○第三条○そういう時代
どうもここは港町らしい。家家の向こうに浜を越して海が見える。何本も石柱?が立っていてそこに帆を畳んだ漁船(ニシン漁船のようだ)がイカリやらをくくりつけているのか、停まっている。近づいてみる。潮風で肌がベタつく。
柱には亀の手らしき貝がびっしり張り付いていて、海は意外と暖かい。あまりウロウロしていると怪しまれかねないので、移動することにした。
貧民街は、道端に茶碗を持った人が大勢座り込んでいる。明らかに疫病を持っているような気色の人間もちらほら。縋ってくるのはほとんど子供だ。恐らく殺して盗む元気もないのだろう。あのボロ布の下には、アバラが胸まで浮いているのだ。
運河。川のおそらくは入り口であろう。幅五十メートル近くある。なかなかの大河のような気がする。
造船所。石垣から、何本も吊り下がったクレーン。滑車。街の中心は流石にレンガ造だ。そりゃあそうだ。
運河から枝分かれしたクリーク、そして水車が回っている。製粉場であろう、恐らく。
農地はあるのだろうか。三圃農法か?いや、恐らく海水性だからーー。
ここの主食は恐らく。
遠くから船が見える。人々が、何か大声で叫んでいる。恐らく意味はないのだ。
市場。新鮮な魚(ニシンのような小型。サバなどの青魚もある。近海漁業だろうか)が並べられている。比較的静かなこの街で、唯一賑やかである。どうやらまだ朝のようだ。
入ろうとすると、支配人?(魚を買うでもなくうろうろしている男たち。剣を腰に差している)から怪訝な顔をされたのでやめておいた。あそこで集まっているのは恐らくこの街でも富裕層、貧民はパン、ニシンの塩漬けでも食べるのではなかろうか。するといよいよ水分が足りない。川から取水しないのか。
あの支配人の陣営がこの街の領主筋であろう。にしては顔付きが粗野だが。
あの少年は仕事に戻っていってしまった。さっき出てきたのも休憩ではなかったらしい。雇い主の目を盗んで出てきたのだ。
まるで産業革命期のイギリスのような子供の扱いである。
港町である。いくら魚が腐りやすいと言っても、塩漬けにして内陸になり送ればかなりの収入になるはずだ。もしかして、孤児だろうか。
ーーいや、違う。まさか。
ーーいや、止そう。特定の人間に肩入れしようとする考え方はあまりにも危険だ。行政においても、一方を優遇することはあってはならない。ならないのだが。
「おじさん!」
「む」
呼ばれて振り返ると、先ほどの少年がいた。
「その怪我は?」
こめかみのあたりにあざがあった。
「え?大丈夫だよいつものことだから」
『いつものこと』?いつものことであってはいけないだろう。処置の仕方などわからない。が脳に後遺症が残ると非常にまずい。私は少年の肩を両手で持つと、
「いいですか、悪いことは言いません。私のことは構わないで。大人の言う通りにしなさい。確かに今は辛いことがあるかもしれません。でもね、耐え忍んでいればいつかーー」
「良いことがあるの?」
と少年が見透かしたように言ったその問いに、私は何も答えられなかった。驚きを禁じ得なかった。既視感があったからだ。この顔は。眉根を下げて、口角をあげて、何か受け入れているような、諦めているような、この厭世的な、この顔は。
ーー私だ。そして、日本国民の顔だ。
「ーー大人たちはみんなそう言う。苦しそうな顔をしちゃって、そう言う」
矛盾していることに気づいているのだ、この子は。もし耐え忍んでいいことがあるとするなら、大人がこんなこと言うはずもないし、薦めることもあり得ない。
「賢い。大人は賢いから、先のことを見てるんだもんね」
次の言葉に、絶句した。
「僕も、こんなになるのかなあ」
この子は賢い。みんなが乞食でいる中、この子は働いている。この世の中を生きるには、賢すぎる子なのだ。
「私はひさし。井上壽です」
「え?なに?」
「自己紹介ですよ」
私はこの子に、居住いを正して話をしなければいけない、と思った。
「僕はね、メイア」
「よろしく、メイア。一つ聞きたいことがあるのですが」「なに?」
「この街から、逃げ出したりしないのですか?」と尋ねる。すると、メイアは言いにくそうに俯きながら言う。
「ーー無理だよ。外には魔物がたくさんいるって、皆んなが。二つ隣んとこのシューベルさんもやられちゃった」
そして、また哀しそうな顔をする。
「……そうですか、では職務に戻りましょう」
「ショクムって?」
「ーーああ、職務って言うのはね、人のために働くことを言うんですよ」
そう言いながら、私とメイアは、来た道を、ゆっくり、踏みしめながら引き返していった。
ーーーー夕方。
聞くところによると、彼の父は漁師をやっていて、近海を回って小魚やらを取ってくる仕事をしているらしい。酒ばかり飲んで雇い主に借金をし、メイアは働いてその返済に奮闘しているそうだ。碌でも無い父親だと言ったが、メイアは慌てて否定した。昔はこうではなかったらしい。父親は働き者だったのだ、と。母の話はしなかった。私も特に踏み入ることはなく、彼は大きなレンガの壁の、子供しか入れなさそうな穴から入っていった。最後に、
「あ、これ『預かってた』よ」
とネクタイピンを返してくれた。優しくて、強い子だ。もしかすると、雇い主の束縛から彼は、逃げ切るかもしれない。この時代は強さがものを言うのだ。
体の強さも然り。頭の強さも然り。運の強さも然り。そういう時代なのだ。
「では、職務に励むように……なんて言いませんが、賢く頑張ってくださいね」
「うん!でもこれ、職務じゃないよ、人のためにならないんだもん」
また、また。その顔をする。
「……」
その言葉に対して、私は何も返すことができなくなっていた。私の胸の中で、行き詰まった言葉が反響する。
こう言う時代なのだ。仕方がないのだ。
こう言う時代なのだ……。
そう、言い聞かせる。