◯第九条◯『政治家』
私はふと死んだときのことを思い出した。トラックに撥ねられた時のことだ。私は明滅する意識の中で、光を見た。
ーー私は無論、『声を上げない側の』人間だ。
井上壽は、そう思う。もし誰かが不整脈で倒れていたのを見かけたとしても、私は声を上げない。私は何も傷まないからだ。しかし家族が倒れたら、私は叫ぼう。心が痛いからだ。そして私が倒れたら、大声で。私が痛い、と。
あまりに自己中心的な人間である。でもそれも一つの『強さ』だ。この苦しい、終わらない闇のような現代を生き抜くためには、必要な。パンツァーの残酷さも、シューマンの卑劣さも、全てそれぞれの、『強さ』だ。強さ、の反対は弱さ、ではない。また別の『強さ』なのだ。でも、強さには種類がある。あのとき倒れた私に駆け寄ってきたその男は、眩しい、光り輝く『強さ』を持っていた。
それに焦がれてしまう。皆がついていき、そのためになろうとする。その強さこそ、『政治家の強さ』のひとつであるべきだ。
でも私は違う。私の強さは、どこまでも闇。なのに政治家になった。ただ弁が立つからだ。政治家になる。政治家はつくづく、『成る』ものだ。無論、政治家以外だってなるものだ。だがスイッチをおしたら勝手に成るものではないのだと思う。大人なんかその最たる例で、『成る』ものではなく『慣れる』ものだと。
しかし政治家は理想がなければ。皆が目を向ける、理想が。光。眩しい強さ。不屈の理想。それが政治の一つ、政治とはーー。
ふ、と井上壽は笑った。塩っぽい風が頬を叩く。日が沈んだか。
王都からの帰り道、私は目隠しをされたまま馬車に乗っていた。どうやらこれからダーズリィ家に連れて行かれるらしい。逃げるべきだったかな。もう殺されても文句は言えない状態にある。
暗闇の中、音と、風と、悪路に跳ねる板の感触だけが尻に響く。無論、脳裏にこれからのことが浮かぶ。
脚気、骨粗鬆症、ビタミンB1とB2だったか、やはり手っ取り早いのは果物なんかの摂取であろうが、それを調達には金がいる。奪ってきたとしてもそれではあの街の経済はいつまで経っても潤わず、結果的に対症療法となってしまう。原因療法をしなければ。
あの街はまだやれる。建て直せると、そう思う。
港町の屋根が藁であったように畜産も無理というわけではないだろうがやはりビタミンは取れない。そもそも盗賊共が暴利を貪り、港町の町民の分までニシンを塩漬けにしているのが悪い。ただそれを変えるには力がいる。力のない井上壽は知恵を回すしかない。生魚を生魚のまま、栄養価を保って保存する方法。
やはり氷漬けだろう。
「着いたぞ」
パンツァーがぶっきらぼうに声を掛ける。井上は目隠しに手をかけるが、
「馬鹿、取るのは中に入ってからだ」
なかなか警戒心の強いことだ、確かに盗賊にとって本拠点がはっきりすることは宜しくないが、家財を持って拠点を移せばいいのではないか。そうできない理由があるのだろうか。
ぎし、と木の階段を降りる感じがする。なるほど、地下か?入り口が少なく、攻め込みにくくて良いことだ。さて、客間。所々破けた、豪奢なソファーが対に置かれた、かなり散らかった部屋である。向こうには、茶髪で鼻の大きな、老齢の風格ある女性が座っている。
「へぇ、この男がオルガ家に風穴を上げる斥候かい」
声はしゃがれていて、かえって味が出ている。パンツァーは頷く。
「いや、この街を良くしたい政治家ですよ」「名は?」「井上壽です」「ダァ婆だよ」
ダァ婆は、煙管に刻みたばこを詰めながら、ちらりと壽を見た。
「駄目だね。あんたじゃ弾除けにすらならない。魔力が少ない。武器もない。あたしの知るところでは『政治家』とやらはーー、この街で、一番力のあるものを指す」
「では貴方がこの街の政治家か」
「いやいや。あたしゃ、盗賊だよ」
にい、と意地の悪い顔をして笑った。黄色い歯の奥に金歯が見える。
「『政治家』に盗賊がなれるような時代だからねえ、市民は馬鹿ばかりだよ……。あんたがたは声すら上げん。まるで家畜よ。あたしらに搾取されるだけのね」
