救われなかったドMやろう その2
魔法使いともあろうものが、神殺しを専門とする殺し屋が、魔術師の攻撃に対応できなかった。
不覚、と思うと同時にシズクは右手の呪いを使って即反撃に反撃にうつろうとしていた。
視認できないにしても、魔王の呪いに染め上げられた右腕なら何かしらの対処を行えるはずだった。
「う……んぅ……ぐ」
しかし触れようとする対象が見つからない。
シズクは違和感を覚える。攻撃を受けているはずなのに、存在を認識することがどうしてもできない。
まるで空気が殺意を伴って攻撃をしてきたかのような感覚だった。
触れようとしても触れられない、そもそも触れるという可能性すら与えられていない。
ただ一方的に蹂躙される。
「何か」がシズクの右頬を思いきり殴り飛ばしていた。
ぎゅう、と肉がつぶれて骨がきしむ。シズクは構えることもできないまま、濡れ雑巾のように床に転げ落ちている。
「シズク!」
ルイが助けようとしたが、別の「何か」に邪魔される。
「……っ!」
まるで巨大な手のひらに押さえつけられているかのような理不尽さだった。
ルイはそのまま謎の力に押さえ込まれ、床にめり込む勢いで束縛される。
「貴方にはしばらく大人しくしてもらう」
「……!」
動けなくなったルイに目配せしつつ、クルミは椅子に座ったままシズクへの攻撃を再開する。
「これは質問でもない、かといって提案ですらない。ただの拷問だ」
クルミは、能力と思わしき力でシズクの頭をつかもうとした。
が、「手」が滑ったらしい、なかなかうまくできずに、結局は長い黒髪を雑につかんで引っ張りあげている。
首吊り寸前まで吊り上げられたシズクに「何か」はまた顔面に打撃を加えている。
奥歯が折れる音がシズクの口内に密かに響く。
クルミは彼女に尋問する。
「降伏しろ、あるいはここで死ね」
なぜか。
「魔王が完全体に戻るためには、その半分の権力を封印したお前の存在が邪魔なんだよ」
腹立たしさをぶつけるようにまた殴る。
腹部、へその上の辺りを捻るように。
ぐりゅ、と内蔵が非常識に圧迫される。
消化器系の物理的な圧迫感に、シズクはたまらず食道から飲んだばかりの飲料を胃液ごと吐き出している。
「げぇ……ぇうぅ」
「きたねぇな」
吐瀉物に濡れるシズクのワンピースを蔑んだ目で見ながら、気を取りなおして質問を繰り返す。
首をつかんで締め上げる、なるべく苦痛を与え続ける。
「殺す前に、魔王の権利を奪った方法だけでも聞いておこうかな」
魔王の力は本来血筋によって決まる。
「限られた存在にしか許されないのが、いくらクローン体だからといってそんな、ビスケットみたいに気軽に半分ことか、ふざけてんのか?」
世界を色々な意味で操れる可能性。
「核兵器よりおぞましく、ガス兵器より禍根を残し、またあらゆる戦争行為さえも一方的に蹂躙する」
それはもはや自然災害だった。
「それを、お茶くみ人形扱いだ? 冗談もほどほどにしろよ糞魔法使い」
もう一度腹を殴る。
吐き出すものがない、シズクはただ胃から逆流する胃酸に喉をシュワシュワと焼くだけだった。
クルミは「何か」を使ってシズクを床に叩きつける。
ばちゅ、と皮膚が許容範囲外の衝撃に内部出血を起こしている。
「ぅ」
シズクは起き上がろうとしたが、クルミ本人の靴底が彼女の頭部を踏みつけている。
頭蓋骨に衝撃、シズクは足蹴にされながら、その靴底に濡れる雨の匂いを鼻腔に感じている。
「教えろよ。どうやって魔王の御力を奪いやがった? この雑魚魔物が」
答えるべきか、シズクは少し考える。
そこへ、少しの沈黙も我慢できなかったクルミが彼女の左手を鷲掴みにした。
「さっさと答えろよ、こっちは暇じゃねえんだよ」
ナイフを取り出して、シズクの皮膚をためらいなく削ぐ。
クルミ自身にはあまり腕力がないのだろう、生ハムのように都合よく肉は削げなかった。
あるいは、苦痛を増幅させるという意味合いにおいては、ちょうどよかったのかもしれない。
ぶちゅ、と刃物が剣呑に皮膚をえぐる。
