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真珠の酒 その二

 アンジェラは呪文を歌う。

 詠唱とはまた異なるもの、時と場合によってリズムも語調も変わってしまう不安定なもの。

 それが魔物たちが生み出し今日まで使い続けきた呪文である。


「赤いリンゴ空に落ちて

 雲の彼方、柔らかな空、思いの丈を秘めて待ち人へ

 命のすべて、愛しいあなたへ

 継続せよ、途絶えるな

 蓄えるは知性、愛が実るまで

 目で見て耳で聞いて鼻で嗅いで指で触れて

 そして舌で味わう」


 トイ魔法という流派、魔法の名前は「()の月」。

 樹木の倒壊の如き破壊力、しかし壊れた先にはちゃんと意味がある。

 新しい目が芽吹き、倒木はあらゆる動植物の住処となり糧となり、きのこだって生える。

 そして、やがては土に帰ってまた意味が巡る、いつかまた死ぬ。


 ハンマーによって破壊された円形の文字列、魔法陣と呼べる手法に反応して苔たちが爆発する。

 急激な増幅という意味合いにおいての爆発である。

 苔のそれぞれの突起物が急速に膨らみ、激しく伸びて、シズクに纏わりついていた触手を攻撃した。


  瞬間のまたたきに見えた光景は、さながら巨大なウニが己が針を使って集団暴走を起こしたような、そんな異常さに満ち溢れていた。

 

  はて、そのような無尽蔵な攻撃をしてしまって、問題の渦中まっただ中なシヅクイ・シズク氏は大丈夫なのだろうか?


「んるるぇ〜……」


 ……どうやら無事のようである。

 苔の針はとても計算高く、魔法の持ち主の性根を表すかのようにしっかりきっかり保護対象をこと細やかに回避しているのであった。


 シズクもシズクでアンジェラに命じられたとおりにきっかりきっちりと姿勢を固定したままにしている。

 やがて触手が限界を迎え、バラバラと引き千切れながらシズクの体を開放しつつある。


 しかし。


「うわ!」

 シズクの方は体を無理な体制のまま緊張させてしまったので、いくら柔軟な肉体を有していても脳みそが体の非常事態に対応しきれないでいる。


 猫の姿を象っているにしては鈍感、と言いたいろころだが、家猫基ネコ科動物というものは案外どんくさい面が多いのだ、ただ人間よりは少ないというだけの話なのである。


 そんなわけでシズクの体が地面にたたきつけられようとして、他ならぬシズク本人も己の体が傷つくのを覚悟していた。


 覚悟はすでに終了していたが、しかし結果は「魔王」の手によって否定されていた。


世界を丸ごと破壊してまで愛しい彼女を守り切る。

 ……と、それだけは思わないように懸命に努力しているが、おおよそ徒労に終わっている。

 そのような思いを密かに抱く、アイオイ・ルイという名前の魔物は物理的な腕の中にもシズクという存在を大事に大事に、丁寧に抱えていた。


「魔王陛下!?」

 シズクはよもやこの相手に自分ごときを助けてもらったことを酷く後悔しているようだった。

「申し訳ございません!」

 シズクが慌てて魔王の腕の中から逃れるように退避しようとする。

 ぬるんぬるんとわかめエキスにまみれた、見た目やらシルエットやらではほとんどスクール水着に親しいバトルコスチュームである。

 伸縮性に優れいてるのでシズクのジタバタとした動きにもなめらかに対応できてしまえる。普通であれば、並の男性の腕力であればいかに健康的な状態でも、弱い十六を迎えそうな女性の暴れ具合を抱え続けるにはかなり無理があると言えよう。


 しかし。


「暴れるでない」


 彼は、「魔王」の物語を受け継ぐ魔物である。

 見た目的には「普通の人間」のそれに殆ど変わりないように思われる。

 獣の耳は見受けられない。

 故に一層、健康な若年女性を軽々と抱え込んでいる姿が異様に見受けられる。


「んぐるるぅ……」

 シズクはルイの顔面を殴る……もといちょいとオイタをしたくなる欲求に駆られている。

 シズクは、……彼女自身にとってどうしても、どうしても、世界がどうなろうとも! 譲れない諸事情等によりアイオイ・ルイのことを嫌っている。


 嫌っている……?

 ……この表現では生優しすぎる、シズクはルイのことを憎んでいる。

 ルイはそのことを知っている。

 むしろシズク本人が、まだ己の感情をきちんと把握しきれていない気配が濃密に漂っている。


 そして少女本人以上に、ルイが彼女の憎悪をありありと見定めてしまっている。

 そんな状況だった。


 とにかく。


「大人するであります」

 ルイは、まるで下っ端軍人のような言葉づかいでシズクに指示を出している。

 しかしシズクは魔王の言うことを素直に聞き入れようとしなかった。

「陛下のお手を煩わせるまでもありません」


 魔法使い、あるいは魔の場所に暮らすすべての存在を統べるものとされている。

 つまりは魔物の中でもものすごく強い存在、神にも等しく敬うべき王。


 王の手を借りることは不遜、と行った建前を着飾って、シズクは自らの惨めさを強引に噛み潰そうとしている。

 たとえ手前の皮膚が破れて、ピンク色の肉も削がれて黄色いつぶつぶとした脂肪が丸見えになったところで、肉体の傷などシズクにはさしたる問題ではなかった。


 とりわけ、少女の初恋を惨めに、惨たらしく奪い去っていった「魔王」陛下に同情を買うなど、シズクにとっては使用済みの便所を舐めるよりも遥かに屈辱の極みであった。


 もちろん本人には、王たる彼には何も言わない。

 いや、たとえ相手が誰でも、誰がどうしてわざわざ殺意にも等しい感情を吐露しなくてはならないのか。

 

