真珠の酒 その六
「さて、こちらが半年前からつけておいた真珠酒なるけぇ」
「すでに完成品があんのかよ」
そういった手際の良さまで料理番組を再現しなくても。
と、クドリャフカはアンジェラに突っ込みたくなる。
しかし。
「何はともあれ、仕事終わりの一杯としけこもうや」
モネは話題切り替えのつもり、あるいはそれ以上に早く熟成された美味を楽しみたいと願っている。
「まあまあ」
鼻息荒めのモネにアンジェラはお玉で掬った真珠酒を、そっと透明なグラスの中に注いでいる。
水でも飲むのにちょうどいい具合の、至ってシンプルなグラス。
そこに氷をゴロゴロと詰め、真珠酒の原液がとろりと滑り込む。
色はほとんど見受けられない。
クドリャフカはてっきり真珠が溶けた白濁をイメージしていたが、見当は外れていた。
しかし完全なる透明なのかと問われれば首を傾げざるを得ない。
やはり酒なのだろう、どこか水とは異なる歪みのようなものが見受けられる。
さてさて、氷と酒となり、あとに足すのはソーダ水であった。
ちゃんと砂糖が入っているもの。
すでに砂糖が混ざり込んだタイプの酒が更に甘くなる。
甘みの過剰にクドリャフカは不安を抱いたが、しかし。
「おまたせしました」
アンジェラがそっと提供をする。
炭酸が弾ける。
しゅわしゅわ、グラスという名の舞台の上、氷の靴を履いて、真珠をという神秘と不思議をふんだんにあしらったドレスを身にまとう。
果たして真珠の美は舌の目の前に歌を歌うのか、それとも踊るのか、はたまた甘美なる演技を披露するのか。
残念ながら答えをクドリャフカが知ることは永遠になかった。
なぜなら酒はすでにモネの口の中喉の奥へと、歓喜を伴っていざなわれていたからだった。
「はぁ」
官能的なため息が、モネの唇から発せられたものだと、一瞬だけ本当の意味でクドリャフカは信じることができなかった。
認識すらできない、と言う領域。
あまりにも非現実的な時間が確かに訪れていた。
「うん、うん」
モネは先程のエロティシズムをさくっと脱ぎ去って、今はただひたすらに酒の味を楽しむことに集中している。
「やっぱりアンジェラちゃんの作るお酒は最高やね」
「お嬢さんに褒めていだき、公営の限りじゃねぇ」
茶化すつもりなど無く、彼女たちはお互いを完全にリスペクトしていた。
アンジェラなどはもう、酒の力を借りるまでもなく完全に酩酊してしまったかのように頬を快楽的に赤らめている。
「んるるるるる」
もう待ちきれないと、シズクもアンジェラに酒を要求する。
「ぼくは、辛口でお願いいたします」
「かしこまりました」
不思議かな、ただの素朴な台所であるはずの空間が、どこか都会の寂れたバーに見えてきてしまう。
寂しい、しかし朽ちるわけがなく、熟成され尽くした空間に若い魂が追いつかない。
ただそれだけのこと。
焦燥感は、しかし勘違いに付属するにはなんとなく重苦しすぎる気もする。
「なんだ? この妙にそわそわした気持ちは……」
クドリャフカはモネの姿を見ながら、目を話せないままに彼女が大人の楽しみにふけっている様子をはらはらと凝視し続けている。
「あらあら」
その様子、子犬らしからぬ成熟した悩み気配。
熟しすぎて腐って、枯れようとしている。
枯れているのならば潤すのが飲み物の役目。
アンジェラは辛口の真珠酒をクドリャフカに提供した。
「本日の疲れの癒やしに」
自分は戦っていない。
だが、疲れていないといえばそれは嘘になる。
全く持って、この世界は不思議がありすぎて疲れる。
嫌になる、世界のことが嫌いになりそうになる。
ネガティブを苦く噛みしめると、ことさら喉が渇いて仕方がなかった。
この際ヤケだ、怪しい酒でぶっ倒れるのも悪くない。
自暴自棄気味にクドリャフカは真珠酒をあおる。
「うあ」
舌が酒に触れて、味を完治した途端の出来事。
海が、そこに生息するあらゆる生命のハーモニクスが聞こえたような気がした。
味はほんのりと甘い。
喉が焼けそうなほどに強烈な時間が通り過ぎた気がする。
なれない甘さに体が驚く。
吐き出そうか?
しかし、なんだというのだ、甘みはまるで新鮮な海産物が帯びるそれらを濃縮したような存在感がある。
塩の香り、生き物の持つ甘み。
なんだこれは?
疑問が眠るパン生地のように膨らむ。
わけが分からない、ただ毒と言えるほどには正体ははっきりとしていない。
だからもう少し調べたい、もう一口。
甘さが更に濃密になる。
しかし色の単純な重複のそれでは決して無い。
例えば赤に黄色を、青に緑を、全く異なる色が重なって別の色を生み出すように、最初に出会ったときとはまた別の姿が、甘さが現れる。
余計に分からなくなる。
分からないまま放置するには、見えたはずの甘さはあまりにも印象深すぎる。
見知らぬ異邦人を見かけた時、その姿がとても不思議で気になって仕方ない時、こんな感情になるのだろう。
たったそれだけが、クドリャフカに分かったことだった。
結局甘さの招待については分からずじまい。
なぜならグラスはすでに空になってしまったからだった。
「いい飲みっぷりやね」
モネが嬉しそうにクドリャフカのことを褒める。
その声音、言葉づかいがじわりとクドリャフカの腹の奥を温める。
「これは、……これは」
うまいのか。
まずいのか。
答えたいが、答えられない。
分からないから、答えが見つからない。
それに、口を開いて言葉を発すると、なんとなく甘さの姿が遠のいてしまうような気がしてならない。
一つ確実なのは、完全に理解した頃には酒に酔いつぶれて、そして覚えたことも二日酔いがすべて捨て去ってしまうだろう。
そんな予感。
予想と共に。
「おかわり」
魔法使いたちは、酒でグラスを濡らし続けた。




