ルシフェル(゜∀゜)笑顔はいらない
両手でしっかり銃を構えて、引き金を引く。
爆発の音。まるで本物の火薬が実際に炸裂したかのような音が鳴り響いた。
本物の発砲音のようなもの。
しかし所詮は偽物にすぎない。
金属製の弾丸は飛ばず、その代わりとしてモネの魔力を凝縮した魔力の小さな粒が空間めがけて放出される。
強い回転力を帯びながら弾丸はまっすく虚空へと向かう。
そして魔力の持ち主が狙い定めた箇所にたどり着くと破裂した。
紅葉の色彩をシンプルにまとめたような、なかなかに美麗な色合いの光だった。
瞬間の明滅は夏の花火のようにはかないが、しかし空間にもたらした光の熱は日暮のようにいつまでも熱を見たものの目に残している。
花火は文字を刻んでいる。
それはもう分かりやすい情報を明滅させていた。
(コチラアンゼン! カミサマイナイ!!!!!)
「……」
クルミは思わずシケた視線をモネに向ける。
「安直すぎないか? もうちょっと文章練ろよ」
「分かっとらんとですね」
モネは相手の批判を軽く受け流している。
「命の危険に対して即席の工夫ほど無意味で無駄なものはあらへんのよ」
人々が逃げていく。
神にしてみては面白くない。
「あ」
神は苛立つように鳴き声を発し、とぅるとぅるに艶めく体を怪しげに波打たせている。
腹がとにかく空いている。
喉の乾きにも密着している虚ろを満たすために、神は真っ赤な眼球をぎょろぎょろと動かしている。
左、左、右に視線を戻す。
するとそこに、ゲル状に溶けたばっかりのルイの姿を確認していた。
仄かに青みを帯びたインクの塊のようになっている。
プルプルのスライムを模した姿になっている魔王を見つけて、神はそれはそれはもう、歓喜にうち震えていた。
「あ」
神はものすごい鳴き声を発しながら、魔王めがけて突進をしている。
近づいてくる、近づいてくる。
神が口を開ける。
神様らしからぬ、実に人間らしい補食器官である。
唇は上下均等、歯並びは均一でエナメルは骨より白い。
ただ粘膜は毒々しいほどに黒く、喉の奥は宇宙の闇よりも深く暗い。
塩素をたっぷり含んだ水、ゴンドラ系のアトラクションのような匂いが魔王を包み込む。
「いただきます、いただきます、ごちそういただきます」
神が言葉を発していた。
食べるための祈りの言葉。
「祈る必要はございません」
しかし神の祈りを魔法使いは否定する。
少しのそよ風。
ふんわり仄かに甘い、桜並木を泳ぐように通り抜けたときのようなにおい。
一本の糸のきらめき、雨粒に濡れるクモ糸に類似した明滅。
魔法で作られた鎖の一筋だった。
チェーンアクセサリーに使用されていそうな、人間の皮膚に優しく食い込んでくれそうな造形。
ただ決定的に異質なのはサイズ感だった。
仮にアクセサリーとして利用するにしても、その鎖の対象者は巨人の国の淑女ぐらいしか該当しないであろう。
要するに大きな鎖。伸縮はかなり自由が効くらしく、現に魔法の持ち主であるシズクは既にそれを二十四メートルほどの長さにまで拡大していた。
銀色の一線はまっすぐ神に向かって刺さる、そして線を縁にシズクは重力に逆らった軌道を発現させる。
まばたきに油断をしてしまっていたらおそらくシズクの動きはまるで紙飛行機の航空軌道を早送りしたようにしか見えなかっただろう。
灰色の風変わりなワンピースを身に纏う黒猫のような美少女が、おぞましい神に向かって刃物を突き立てる。
なんと不気味で奇妙で、不思議な光景であろうか。
しかしいかに認識と理性を遺棄したところで、シズクの持つ水晶式のナイフが神の左眼球を刺突していた。
赤い水晶だ魔のように見える神の目玉。
しかし触れる必要性もないほどに、近づいてみるだけでそれは水分と粘膜にまみれた内蔵のひとつでしかなかった。
それでも曲がりなりにも神である。
実に神様らしく、その眼球は「普通の人間」からかなり逸脱していた。
熟れた果実のように柔らかい、と思えば次の一間には栗の実の皮のようにパリパリになっている。
とても不安定な存在。
それがシズクのナイフを、彼女の殺意を感じ取った途端、硬質なガラスのような抵抗を見せ始めている。
「うぅぎぎぎぎいぃ……!」
シズクは砕けそうな勢いで歯を食い縛る。
利き手の左側からさらに右腕。
人造の兵器としての機能と魔物としての狂暴性を駆使して、必死に神の眼球を破壊しようと試みる。
だがうまく行かない。
鎖の飛行機能がだんだんと失われていく。
導火線のように焼失する魔法。
全てが消えれば空は飛べない、落ちるだけ、落ちたら神は少女を叩き潰すだろう。
蚊を殺すよりも容易く、また込められる憎悪は対象にすらならないほど多い。
ただでさえ元々「勇者」として召喚させられた人間である。魔物はただの経験値、つまり成長のための糧の些末な一粒にすぎない。
しかし勇者にとってはただの数字でも、世界で生きているだけの、ただそれだけの存在にとっては重い、苦痛を伴うほどに重たい生でしかない。
「あれを使うしか……。とか、言ってみたり……っ?」
シズクは爛々と輝く瞳のまま決定を下している。唇に笑顔こそ取り繕ってはいるものの、内心の苦渋と苦痛がまるでごまかせていなかった。
もっとも、魔法使いの少女の残忍性に満ち溢れた微笑みは神にしか見えなかったのだが。
