で、やっと合点がいった。胸の中で、疑念は確信に。
この街は、普通の街ではないのだ。むしろ……。
「そうか、『野盗』ではなかったから、警備だったから、あんな持ち物で良かったということですか。拠点が、確かにあるから」
「答える義理はねェなぁ。お前は余所者だからヨォ」
「じゃあ、これだけ答えてください」
少し間を置いて、なんだ、と鎖帷子が言う。
「外に、『本当は人の命を奪うような魔物がいないこと』は、彼らは知っているのですか」
意外そうな顔をされた。一瞬の間が空く。鎖帷子の顔はみるみるうちに笑いのそれに変わっていく。
もっと言うなら、『嘲笑』の形に、変わっていく。
「オイオイ、馬鹿みてぇなこと聞いてんじゃねえよ!?『知る』わけねぇだろぉ!?」
そう言って鎖帷子は俺の肩に手を回して、卑しく笑う。
「こいつらが!人の言うことをお人好しに信じるからァ……今、貧民になってるんじゃないのかよ……?
……なあ!……力だけじゃない!
そもそもの問題だろうがよ、少し考えたら分かるだろ、盗賊が本当のことを言うかよ!?こいつらは『弱い』!
馬鹿で非力でお人好しで、おまけに不満すらあげない!
扱いやすいことこの上ないぜ!奴隷だっ、こいつらは!奴隷なんだよ!
生まれてから死ぬまで搾取されて、いもしねえ外敵に怯えながら、糞に塗れたこの場所で、三十年ぼっちの人生を終えるんだよ、ざまあないぜ」
私は何も話さなかった。あまりの言い様に閉口してしまったのではない。喉元まで込み上げていた感情のるつぼを抑えるのに精一杯であった。怒りではなく、もっと深く暗い気持ちであった。
「クソッタレ」そう呟いて。
右足を出す。
左足を出す。
私は歩き出した。
どこに?
分かっていたことだ。分かっていたことだ。仕方ないではないか、こういう時代なのだ。道には男の物乞いしかいない、少女すら、いない。そういうことだ。そういう時代なのだ。
右足が、勝手に出ている。
左足が、勝手に出ている。
ーー嘘だろう?当てられたのか?
私が?ーーハッ。唇が歪む。正義か?私が正義の十字架を背負うのか?この汚職政治家の私が?そんな資格があるとでも思っているのだろうか?今すぐにでも、貧民に身を落としてしまうべきだ。
でもそうはしない。私は死にたくはない。クズである。自分のことを守りたくてーー。
奴らの言い分は正しい。彼らは弱い。声すら上げない。搾取されて当然だ。そういう時代。
ーー現在もそうだ。そういうふうに世界ができているのだ。世界がそうできているなら、それは正しいことだ。無能な政治家。声すら上げない市民。声を上げても力のない市民。
それを、黙って見ている子供。
それを見て、育つ子供……。
息が荒くなった。
国。政治家。国民。そして、子供。
私は、これを見逃してしまえば、政治家どころか。大人として失格だ。
私が守りたかったもの、私が支えたかったものは。何処に?
(僕も、こんなになるのかなあ)少年の瞳に映っている私を、守りたかったのか?私は?私が一番初めの初めに、守りたかったものはなんだ。
ーーそんなの、端から決まっているだろう。
日が傾き始める中、走り出した一人の男がいた。
ーーーー
メイアが物心ついた時は、まだ母がいた。母は物乞いだった。貧民の女は娼館で働くのが普通だが、彼女は物乞いの道を選んだ。幼い子供がいる方が、人々に同情してもらえたからだ。
他にも、罹った奇病で、腕から植物が生えているのを見世物にしたり、彼女はそもそも商売上手で、向上心があって、働かなくなった父に変わって彼女が一番の稼ぎ頭だった。
メイアはそんな賢い母を愛していた。
ある日、母がメイアの目を抉り出そうとした。そうした方が同情してもらえるからだ。もちろん母の右目はすでになかった。それで血液から疫病に罹れば御の字である。もっと稼げる。疫病で死ぬより、飢餓で死ぬ方がずっと早いから。これには流石にメイアは嫌がった。目から涙を流していた。
母は、はっと、商売人の目から、『母の目』に、その片目が戻ると。
その場にあった全財産をメイアに託して、何処かへ行ってしまった。恐らく、耐えられなかったのだろう。
それを元手に職を探す。靴磨きをする仕事。コルベン(玉打ちする金持ちの遊び)の金持ちが打った玉を拾う仕事。酒屋の酔っ払った親父の相手(これが一番きつかった)。その果てに、彼のところへ、『雇い主』がやってきた。
彼は太った大男だった。手はむくんで、鼻は大きなホクロがついた豚鼻で、髪は脂でてかてかしていた。雇い主はメイアに自分を『叔父さん』とよばせた。叔父さんは普通に話せるくせに、メイアを赤ん坊か何かのように裏声の猫撫で声で話しかけた。気持ち悪かった。
「叔父さんネ、君のお父さんにお金を貸しているんだぁ、でも返してくれないんだよう(^_^;)、叔父さん困っちゃうのこのままじゃ。お前が働いて返してくれないカナ?」と雇い主は言った。気持ち悪い声だった。声まで脂ぎっていた。そうするしかなかった。メイアは、弱かったからだ。子供だったから。
しかし、やってみる途中で、この仕事はあまり悪くはないなと思っていった。工場で帆を作ったり、縄を編んだり、オールを作ったりする仕事は、靴で蹴られなかったし、金持ちの余興のために玉を当てられたりしなかったし、親父の相手をすることもなかった。それに漁船の部品を作って父さんのためになる、いい職業だった。叔父さんはいつもその様子を見張りながら、あれこれ歩き回って、昼までにうまいこと汗をかいて、ポークソテーを一枚、隠れて食べていた。