「はなしてください」

 無意識のうちに神の毒に侵されて、言語機能がかなり舌っ足らずになってしまっている。

 幼児のような口調になってしまう自分自身が恥ずかしく、惨めで、シズクは泣きそうになってしまう。


 涙ににじむ彼女の表情を見る。


「…………」

 ルイは、身につけている仮面の下から覗く唇を固く引き結んでいる。

 唇や頬のかすかな歪みから、奥歯を強く噛み締めているようだった。

 表情を見て、苦痛らしきものを感じ取った。

 シズクは黒猫のような耳をイカのヒレのようにぺたりと平たくさせてしまっている。

 怯えの感情表現。


 ルイはいよいよ唇を歪ませている。


「…………」

 相手の返事を待つこともせずに、ルイは己の肉体に魔力を集中させている。

 ほんの少しの動作だけで十分であった。

 魔力の備蓄は、現状十分であると本人が自己判断する。実になれた動作である。

 

 シャラン、シャラン、鈴が涼やか震えるような音色が空間に少し現れる。

 真夏、稀に訪れる冷たい雨風のように心地よい音色。

 音の正体はルイの魔力から生成された金属質な鎖によるものだった。

 黒曜石をいくつも組み合わせたような色合い、艶めきに似た鎖だった。


 攻撃用の鎖、チェーンとして先端それぞれに宝石を加工したような突起物が括りつけられている。

 ルイは鎖をショールのようにまとい、踊るようになめらかな所作で鎖を繰りながら神に向けて体術をかましている。


 蹴り、蹴り、まるでムエタイの技術の如き連撃、実に容赦がない。

 加えて彼もまた魔物、人間の肉体に許された科学的根拠はあまり通用しない。

 少しばかり規格外に動いても、魔物の肉体にはあまり問題はない。


 もちろんいきなり空を飛ぶなどは、並の魔物ではかなり無理がる。

 ど素人が全盛期のウサインボルトを目指せというのと同義語と考えてほしい。


 だが、実に惨たらしいかな、アイオイ・ルイは「魔王」の魔物なのであった。

 鎖が台風のようにうずまき、またたく間に魔王ルイの姿を隠してしまう。


 神は戸惑う。

 自らが世界の頂点であるはずなのに、後も簡単に、いともたやすく己よりも強いものが現れてしまうだなんて。


 これではまるで。

 

「あ」


 まるで、ただ世界に飼いならされているだけの家畜ではないか。

 偽りの神ではないか? 自らを疑い、悩む。

 悩む、脳みそ、意識、心を思い出してしまう。


 神はその瞬間、「神様」としての神聖さをほとんど失ってしまった。

 神は悩まない、神に脳みそなど無い。

 心なんて論外である。

 心なくしてこそ、神たり得るのだ。


 ゆえに悩むこの肉の塊はすでに神の座から、無意識とはいえ自らの意思選択により神の座から降りている。


 しかし、仮に相手が強者の座から降りたとて、魔王には全く無関係かつ無問題であった。


 問題がない、というのは状況をまるごと解決できる絶対的信頼感に起因しているわけではない、絶対に。


 魔王もまた本当の神にはなれない。

 魔王はただ戦うだけ。

 それがたとえレベル99の人間だとしても、魔王はただストーリーを進ませるために戦う。

 それが魔王の性質。

 

 だからこそルイは強力な攻撃力を有している。

 無尽蔵の魔力にて世界をめちゃくちゃにする。


 飛び上がった、そしてそのまま放たれた矢のように神に向かって直進する。

 思い上がった肉の塊に攻撃をする。

 罰や恨みつらみではない、何かしらに例えるとしたら、飢えた獣の涎のような欲求だった。


 肉欲にもまさる生命の基本、食欲が牙を剥く。

 牙を光らせ、爪を立てる。

 肉食獣が持つ鋭利さにも負けない爪の鋭さを発生させ、台風の如き推進力のままルイは怪物の血管を切り裂いた。

 

 哺乳類のそれよりも複雑な構造に変容してしまっている器官は、それでも内側流れるものの色を、においを、質感を捨てきれなかったようだった。


 人間の肉を満たすそれらと同じように、赤血球の気配をたっぷり含んだ新鮮な血液がホースの放水のように勢い良く溢れ出した。


 指は五本、爪も同様。

 傷は五つで血肉の損傷は五つ分の凶悪さをそれぞれに放っている。


「あ」


 即死レベルの攻撃になすすべもなく、神は血にまみれながら地面の上に倒れ、そして死に向かっていった。


 

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