痛覚が容赦なく刺激される。
「ひ、……ぎぃ……ぃぃ」
シズクは悲鳴を上げそうになる唇を懸命に引き結ぶ。
皮膚が剥がれる程度の痛みは、とりあえず経験済みではあった。
「悲鳴も上げないか、つまんねえの」
クルミは舌打ちをして、すぐに「何か」に頼る。
何かしらがシズクの右足をつかみ、足が本来曲がるべき方角とは逆方向に骨を屈折させようとする。
ゆっくり、ゆっくりと。
「……ぅっ!!!」
皮膚を削がれ、足を小枝のように折られる。
涙をこぼす暇もなく、シズクは自らの足が破壊される音をただ耳にするだけだった。
太めの樹木が折れるような音。
「あああああ! がぁっ……! ぅアアアアアアっ!!」
悲鳴をうるさそうに聞きながら、「何か」がシズクを再び首吊り状態に固定する。
吐瀉物、血液、鼻水、涙は少しだけ。
シズクは痛覚に翻弄されつくし朦朧とする意識のなか、首を絞め続けるクルミの姿を見続けている。
ここで殺されるのか、とシズクは思った。
「お前を殺したとき、魔王の権利は完全体となる」
それはクルミに言われるでもなく、シズクもよく知っている事実だった。
魔王が復活する。
それは、シズクがこの世界で一番一番愛した女性が、死んでも望まない可能性だった。
だからシズクは魔王復活を阻止する。
そのために必要なのは、自殺という行為。自らの全ての可能性を否定する行為。
「……」
シズクはすぐに右手の獣爪を使って自らの頸動脈を切り裂こうとした。
首がダメなら心臓をつく。
そこがダメなら脳を潰す。
魔王の半分が消えれば、復活はしない。世界を滅ぼせる可能性もなくなる。
いざというときにシズクが決めている方法のひとつ。ただそれだけのことだった。
しかしシズクが動いたと同時、いや……もしかすると瞳の中の揺らめきを感じ取った瞬間、クルミは彼女が何を実行しようとしているのか、即座に理解したようだった。
「!」
クルミは自らの力を使ってシズクを横凪にした。
赤ん坊が気に入らないものを排除するかのような動作。
シズクは強風に飛ばされたかのように壁に叩きつけられていた。
体全体、当然頭部も強く殴打する。
「普通の人間」であれば重症レベルの脳震盪に、たまらずシズクは意識を手放してしまった。
ぐったりと人形のように動かなくなったシズク。
あとにクルミの苦しそうな吐息が響いている。
「はぁ……っ……はぁ……っ!」
ゼエゼエと喘いでいる、クルミは悪態をつく。
「……くそっ」
どうやら彼は少女の行動がひどく気に入らなかったようだった。
不快感にさいなまれている。
集中力が乱される。
動揺しすぎている。
そのために、シズクはあるべき場所にあるものが、稲光のような速度で自分に襲いかかっていることに気づくことができなかった。
ざくん、刀のきらめき、魔王が敵の右腕を切断していた。
「え?」
痛覚も追い付かない、出血の速度も追い付かないほどに魔王ルイは追撃をする。
銀色に輝く刀がまっすぐ、冬の風のようにまっすぐクルミの首を刺殺しようとする。
「……ひっ!」
攻撃を防ぐというよりは、ただ己の死を悟っただけであった。
クルミは涙を流しそうな勢いで全身が確定された死へと一直線に誘われる感覚を全身に浴びる。
いっそ快感ともとれる冷たさ。
しかし求めるべき快楽はクルミのもとには訪れなかった。
「……」
ルイの攻撃は「何か」によって阻まれていた。
雷撃のごとく強烈な突きは、何かしらに深々と突き刺さっている。
「チッ」ルイは舌打ちをして、即座に刀を強く握りしめて「何か」の肉を切り裂いた。
概念的存在であるはずのそれらが、魔王の手にかかればまるで生き物のように切り刻まれてしまう。
何かしらが切り刻まれた肉から黒色の体液をドバドバとこぼしている。
返り血のように体液を浴びる魔王の姿を見て、クルミが歓喜の声を発していた。
「ぎゃは、ぎゃははは! やった、やった!! 魔王が復活した!」
やはりシズクを殺すことによって魔王の力はルイのもとに戻るようだった。
「魔王だ、魔王だ」
