雑貨屋トットテルリ その3
「手紙の内容なんてどうでもよかったんだ」
首を絞めて殺そうとしていた、あるいはそれらの行為に近しい感情を抱いていた。
だが、その感情は結局のところキリにとってはどうでも良いことだった。
現状のキリにとっては既にかこの事、ただの「かつて」でしかなかった。
「では」
言葉を発せられないでいるカンパネラの代わりに、シズクが質問をしている。
とろとろと滑らかな黒髪が路地裏の少しカビ臭い気配をまとっている。
宵闇に潜む黒い野良猫のような緊迫感、あるいは人間の魂への無関心のような具合。
シズクの目線は間違いなく男女、抱き締め合う男女の姿を捕らえている。そのはずなのに、視点はどこまでも遠い町の霞みを眺めているようだった。
だからなのだろうか? キリは思春期や男のプライドないし、個人の領域を少しだけ忘れて、思い出話に集中することができていた。
「いじめられていたんだよ」
長々と離しても仕方がない。
キリは結論から話すことにした。
「俺はカンパネラを含んだクラスメイトにいじめられて、そして、ある時思い立って自殺をした」
「ですがあなたは生きている。あなたはもしかして幽霊か何かなのでしょうか?」
「それは違うね、俺は、少なくとも俺自身は死んではいないと思っている」
例えば家族の様子がおかしくなっただとか、話しかけても返事がないだとか、そのようなことは起きていない。
「そりゃあ、病院で目ぇ覚ました後々はもう、親父もお袋もしばらくノイローゼ気味が長々と続いたけどな」
キリが善良な一般人であるように、彼を育てた両親もそれなりにきちんとした一般の方々である。
だからこそご両親はクラスメイトに激怒した。
子供だから、若いから、あらゆる言い訳と情状酌量を全て破壊し尽くす勢いで激怒したのだ。
つまりは暴力よりも絶対的な力、権力や知力、そして何より財力を以てして糞餓鬼どもをぶちのめした。
「なるほど、裁判沙汰の諸々で慰謝料なのですね」
「ああ、若干やり過ぎなほどだったよ」
それこそ、とキリは風の噂で聞いた話をシズクに話す。
「金に困って末の娘を魔術師協会に身売りさせて、その娘の給料で何とか生活しているとか」
キリはカンパネラを抱き締める腕を少し強めた。
包容の強さは、せいぜいこの後しっぽり楽しむカップルの力量程度でしかない。
「だとすれば」
シズクは短絡的な推理をする。
既にその手からナイフは離されている。
ナイフはホルスターのなかにしっかり、誰も傷つけないように安全に仕舞われている。
「あなたは憎き敵であるカンパネラさんを殺したかった」
「それは、まあ、たしかに」
キリは歯切れ悪く答えている。
そして、己の罪を告白した。
「ホントのことを言えば、ついさっきまで忘れていたんだ」
シズクに殺されそうになって、脳みそが強引に封印されていた記憶を引きずり出した。
「気分的にはマジ最悪だよ。墓場を荒らされたミイラの気持ちが今なら分かるぜ」
若干シズクに対する恨めしさをこぼしつつ、しかしキリはそれ異常の苦味をまだうまく受け止めきれないでいた。
「忘れていたんだよ。自分がいじめられていたことも、それで自殺しようとしてたことでさえ、俺にとってはただの過去なんだ。
我ながら、まさかここまで図太く生きられるなんて、当時の俺に教えてやりたいくらいだ」
しかし過去に戻るタイムスリップが目の前に現れたとしても、キリは余裕でその道具を踏み潰しただろう。
特に考えることもなく、ゴミを捨てるように。
「思い出したくない。辛かったことには違いないけど、実のところ、俺が死のうとした理由はもっと別のところにあったんだ」
それこそ忘れたいくらいに下らない。そして実際に忘れられるくらいには些細なことだった。
「それは?」
質問したのはシズクではなかった。
問いを投げたのはカンパネラだった。
モゾモゾとした声。
呻き声でも上げているのだろうか? カンパネラはキリの腕のなかで苦しそうに呼吸を繰り返していた。
はあ、とキリはため息をついていた。
呆れや苛立ちや怒りのジェスチャーにしてはずいぶんと湿度が高い呼気。
まるで裁判官に重たい罪を宣告させられた被告人のような、そんな息苦しさだった。
「これがもしも、お前以外のクラスメイトの糞どもだったら、俺は余裕で首を締め上げてたんだろうなぁ」
もしもの話を少し考える。
ちょっとした現実逃避の後、キリは本当のところをカンパネラに伝えた。
「手紙をもらってさ。その、いじめられていた最中にお前だけが、こっそり、俺に謝ろうとして……手紙を寄越してくれたんだったか」
「ええ」
カンパネラはまだキリの腕のなかにいた。
「いじめを見過ごすのが辛くて、せめて、辛いのを軽くしようとして、手紙なんかで謝ろうとしたの」
「なるほどね」
キリは想像している。
女子のヒエラルキーやら同調圧力どうのこうの、何となく想像できる範囲内においてもそれらに属するメスガキ一匹が反逆の意を示したとしたら?
分からせられるだけだ。
集団の暴力をその身を以てして理解するだけである。
「よくある話だな。テンプレとさえ思えてくるぜ」
やれやれ、とキリはそこでようやくカンパネラに向けて若干の哀れみを向けていた。
「でも、手紙を渡せなかった」
カンパネラも罪を告白する。
「友達の目がいつも以上に怖くて、なかなかうまくできなかった。だから、手紙を渡せないから、あなたは一人で孤独で」
自殺をしたと?
