昔話「アンジェラ」
小さい子供は死にかけていた。
小さい子供はお腹を空かせていた。
小さい子供は寂しがっていた。
なので、ジェラルシ・ジェラルドは子供を助けることにした。
ここは寂れた海岸線の町。
かつては軍事的に利用され、軍人あるいは商売人、もしくは娼婦などで賑わいに賑わってた。
「だけどなあ、戦争が終わってなんも残らんかったのよ」
子供、もとい幼女の体にこびりついたしつこい油汚れをゴシゴシと洗いながら、ジェラルドは彼女にこの土地の事情を話している。
「お国の事情でな、なんじゃあ、新しいたいせい? を作るために今までのるーる? は邪魔じゃけぇ全部ポイしちゃえってことで」
「……そんな雑なやり方、よく通用したな」
幼女が、およそ幼女らしからぬくたびれた声音でジェラルドの話に耳を傾けていた。
ジェラルドは、自分と同じように三角形にとがっている幼女の耳を丁寧に洗ってあげる。
「うひひひひ」
くすぐったかったのか、幼女は思わず身を縮ませて笑っている。
「おおお? ようやく笑ったなあ」
彼女は不服そうだったが、しかしそれ以上に石鹸の香りが心地よくて、大体のことがどうでも良くなっていた。
食卓。
旧世界における「昭和」に該当する年代を想起させる一室。
ところどころ擦り切れているちゃぶ台の上、ジェラルドはナスの肉味噌炒めを中心とした野菜たっぷりの晩飯を用意している。
「自分以外の誰かのために飯作るなんて、ひっさしぶりじゃのお」
彼がウキウキとしている。
その理由が分からない、幼女は怪訝な表情で目の前の食事を凝視している。
「……………………」
「ん? どしたん、食わんのか?」
「……」
「食わんのなら、ワシが食べちまうぞ?」
「……」
「……まあ、無理して食わんでもエエよ。後でまたチンして食べればエエ」
そう言いながら白飯をかきこむ。
ジェラルドの姿を見た、幼女はおずおずと箸に手をつける。
「ほい」
口の端に米粒の欠片をくっつけたまま、ジェラルドはふたたびの食事の祈りを呟く。
「こうするんやで。「いただきます」ってな」
「……それって意味あるの?」
「意味? うーん……意味かあ」
問いかけられて、ジェラルドは少し考えた後に答えてみる。
「こうした方が、なんや飯がもっと美味くなるような、そんな気がするじゃろ」
「……そうかの?」
美味い不味いの話題となれば試さずにはいられない。
直情的な欲求を誘われた、幼女はジェラルドの真似をしてみる。
「いただきます」
ほかほかと湯気のたつ、味噌ダレをまとったナスを白米の上にのせる。
米粒の純白が味噌ダレの濃密な色彩を身に纏う。
トロトロとした輝きを箸で不器用にすくって、口の中に入れる。
もぐもぐと咀嚼する。
「おいしい」
「そりゃあ良かった」
もぐもぐと食べる。
幼女の目には栄養の美味さに耐えきれない涙。
部屋の暖かさに耐えきれない涙。
麦茶の冷たさ。
大人から受けた傷の冷たさ。
あるいは、彼の笑顔が直視できない。
「……ぅ」
ぐずぐずと泣きながら、幼女はご飯を食べた。
床につく。
「お客用に取っておいたひゃっこい布団しかないけど、まあ、寝とったらそのうちあったかくなるじゃろ」
いつでも見守れるようにと、ジェラルドは横並びで布団を敷く。
「そんなとこに突っ立っとったら体冷えて風邪ひくよ?」
ジェラルドは左側の布団の中から幼女に話しかけている。
「……」
話しかけられている。
幼女はジェラルドから借り受けた衣服の袖をギュッと掴んでいる。
大人用のTシャツ。緑色の太めの横線がシンプルに走っているだけのデザイン。
ズボンはほとんどステテコに近しい程にゆったりとしている。
腰部分のゴムをきつくしすぎたのが幸いして、幼女の細っこいウエストがそれなりにちょうどよく収まっている。
「眠たくないんか?」
彼の問いに彼女は答える。
「寝たら、ママがまた、低い声の人に、いじめられる」
「……」
「ママが真っ赤になる、前の日は、あたしが寝ても起きても。
寝ても起きても。
寝ても起きても。
寝ても起きても。ママは低い声の人にいじめられていた」
「……そうか」
ジェラルドは長い時間をかけて言葉を選ぼうとした。
