○第二条○劣悪な街
しまった、と思った。気絶させるのはやり過ぎた。これでは何も聞き出せないではないか。この世界のこと、ここの地理に魔法云々。さっきまでかろうじて意識があった三下どもも根掘り葉掘り聞き出そうとしたら都合のいいことに伸びやがった。
このまま待つのも良くない。彼らは野盗の一家である。この一団が音沙汰なければどうせ怪訝に思って増援が来る。そもそもこいつらは盗んだブツを運ぶ馬車なりなんなりももっていないのである。氷山の一角であることは確実なのだ。しかし来ない可能性もある。七三といったところか。
しかしまあ、私は政治家のくせに、運否天賦が嫌いだ。我が強いのはわかっている。
鎖帷子から腕に巻くコンパスじみたもの、巻いた布に描かれた地図を手に入れた。かなり古く簡略化されているように思える。野盗ならその地を転々とするものではないのか?野盗が流行るような時代であれば国は遷都が激しく、それに伴って移動のプロである必要があったはずなのだが、専門でないのでわからない。
それと三下から外套もいただいておこう。こんな目立つ格好では集魚灯もいいところだ。メガネだけは勘弁していただきたい。視力は0.1を切ってしまっているのだ。
持ち物は総じて17〜18世紀前後の感じがする。ちょうど日本は江戸時代である。ちなみに私は源氏だ。徳川と縁があるが、家康が当時そう言い張っているから恐らくそうだろう。
さて、地図に街らしきものが書かれている。川を跨いで、海に。
「Eine Sta……der……Me」ドイツ語に似ている。海?
いやほぼドイツ語だ。字が煤けて読めないだけだ。名前が長い。通称かもしれない。
とりあえず、私はコンパスに従い、そこに向かうようにした。
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旅路は過酷を極めた。まず野盗に見つからない必要があった。光を避け、音を立てないよう、用心して歩いた。リスに似た小動物がいた。命を脅かしうる怪物には出くわさなかったが、いるかもしれない、そんな可能性は拭えない。
それらは私の心を大いに乱した。この荒野。この世界。明らかに、元の世界の知識を超越した概念がある。それらに私は殺されるかも知れない、と思うと、後ろから足音が、追っかけてきているような気がした。
恐らくは気のせいであったが、死へのタイムリミットとしては、全く気のせいではないことだった。
誤算が二つある。地図の縮尺を間違えていたこと。ドイツと距離の単位が違った。数時間で着く計算が、川すら見えてこない。
水分が足りないこと。これは本当に痛い。氷は体内の水分を糧としていたのか?
自分の魔力の練度が足りなかったのか?
三日は持つと思っていたのに、これは不味い。恐らくそのどれとも違うこの世界特有の概念によるものだと思う。問題はもうこの時点で皮膚が紅潮し、頭痛がしてきていること。私の知識が正しければ、吐き気がしてきたらいよいよ不味い。
というかなぜ野盗は水分や食い物の一つも持っていなかったのだ。あり得ない。持ち物のシンプルさといい不用心さと言い、まるで安心する……定まった拠点があるかのような振る舞いをする。
地平が赤くなってきた。
朝焼けである。
しかし不味い、頭の周りが鈍くなってきた。
視界が滲んでいる。吐き気はまだだが、そう遠くない。
たまらずしゃがみ込む。三半規管の機能が低下している。どうも吐きそうだ。吐くものも腹にないのに奇妙なことだ。
朝日が昇りきった。暑い。しかし汗が出ない。
走馬灯が見えそうなほどに視界が歪む。
『ーーが』
ついに幻聴が聞こえてきた。
くそ、これまでかーー。
『物価高がー』『水道がーー』
おいおい、野次ではないか。最後くらい身内が出てきたらどうなんだ。水道なら水道業者に言え。県庁に言え。物価も円安も、クソ、こっちだってやってる。所得税も法人税も給付金もーー。今なんか落ち目じゃないか、こっちだって大変なんだよーー。
ーーいや。違う。
あっちだって大変だ。
腹の底に、熱いものがたぎった。
大変なのは知っていた。見てきた。でも違う。私は初めて、一次的な欲求において、困窮している。
本当に、腹がすいた。喉が渇いた。何年振りだろう。いつだって手を伸ばせば、そこに望むものがあったのだ。
ーー誰のおかげで?
たくさんの人々が関わっている。農家、水道業者、配達、etc……。
ーーそして。
「そうか、これが、政治かーー」
私は立ち上がった。歩みを進めた。歩かねばならない。前がわからない。進めているのかすらわからない。いや。周りが決めることだ。構わない。
構わない。進め。
進めーーそして。
……。
冷たいものが顔にかかった。初め、それは水だと思った。しかし少し粘度が高い。舐める。
ーー酒!
目が覚めた。まだ頭痛はする。しかし酒が口に入ると話は違う。やはり万能薬である。
腕をあげる。筋肉痛。しかし動く。折れたところは体感ない。空が青い。昼か。
そして私の顔を覗き込む子供がいる。年は七つほど。長いボンタン。サスペンダーのようなものが肩にかかり、上は動きやすそうな布。何度も繕った後。痛々しい手の豆。汚れた靴。
そして、輝く亜栗色の瞳。金髪。高い鼻。ゲルマン系。その子は、不思議そうにこちらを見つめている。
恐らく、労働者階級の少年。にしてはなんとその目の純粋なことか。
「おじさん、そんなとこにいたら死ぬよ?」
飛び出す言葉は可愛くなかった。確かに、彼がいなければ野垂れ死ぬか、金目のものを根こそぎやられていた。
というかネクタイピンがない。仕方あるまい。少年はニヤニヤしている。仕方あるまい、酒料ということか。
「ああ、どうもすみませんーー」
恩人である、敬語で侘びながらーーいや待て、酒?
水が劣悪だから少量エールを混ぜて誤魔化したのか……?川は?浄水機能は?
「な……」
臭い。糞尿系の臭さだ。恐らく道端に糞尿が捨ててある。川に流さないのか?そもそも汚水道は?下水道の整備は15世紀ごろからだった気がする。これで流行病でもやってきたら、ひとたまりもない。
ようやく視覚が回復して、輪郭がはっきりしてきた。街だ。街について私は、力尽きたのだ。並び立つ家家は粗末だ。レンガ造ではない、ほとんどが茅葺きで小さい。あれでは一間もないし雪も防げない。恐らく寝床も簀巻きだ。雪が降る気候なのに。公道も整備されていない。貧民街なのか。にしては広い。街そのもののような。どういうことだ。
「おじさん、乞食だったの?にしては綺麗なのに」
そう言って少年はネクタイピンを持ち上げる。
いや、そもそも、こんな小さな子供に労働をさせる時点で……。
「どうなっとるんだ、この街の行政は……」
そう呆然と呟いた。
少年は、可愛らしく首を傾げた。
あと二話アップする気でいます。