恵みの雨のように、クルミはルイの存在を歓喜する。
「魔王さえいれば、勇者も姫も戻ってくる」
シズクの存在など前座にすぎない、クルミは魔王のことしか見ていない。
「さあ、あるべき場所へ帰りましょう」
差しのべられた手。
その手をルイは刀で真っ二つに割いていた。
「え?」
クルミは自らの手が割けるチーズのようになっているのを理解しきれないでいる。
魔王は続けてクルミの口を横凪に斬る。
口が裂ける、クルミは忘れていた痛覚を強制的に思い出す。
「ぎゃあああああ!」
倒れかれをルイはハイキックで蹴り飛ばす。
「がふっ」
倒れたクルミの上にまたがり、ルイはその左足を刀で刺し、三十センチほど刃物を肉の中で滑らした。
「があああああ」
縦に裂かれる肉。
ルイはそれを汚物そのもののように見ている。
「どうして」
クルミがルイに問う。
魔王として権力を振りかざす立場が、たかが魔物の小娘一匹のために王の力を使う。
「どうして!」
事実に耐えきれず、クルミはただ質問をするだけだった。
問われる。
だからルイは答える。
「貴様が、わたしの唯一の姫君をな嬲ったからだ」
「姫……?」
「彼女はわたしの命そのものだ」
「愛人か?」
ルイは刀で三回ほどクルミの肉をぐちゃぐちゃと蹂躙する。
クルミの悲鳴を下らなさそうに聞き流す。
「ふざけるな、馬鹿なのか?」
心底気持ち悪そうに、ルイは敵を見下す。
「まさか勇者の使いが近親相姦趣味だったとはな、これはこれは、実にスキャンダルだ」
「きんしん、そうかん」
「腹立たしい……わたしはロトではないんだ」
なぜここで「ドラゴンクエスト」の勇者の名前が登場するのか。
クルミは疑問を抱いたが、ルイはその問いには答えようとしなかった。
それよりもルイは自責の念に苛まれていた。
「ああ……自分が情けない」
奥歯を噛み砕く勢いで悔恨する。
「彼女の意識が奪われなければ、彼女を守ることができない」
「それは」クルミは魔術師としての思考を使う。
「操り人形のあれが、貴方の魔力を消費しているからでは」
「違う」
ルイは否定する。
「逆だ。シズクはわたしを……この世界に留めるために自らの魔王の力を使い続けている」
「それは、魔王はあの雑魚魔物だということ?」
「そうなるはずだった」
王権のように、王は二人も要らない。
王が死ねば、血を継ぐ子供が次の王になる。
「その方法は、続きの魔王が終わった魔王を食い尽くす。ただそれだけだ」
カニバリズムにクルミは喉をひゅうと冷たくならす。
「わたしたちは食い合った」
ルイは暗い表情だった。
「わたしは、王としての本能のままに彼女を食い尽くそうとした」
だが、シズクはルイを全て食べなかった。
「わたしが死ぬのを彼女は否定した」
「なんのために」
「……わたしを、妻と……わたしの娘と会わせたいと……」
願った。
だから食べなかった。
「わたしをただの……もとの姿に戻して……彼女は魔王としてのわたしだけを食べて……食べて、……そして」
自殺を図った。
己の可能性を全て捨てて、シズクはルイに幸せな未来を与えようとした。
「魔王はそのとき死んだんだ」
ルイは断定する。
「だってそうだろう? 魔王は自殺したんだ、だから死んだ」
「だが」
クルミは疑問を抱く。
「魔王はまだ生きている」
「ああ、そうだよ」
だんだんと、ルイの話す言葉の音色が子供っぽくなっていることに、クルミは最後まで気づいていないようだった。
「願ったからね」
魔王の手によって産み出された、物語が願った。
あらゆる運命に愛される存在。
「お願いします、自分はどうなっても構いません、あの子を助けてくださいって」
ルイは微笑む。
「ずっと、あの子が産まれてから、ずっと、ずっと……願い続けてきたんだ」
願いは叶った。
いや、ぶつかり合ったというべきか。
「あいつと貴方の願いが、お互いの願望を殺し合った……だと……?」
クルミは超人的な理解力を行使している。
「超常的な存在による欲求が殺し合いをし、魔王の権限が分割された」