「……ここには、いじめる人はいない、はず、だから」
失敗したと思った。
少なくとも彼はそう思っていた。
だが。
「そうなんだ」
彼女はそうは思わなかったらしい。
もそもそと布団に小さな体が潜り込む。
音を背中に、ジェラルドは彼女の呼吸の気配を聞いている。
まだ寝息は聞こえない。
ぴすぴすと少し苦しそうな鼻息が密やかに続いている。
ジェラルドが質問をする。
「そういえばお嬢ちゃん、名前は?」
「ゴミ」
「え、いや、名前……」
「クズ、バカ、ノロマ、他にもいっぱいある」
「……」
ジェラルドは仰向けになる。
「そうか」
また少し考える。
「いっぱいあるなら、俺が……もういっこぐらい考えても、ええよな、だれも、怒らんよな……。
……」
彼はとても眠たそうだった。
眠りに落ちる前に、その前に確かめたいことがあった。
「どうして、あたしを助けたの?」
彼女の問いに彼が答える。
「……もう二度と、傷つけたくなかったんだ。
もう誰も、殺したくない」
そうなんだ。と、答えるよりも先にジェラルドは眠りに落ちてしまっていた。
彼女も眠る。
……。
眠りに落ちていた彼女を男たちが襲う。
服をはぎ取って、下着を破いて、陰部をかわいた指でいじくる。
「やめて!」
彼女が悲鳴をあげる。
「助けて! 助けて! 助けて!」
しかし助けは来なかった。
カチャカチャとベルトを外す音がする、気配がする。
熱を持った肉の塊が彼女の産道を抉る。
「許して……」
許しを乞うても、誰も彼女を助けなかった。
……。
「……っ!」
悲鳴にも似た呼吸の音。
目が覚める。朝日はまだ昇っていない。
夜明け前、ジェラルシ・ジェラルドの目は大量の涙に濡れていた。
「は、ぁあ、っ……! はあっ……! はあ……っ!」
息が上手くできない。
ゼエゼエと喘ぐことしか出来ない。
次第に意識が遠のいていく、呼吸をする理由さえも分からない。
生きる理由も見つけられないままで、死の恐怖も耐えられない。
ただひとつ確実なのは、今この瞬間なら自分を殺せる。
「おぢちゃん」
「え?」
呼ばれて、視線を動かせば幼女がジェラルドのことを凝視していた。
じっと見つめる。
薄紅色が柔らかそうな頭の毛、アセロラゼリーのように透き通った紅色の瞳。
「おぢちゃん」
幼女はジェラルドの顔面に乾いたバスタオルを叩きつけていた。
「ばふっ?!」
ぱりっぱりに乾ききった繊維が針のトゲのように皮膚をゴシゴシと刺激する。
「ちょ! 苦しいって?!」
バッと手を離している、幼女はまだジェラルドのことを凝視し続けている。
「ど、どうしたん?」
まだ悪夢の残滓が抜け切っていない、ジェラルドは皮膚に脂汗を浮かべながら、それでも幼女のことを気遣っている。
幼女が答える。
「泣いているから」
「え?」
「泣いているから、顔と鼻水をふかないといけない」
そこでようやくジェラルドは自分が大量の涙を流していることに気付かされていた。
そして絶望感を抱く。
「くそったれ……ワシが泣いてどないせえっちゅうねん」
「くそ、ったれ」
「今更懺悔したってどうしようも無いじゃろうが。ボケが、彼女は、もう……」
「ぼ、ぼ……ボケが」
「情けない……こんなことぐらいないなら今すぐに……」
「今すぐに?」
「……」
ジェラルドは一旦言葉を止めて、幼女を見つめ返す。
「……?」
言葉を止めてしまった。
幼女は期待を込めた目線をまあるく、ジェラルドに送っている。
ジェラルドは困惑してしまう。
「あの……その、真似されるのは、ちょっと」
「おぢちゃん、優しい人」
「へ?」
「あたしもおぢちゃんみたいになりたい」
「い、いやぁ……? それだけはやめた方がええんじゃなかろうか……」
「あたしおぢちゃんみたいになりたい、おぢちゃんみたいな優しくてかっこいい大人になりたい」
ジェラルドが何も言えなくなっている。
沈黙を恐れることなく、幼女は己の夢を朝日の中に見出していた
「あたしおぢちゃんみたいになる!
まずは、おぢちゃんみたいなしゃべりかたになる。
なってみせる、ん、じゃよ?」
「はは……」
また一筋、涙がこぼれた。