「あんたらが、『そう』したんでしょうが……!」
「当たり前さね。そっちの方が、上にとってどれだけ都合がいいことか。いいことを教えてやろう……弱者の条件はしめて二つ。一つ、弱いこと。二つ。なんにもしないこと。声を上げない。ただ辛い目にあうのを、説教される子供みたいにだまーって聞いてるだけ」
「……それは貴方が、声にならない声を聞いていないからだ。」
「そんなもん聞けるもんさね。一銭にもならんのに」
「その『声』は今にも、貴方の首筋に迫っているとしたら?」
ーーなに?いきなり声色を重々しく変えた彼女は、肥満体を揺らしてのっしのっしと、子弟の制止もきかずにやってくる。
「脅しかい?」鼻先までその凶器じみた顔が近づく。壽の二倍はありそうな顔だ。
「オルガ家の手によってあなた方の資金源が中抜きされている」
「ほお、証拠は」
俺だ、と前に出てきたのはパンツァー。それを見てダァ婆は眉を上げる。
「息子よ。証拠はお前が?」「いや、マム。奴が持っています。そして、俺は奴が持っているということを知っています」
「なぜ身ぐるみを剥いで奪わない」「奴はその証拠を隠しています」「爪を剥げ」「吐くと思われますか」
そうパンツァーがいうと、ふむ、と煙混じりのため息をついてソファーに腰掛け、長くダァ婆は沈黙し、じゃらじゃら光物をつけた右手の人差し指をちょいと動かすと、一陣の、風。手には年季の入った煙管が手に握られている……すでに刻みたばこは巻いてあるのか、ふい、と火をつけ、咽せないように、長く、一服。
「取引というわけかい。小僧」
「違います」「ーーなに?」
「私はこの街を良くしたいだけだ」
そう言った私を、こぼれ落ちそうなほどに目を見開いて見つめたダァ婆は、「ゲラゲラゲラ」と、ふいに笑い出した。しわの入り方といい声色といいなかなか様になる笑い方だ。
「くっくっ、ふーーっ、お前、政治家ってのは、みーんなそんな馬鹿ばかりなのかい」
「そうです」
「いいじゃないか。気に入ったよ。阿呆は嫌いだが、馬鹿は好きでね。いいよ。力を貸そう」
* * *
その後ーー。
「なんで殺さなかったんだ、マム。その手筈だったろ」
パンツァーは苛立ち気味に聞いた。あの時点、奴はダーズリィ家に囲まれた時点で一斉に襲いかかって殺す算段だったのだ。いくら魔力を吸おうと数には勝てない。その好機を逃してしまった。
「奴が政治家だからさ」
ダァ婆は煙管を咥えたまま、そう言った。
「なんだって?」そんなにも価値があるのか、『政治家』が?自分たちにとって将来の害となりうる人物だったはずだ。それを組織の内側に、入れ込んでもかまわないほどに?
「その着物ーー、スーツとか言ったか。あれにはね。息子よ。おったちゃ死ぬのよ。北の国だ」
「ーーしかし」「いや、それもただの平民じゃない。あそこまで綺麗なのは見たことないがおそらくーー、『政治家』ってのは、北の国の高官だ。上級国民ってやつさ。今のうちになんとか拘束するべきだが、報復が分からん。どちらにせよ、なんとか奴からは離れるんじゃないよ」
北の国。三方を海、一方を大瀑布に囲まれた秘境。確かに奴らの戦力は未知数だ。ただ護衛も何も無しに?普通はあの状況に陥った時点で護衛が飛んでくるはずだ。それでも、ここまで下手に出る必要はないではないか。そんな不満が顔に現れたのか、ダァ婆が付け足す。
「資金がいるんだよ。「銃」を買う為の金がね」
「銃?ーーあぁ、あの火薬で豆飛ばすってきうあれか?あれじゃあ初歩魔法にも威力が及ばない」
「そうかい。お前にはそう見えるかい。でもね、分かるかい?風の匂いが変わるのが。戦争の常識が変わる。時代が変わるんだよ。短期決戦、一騎当千の時代から、持久戦、総力戦の時代にね。もう、すぐそこに終わりが来てるんだよ。魔法の時代はね。これからは、銃の時代だ」
ダァ婆は勝気な笑みを浮かべる。この時代の移り目に、勝負を挑む者の目であった。