馬鹿な、とクルミは馬鹿にする。
「そんな真似ができるのは」
勇者か、神か、魔王か。
あとは。
「姫」
物語に必要な要素を、ルイは冊子の悪い馬鹿に丁寧に教える。
「姫は全てに助けられるべき存在。神の愛娘。勇者に助けられ、魔王が渇望し、ありとあらゆる運命に甘やかされる」
そして。
「わたし、アイオイ・ルイが母から受け継いだ物語でもある」
「姫」の魔物であるルイが強く、強く願い、魔王は死を免れた。
ありとあらゆる運命が魔王を救おうと動かされた。
しかし死を否定するほどの願いが、何の代償もなく叶えられてはいけない。その分の呪いを受ける。
「姫は呪われるものだからね」
故に、ルイは呪いが解ける前の姿に戻された。
魔王に戻ったのだ。
「でも、完全に戻ったら続きの魔王が死んでしまう」
存在を消滅させないために、彼女を守るために、「姫」はもうすこしわがままをした。
「魔王を殺さないで、でも魔王を復活させないで」
と、いうわけで、魔王は二分割されたのであった。
「意味がわからない!」
クルミは叫んでいる。
叫びにルイは同意をする。
「「姫」の願いであっても、あるいは「魔王」の力をもってしても、完全なる二分割は不可能だった」
ルイはまるで自らの失態のように悔やんでいる。
「エレキギターの仕組みはわかるかな?」
「ぎ、ギター?」
話が行きなりとんだものかと、そう思い込みかけるクルミに、ルイは罵倒そのもののため息を吐く。
「それぞれが独立しては美しい音色は発せられない。
だがギターがコードを刻み、アンプが音色を整えることで魂を震わせる音色を産み出す」
クルミの頭のなかに昨日の戦闘行為が思い浮かぶ。
シズクが呪文を唱え、ルイがそれに応じて魔力を解放する。
ああ、そうなのか、クルミは全てを理解した。
「互いが、互いの死んだ願いを、死体みたいな状態を動かしているだけなのか」
片方が操り人形であれば、もう片方は便利に弄くられるスマートフォンでしかない。
人形は心に依存する、スマホは行動に根付く。どちらがどちらを切り離しても、その先に待っているのは「死ぬこと」を含んだ何かしらの現象である。
「そういう、ことですよ」
少女のくぐもった声。
クルミの上にまたがっていたルイが機械的な速度でシズクの方に視線を戻している。
「痛たた……」
吐瀉物鼻水鼻血血液涙、その他。
色々と汚れてはいる、肉体の損傷も激しい。
だがバキバキに割れたメガネの奥、肉眼が残っている左側、緑茶のような色彩の瞳。
そこは既に活力を取り戻している。
「なっ……!」
ルイに馬乗りにされて身動きがとれなくなっているクルミは、シズクの回復速度に驚愕するばかりであった。
「嘘だろ……?! 全治に3ヶ月以上はかかるレベルの損傷を加えたはずなのに……っ」
魔物、それも戦闘に特化した個体が治癒に3ヶ月となれば。
「人間だったら致死レベルですよ、まったく」
シズクは「やれやれ」と体液にまみれた顔面を手の甲でゴシゴシと雑に拭いている。
鼻の穴や口の中から滲む血液が少女の白く滑らかな皮膚の上で赤い、乱雑なラインを描いている。
「「プリンセス」のエスコートとしては落第点どころの騒ぎではありませんね」
そんな「お姫さま」は雑にクルミを踏み飛ばして、手下であるはずの「魔法使い」にそっと衣服を被せている。
ビリッと衣服を破いている。
それはそれはもう、ものすごい勢いで脱いでいる。
いや、脱ぐというより剥ぐ勢いであった。
「うわーっ!」
よもや魔王陛下のマッパが飛び出てくるものかと、そう思いかけた。
が、とりあえずそのような最悪の事態は訪れなかった。
メイド服の下は別の衣服が用意されていた。
田舎の結婚式会場にちょうど良さそうな、何ともやぼったい黒スーツ姿である。
「魔法使いさんの目の前でわたしの裸なんて、そのような痴態をさらけ出せるわけないでしょうよ」
メイド服の上品な質感の布地でルイはシズクの頬に触れようとして。
「……」
しかし、躊躇って、ただ布を少女の体にかけるだけにしていた。