「それは違うな」
キリはカンパネラの意見をはっきり否定していた。
「実は、……君がこっそり手紙を書いているのを、夕方の学校で見ていたんだ」
カンパネラは誰にも見られない時間を求めて、キリの方は単純にパシリやら掃除当番の押し付けどうのこうので、とにかく彼らは学校で勝手に秘密を共有していたのだ。
キリの一方的な視点だった。
「嬉しかったさ。そりゃ、クラスの一群のかわいい女子が俺に手紙を書いていてくれるなんて、しかも独り言で何度も俺の名前を呼んでくれたりさ」
子供心の甘い思いで。
甘くて、糖分が高くて吐き気を催す。
「で、次の瞬間には俺はもう死にたくなっていた」
何故に?
「考えたくなかったんだよ」
何を?
「俺にこんなひどいことをするような奴らが、まさか、そんな人間らしい、いっそ天使かとも思えるほどに優しいことをしようとしているなんて。絶対に考えたくなかった」
キリはゆっくりと殺意を取り戻している。
抱き締めるての強さは変わらない。
「いじめてくる全員が狂暴で、怖くて怖くて、なにか……そうだな……地震とか津波とか、そう……そういう感じのどうしようもない存在だと、俺はそう信じて生きていたんだ」
それがキリの「かつて」だった。
かつての彼の日常だった。
しかし日常は無惨にも切り裂かれた。
「なのに……! なのに、散々めちゃくちゃにしてきた怖いのが、意かにもしおらしく「ごめんなさい、悪気はなかったの、許して」何て言ってきて。
俺はどうすりゃよかったんだよ?」
ただひたすらに惨めになるだけだった。
そしてキリは確信した。
己に決定を下した。
「ああ、そうか、分かった。俺はこの先延々と、ずっと、一生!! ただ強くて美しい人気者に好き勝手に嬲られて、相手がちょっと疲れて飽きたらそれっぽく優しくされる。優しくされて……っ……雑な罪滅ぼしの材料にされるだけ。
ただそれだけ!
ただそれだけの存在なんだなって!!」
これ以上無責任に蹂躙されてたまるものか。
かつて、彼は「無責任」につばを吐きかけるために自らを殺そうとした。
「それだけの話だよ」
キリは話し終えようとする。
「全部、終わったことだ」
「違う」
しかしカンパネラがそれを許さなかった。
彼女は気泡が破裂するような勢いで彼から体を離している。
相手の声をひとつも聞き逃さないように、あるいは自分の言葉がしっかりと相手に届くように、互いの距離は極端に短い。
カンパネラは、涙が枯れ果てた表情で意思を伝える。
「終わってないし、あなたは、間違っている」
間違いを指摘した。
「殺すべきだったのよ! 昔の私を殺すべきだったし、今の私も殺すべきなのよ」
カンパネラは怒り狂っていた。
「いじめるだけいじめて勝手に幸せになる私の友達もそう。先生も、他のクラスメイトも、全員殺すべきだった。
そしてなにより……自分だけ助かろうとした卑怯ものの私を、殺すべきだったのよ……」
キリは頭を降る。
「無理だよ……。優しくしてくれたことには変わりなくて、そんな奴に酷ことできるくらいなら、そもそも俺はあの教室でいじめられたりなんかしなかった」
キリは同情した。
かつての、自分を含めた教室の子供たちに同情した。
「可哀想なんだよ。それだけだ、あんな狭い場所で勝手に戦場をつくって得意気になっていて。
大人になったら、そうでなくとも年を取ったら、老化したら全部どうでもよくなる時間を、無駄に過ごしたんだ」
キリはカンパネラの目をまっすぐ見る。
「俺たちは時間を無駄にしたんだ。それは大罪だ。そしてもう、二度と取り返しがつかない」
手遅れであることを、彼と彼女は確認しあった。
「許そうとか許さないとか、考えたいなら勝手に考えてくれ。俺もそうする。
でも、時間は戻っちゃくれないんだ」
「ええ、そうね」
いじめっこは、本当に人を勝手にいじめられるほどには自由で、無責任な何かは、意味も考えずにただ幸せを探すだけ。
そしていじめられっこは、幸いにも戦場から生き延びた彼らは、傷を抱えたまま生き延びる。
痛みに憎しみを、殺意を覚えるかもしれない。
しかしキリは忘却を選んでいた。
忘れて、生き延びようとしていた。
「だけどな~」
キリは、ようやく肩の荷を下ろして昨今の若者らしい表情に戻る。
「やっぱり、嬉しかったって思いも、米粒一つぐらいにはあったからさ」
恥ずかしそうに、キリはうつむいた。
「だってそうだろ? さえない地味野郎がクラス一の美女に手紙もらうとか、ラブコメかっつうの」
結論として、キリは自分なりの答えを導き出す。
「俺は、君を含めたあのときのクラスメイトの全員を憎み続ける。絶対に許さない。
それに、ちょっとした恋心未満も、あんたらの下品な笑い声のついでに思い出したりするよ」
「私は、どうしよう?」
さ迷える、カンパネラに向けてキリは残酷にも良い放つ。
「それは自分で考えてくれ。ああ、あと、たぶんもう俺たちは会わない方がいい」
キリは少し寂しそうにしていた。
「何にせよ生き残ったんだ。戦場はもう過去だし、俺たちは大人になって別の戦場に出掛けなくちゃならない」
キリはその場から離れる。
「できるだけ楽しく生きていくよ。まあまあ良いもんだぜ? この世界のどこかで俺をいじめたゴミが、罪に苛まれながら生きているって考えながら生きていくのは」
挨拶だけを残す。
「じゃあな、さようなら」
左様なら、あなた多くの業苦が訪れますように。