夜、パン一切れとニシンの入った塩辛いスープ。いつもの食事をとって、子供たちが並べられる。
黒い石の板を、決まって叔父さんは引きずって持ってくる。
子供の名前がそれぞれ書いてあって、そこには石で引っ掻いた白い丸が、ぐちゃぐちゃ、たくさん並べられていた。この丸一つが一ペソで、この丸は親の借金の額であるそうだ。それを一日一つずつ、叔父さんは横に線を入れて消していった。悪いことをした子は消されなかった。目の前で。目の前で、それをした。そうやって白い丸が線で全部消えたら、子供たちは解放されるらしかった。
その中で一日に、二つも丸を消してもらえる子がいた。その子は雇い主のお気に入りのようだった。他のみんなよりパンを一切れ多くもらえるし、理不尽な仕打ちも受けない。名はクレイン。赤毛の、小さい花のような、可憐な少女であった。
彼女は「ボクの可愛いクレインちゃん」と叔父さんから呼ばれていた。
メイアはすぐにクレインと仲良くなった。いや、『取り入った』という方が正しい。どんな世界でも状況でも、強いものに好かれることこそが弱いものの処世術であり、メイアは幼いながらにそれを知っていた。
クレインはメイアより二つくらい歳上のようだったが、こんな劣悪な環境においても快活な少女であった。しかも賢かった。クレインは雇い主の言うことに何も反発しないし、ずっと笑っているし、その脂ぎった手を拒まないし、メイアとの関係に、打算が多分に含まれているのを知っていて、その上でメイアと仲良くなった。優しかったのだ。
クレインは叔父さんと特別に寝床が近かった。「女が他の男に寝顔を見せるな」と叔父さんがクレインに言っていた。メイアは何故か、その時鳥肌が立った。多分、先頭に「俺の」が付いていたからだ。
それでメイアは理不尽な仕打ちも受けないし、真面目に働けば白丸も消えていく。
何処か満足していた。してしまっていた。
ある日の夜、クレインがメイアを起こした。彼女は興奮しているらしかった。
「ねえ、ちょっと来てよ」と呼ばれるままに、いつも叔父さんが昼飯を食っている納屋の後ろに行く。
何かを引っ掻く音がする。
そこにはあの黒板があって、叔父さんがいて、その白丸を、
『その日消した分の白丸を、増やしていた』。
だからぐちゃぐちゃに描いていたのか。と何処か感心していた。一つ増えても、分からないから。
「ねえ、逃げようよ。このままじゃ、死ぬまでこうだよ」とクレインは言った。その通りだとメイアも思った。
ーーでも。
「いやだ」とメイアは言った。「どうして」「いい。このままでも生きていけるでしょ。明日も。それでもういい」と。
それを言った時のクレインの顔が今でも忘れられない。
彼女は絶望していた。叔父さんと二人きりで『絶対に入ってはいけない』納屋の奥に行って、帰ってきた時より。
「何言ってんの、あんた。そうやって『腐って』良いわけないでしょ。駄目だよ。目を覚まして。助けてあげるから」そう言われてもメイアにはわからなかった。
「いらない」「え?」「助けなんて、いらない。満足してるから。余計なお世話」
だって、仕方ないではないか。仕方ない、仕方ない……。
クレインはいなくなった。逃げ出したわけではない。子供の一人がこの船小屋の『真実』をクレインが知ったのを、告発したのだ。多分、娼館に売られた。その告発した子供が次の『お気に入り』になって、メイアはもう何も感じなくなっていた。
そして、その顔をするに至る。
仕方ない。仕方ないーー。
仕事にも身が入らなくなる。何処か遠くへ行きたくなる。サボれば殴られる。でもそれでも抜け出す。でも痛くない。何処かにそういう感覚を置いてきてしまった。
理由はわからない。賢くあるべきなのに。叔父さんに、『仕方ない』に従うべきなのに。
まだ、なにか『仕方なくない』なにかが、あるのかもしれない。
また今日も殴られる。今日は殴られるだけでは済まないかもしれない。会うなり、胸を突き飛ばされた。
尻餅をつく。雇い主は馬乗りになる。それだけで腹の中身が飛び出しそうになる。拳が振り上げられる。でも仕方ないから。また……そう胸の中で口にしようとして、
頬を横切る涙に気づく。
仕方なかったことなんて、何もなかった。もういいことなんて、一つもなかった。満足しているから、幸せだから、もういい。
自由時間も、友達と遊ぶ時間も、食べ物も、寝床も、父さんも、母さんも、何一つ、満ち足りてなんかないのに。
満足したんじゃない。見て見ぬ振りしていただけだった。涙に。いつだって、メイアの心には、涙が流れていた。あの時メイアは、「助けて」と言わなかったのではない。
言えなかったのだ。
その時だった。
雇い主の拳が止まった。雇い主が「ぎっ!?」と豚が潰れるような声を出して横に転がった。頬を殴りとばされたののだ。
そして、殴り飛ばした張本人。雇い主を冷ややかな目で見下ろしている一人の男。
「……『おじさん』」彼はメイアの小さな手のひらに、一つのものを握らせた。それは小さな金属だったが、よほど大事に握っていたのか、温かった。
「おい!お前、誰だ!何しにきた!?」雇い主が喚く。それを彼は一瞥すると、すぐにメイアに向き直る。その目はメイアが今まで見たどの目よりも不愛想で、優しい趣があった。
「いえ……私はただの屑ですよ。彼に『預かっていたもの』を返しにきただけです」
メイアは手のひらを開く。そこには銀色のネクタイピンが光っていた。