「さてさて」
シズクは魔王の外套をほっかむったまま、とりあえず魔王陛下に害を為そうとした不届きものをどう処するか考えあぐねている。
「どのように拷問いたしましょうか?」
「拷問は確定事項なのね?!」
「当たり前です」とシズクが軽妙な口調にて提案をクルミに突きつけている。
「魔王城の住人は身内を傷つけられたら、傷をつけたならず者を地獄の果てまで追い潰して生皮を剥ぎ落として消毒液の原液をぶっかけるのですから」
「感染症を考慮した拷問方法であります」
さすがに「悪魔」を基礎とした存在である、拷問となればでき得る限りの尊厳破壊と苦痛と快楽をお約束する所存らしい。
「快楽は必要な要素なのか?!」
クルミの疑問にシズクが微笑みながら答えている。
「当然です! 何といっても我々は淫らさを追求する魔の王を担当しているのですから。それはそれはもう、夢心地の快楽地獄をお約束しますよ!」
「そんな生命保険のコマーシャルみたいな爽やかさで宣告されても?!」
まずい、このままでは手前の下半身が危ない。
危険を察知したクルミは、何をしでかすかと思えばいきなり前歯で自らの人差し指の皮を激しく噛みちぎっていた。
一見して自暴自棄の自傷行為ともとれる行為。
しかし分割2クールな魔王たちはすぐに相手の行動の意味を理解、把握していた。
「分割2クール魔王って……っ! アホみたいな呼び方勝手に考えてんじゃねえよッッッ!!」
ごもっともな意見だけを叫んで、今度こそ、クルミはその「なにか」に己の体を預けてしまっていた。
「っ……──」
電源コードを雑に引き抜いたゲーム機のように、ガクンとクルミの意識と肉体が動作を停止している。
どうやらトコロ・クルミは完全に対象へ意識を預けたらしい。
そして次の瞬間、今までクルミの意識によって隠されていた「それ」が現れた。
ところで。よもやこの戦いがこの灰の笛と呼ばれている巨大迷宮に救うすべての魔物共に認知されているとは到底思えない。
魔王城といえども見た目はただの一軒家。
だからこそ、ほぼ密閉されているはずの空間からいきなり世界を脅かすレベルの危険が発生したこと。
そのことを、周辺の魔物たちが否応なしに察知するということはとかく異常事態なのであった。
地震が発生した感覚、生命の原初である部分、覆せない本能が危険を感じ取る。
死を感じ取った、あの焦り。
焦りと畏れが魔物たちの心を瞬時に満たしていた。
当然の事として間近にいる分断された魔王のそれぞれも危機感を覚えていた。
むしろ、恐怖の根元であるはずの「それ」をみて、恐怖、程度で済まされている。
「さすがに」それが話し始めている。「姫君を素体とした魔王は耐性が強いようですね」
それは若い男性の姿をしていた。
年齢を高く見積もっても三十代を越えているかどうかさえ怪しい、下手をすると中学二年生ほどの幼ささえ想起させてくる。
顔立ちは端正といえるのだろう。
しかしそれだけである。
顔面をプレイヤーの意思でクリエイトできるゲームがあるとして、その基軸となるもっともシンプルなデフォルトデザイン。という表現が何とも似合いそうな顔面であった。
「ユニクロ」か「GU」あたりがお得意としていそうなシンプルなデザインの衣服。
もれなくどこにでもいそうな「普通」の青年で、果てしなくどこにでもいそうな「普通」の人間のようにしか見えない。
しかしそれらの要素が安心足り得るのは、あくまでも人間が支配できている範囲内の世界だけの問題である。
「これはこれは」
シズクはあえて最上のお客様をおもてなしするように、男性式の敬礼を行っている。
「勇者様、これに見えるは勇者様ではありませんか」
「勇者」と呼ばれる存在は、いかにもふつうの人間らしく戸惑ったように曖昧な愛想笑いだけをしている。
「あは、えっと……? あなたたちはだれ、かな」
勇者は舌や喉をうまく使いこなせられないのか、何気ない会話であってもどこか発音にぎこちない雰囲気を漂わせている。