シズクは神の眼球にコバエのようにへばりついたまま、右手をナイフからベリッと剥がしている。
義手であるがゆえに急激かつ急速性を強要する肉体の動きに若干のラグを必要としていた。
がくがくと硬直する右の指先。
無理な稼働を強いたために、神経の代用としての魔力回路が炎症を起こす。
右肩から首、リンパ腺に至る領域まで不快なしびれが駆け抜けて、染み込むように苦痛をもたらす。
しかし痛みに苦しんでいる場合ではない。
「陛下! 魔王陛下!」
シズクは助けを求めるべき相手を、その対象を意味する名称を叫んでいる。
喉の毛細血管が破裂する勢いの絶叫。
「貴殿に王権をお返しします」
魔王としての権利、全ての魔物を排除し得る可能性。
ルイが、地面にどろどろと這いつくばっていたルイがシズクの要求に返事をしている。
「承認」
機械的というにはなんとも情緒が深いような気もする。しかし言葉も音もそっけない、感情はかなり希薄である。
しかし足しかに言葉を発していた。
魔王は神を殺す、「手下」の魔法使いに預けていた王としての力、世界に干渉する権利を施行する。
ちゃぷん、水が一滴跳ねる音。
魔王の姿が地面の上から消えている。
跡形もない、そう勘違いしかける。
しかし違う、魔王は天高く飛び上がっていた。
空に輝きがある。太陽の光とは違う、例えるなら月の光に似ている。
眩しさはない、目にするりと馴染む柔らかな光。
真夏の夜、じっとりと湿った気配が空間を支配しはじめる。
魔王の御前。
ひれ伏し拝め、崇め奉れ。
手下として、忠実な僕のふりをして、シズクという名前の少女魔法使いが呪文を歌う。
「秋は夕暮れ、触れたら伝わる
冬は努めて、足音で君と知る
春はあけぼの、鮮やかに命奏でる
夏は夜、迷宮は真夏の夜の夢のごとく
愛しき物語が歌う、うめく命に言葉を」
手にはナイフ……だったもの。
魔法のナイフの元々のかたち、螺旋を描くガラスペンに戻っている。
ペンを構えて、魔法使いは簡単な魔方陣を描く。
描く魔方陣は記号、簡略化された絵。魔法の意味を伝えるピクトグラムである。
そして魔法使いは、魔法の名前をしっかりと言葉にする。
「グッドバイ オーデュボン」
それが魔法の名前。
氷の魔法、ただ水を凍らせるだけ。
凍らせる、魔王を凍らせる。
大量の魔力、あらゆる人類文明を破壊し尽くす津波と同等の力を有した、大量の水。
水をもした魔力の塊、魔王を凍らせる。
巨大、そして醜悪な造形のマイナスねじ。
そんな造形になった、魔王はまっすぐ神に向かって落ちてきていた。
ごうごう、ごうごう、風を乱す轟轟とした轟き。
隕石のように壮大に、だが落ちる速度は雨粒ひとつがアスファルトを濡らす程度、その程度の速度しかない。
ぽたり、と落ちる。
「あ」
神が破壊される。
ぐるぐると螺が眼球をえぐる。
どろどろと神の肉が回転力に巻き込まれて、スムージーのようになる。
骨はボキボキ、皮膚はブチブチ。
やがて、ブチッと螺が神の体をまっすぐ貫通していた。
地面が深く傷つけられる音、神を捻り抉り、貫いた魔法の螺が地面に深く刺さっていた。
シュワシュワと炭酸が弾ける音が静かに連続する。
炭酸水のように泡がほどけて、大きな螺がやがて人間一人分だけの大きさになっていった。
さて、魔法の一幕を見ていた。
「す、すげー……」
クルミは巨大、あまりにも巨大すぎる魔力の変動にしばらくの間、ただただ感動するばかりであった。
そしてすぐに魔王のもつ可能性によだれを垂らさんばかりになっている。
「……あれさえあれば……」
誰かが力の大きさに欲望を抱いている。
しかし他人の感情など知ったことではないと、魔王は空から落ちてくる何かをじっと、静かに見つめ続けている。
「落ちてくる」
もとの姿に戻っている魔王。
十九歳程度のアジア人系統の人間、見た目だけなら健康優良体じみている。
水を司る魔王としての力を大量行使したため、周辺には晴れ間を強引にすり抜けるように雨がシトシトと降っている。
自然の雨、科学的な雨はただ冷たく柔らかく、地面に水分を染み込ませる、人間の肉体から温度を奪う。
ただ、人間とは異なるどこか、科学では説明の仕様がないなにか、魔に近しい心が雨の妖しさを悦ばしく受け入れている。気がする。
存在としての核心である左眼球を潰された、神の肉体が生命としての実感を失いしばし弛緩する。
どろりと溶ける肉の硬さにバランスを崩したシズクが。
「わ」
と小さく悲鳴を上げて、雨に紛れて空から落ちてくる。
魔王、ルイという名前の魔物が別の小さな魔物をどさっと受け止めている。
曲がりなりにも魔王陛下、雑魚魔物一匹を腕に受け止めるのは容易い……。と、言いたいところだが実際のところはシズクが気を遣い、魔法を遣ってかなり体重を軽くしているだけである。
猫一匹分の重さだけの彼女に、ルイは独り言のような音程で話しかけている。
「春が空から落ちてきた」
シズクの魔法のにおい。
花びらの気配はまだ少しのこっている。
シズクはルイに向けてため息をつく。
「春は落ちたりしませんよ、陛下。やって来て、去っていくだけです」
であれば、彼にとって彼女は春であるべきだ。
魔王はそう思った。
思ったが、しかし言葉にはしなかった。




