さようならクドリャフカ
生まれたときからずっと戦争がそばにある生活だった。
だからこそ、今目の前に謎の「人間っぽい」何かが転げ落ちていても何らおかしくはない。
おかしくはない。
おかしくは、無い。
「そんなこと無い!」
ライカ・クドリャフカの兄、ライカ・クラサフカが弟の現実逃避を全力否定していた。
「どう見ても神だ!! 人食いの神様だっ!!」
兎にも角にもこの世界に生息している魔物、つまりは彼ら犬系統の魔物であるこの兄弟二人にとって、目の前に転げ落ちている謎の少年は敵以外の何物でもなかった。
「に、兄さん……!」
声変わりがようやく安定しつつある声。
まだ少年のたどたどしさが抜けきっていないが、もう子供でもいられなくなりつつある気配。
そんな音を持った声。
他人の声を聞いて。
「うぅ……ぅ」
神様らしき存在、兄弟の魔物よりも人間っぽい見た目に近しい。
謎の少年がうめき声を上げていた。
「生きてる?」
クドリャフカは果敢にも……というよりかはただ単に意味不明に耐えきれないまま、耐久心をすり減らし尽くした果てに、その謎の存在に触れることを選んでしまっていた。
目が覚めて、そして黒髪が異様に輝かしい少年が兄弟の家、というよりお屋敷。
……いや?
「廃墟というべきか」
「んだとコラ!」
戦場のまっただ中、戦に駆り出された雑魚魔物が三匹いた。
「ヒドイこと言ってくれるじゃねぇかよ」
「全くだっての、なあ兄さん?」
弟のクドリャフカは兄に笑いかけている。
兄は戦闘時とは思えないほどのリラックスした様子で廃墟の内部に寝そべっている。
時刻は夜。
人間であれば視野が狭まり、本来ならば就寝につかなければならないほどに深い夜の時間。
「とはいえ、相手は曲がりなりにも軍人であるはずだろ?」
クドリャフカの問いに兄が答える。
「どうかな、所詮は平和な時代から、安全な場所から駆り出された魂でしかない」
現状において魔物の陣営が人間側に勝てる要素と言えばそれぐらい。
戦争に脅えているかいないか、それぐらいしかないのである。
「怖がっているのが強みになるのかよ」
弟が疑うので、少しだけ上等そうな兵隊服を着用している兄が上官らしく振る舞おうとしている。
「もちろんさ、弟よ」
兄は弟の存在を強く認識しようとする。
そんな素振りを弟は兄に見出している。
「いつだってどんな時だって走馬灯を見続けるくらいの気概じゃなきゃ、そうじゃなきゃ……」
兄が黙ってしまった。
そのタイミングを見計らうかのように、もう一人の弟が話し出す。
「そうじゃなきゃ、何でありますか?」
クドリャフカはもう一人の方経と視線を向ける。
兄の姿から目をそらす。
そして兄にとってもう一人の弟に当たる人物。
かつて、まだ幼い子供だった頃に
拾った魔物の子供。
それがアイオイ・ルイという名前の子供だった。
だった、と言えるのはつまり彼もまたクドリャフカと兄と同じように大人になることができた。という意味であった。
「私はもちろん肉体的な意味ではとくの昔に大人に、……いえ、この場合は男になっている、とでもいいましょうか」
「うっせぇよ」
戦場でまさかバージン具合にマウントを取られようとは。
兄と弟はルイに向けてため息をつかずに入られないでいる。
まるで同時に動作を起こしたような所作に。
「…………」
ルイは面食らったような表情を浮かべていた。
ルイの様子を見ていたであろう。
彼らの兄がこっちを見ている。
視線を感じ取って、すかさずクドリャフカは楽しそうな笑顔を作った。
「お前さんが俺達のくらす場所に転がり込んで、最初はもうめちゃくちゃ混乱したよ」
ああ、そうだな。と、兄が笑う。
「いきなり「水……水は……?」とか言って、それで水揚げ用としたら「うわーーー!!!」って」
「いきなり泣き叫んだよな」
過去のことを蒸し返されている。
ルイは特に不機嫌になる様子もなかった。
もう、子供の頃とは違った。
「どうしたんだよ」
相手が冷静を取り繕っている。
そしてそれがかなり上手くいっている事について、クドリャフカはあからさまに動揺を起こしていた。
「昔みたいに、ガキこの頃みたいに、あの頃みたいに……突っかかって来ないのかよ」
「私はもう大人ですからね」
相手の挑発をルイは真っ向から拒絶していた。
傷ついた様子のクドリャフカに構うことなく、ルイは現状をただ事実として相手に伝えている。
「一体いつまで夢を見ているのですか?」
「夢?」
そういえば確かに、まだ仮眠の眠気が抜け切っていないような気がする。
「ホントだよ」
クドリャフカの兄、クラサフカが弟に同調しようとしている。
「毎日俺が起こしに行って、それでもいつまでも起きなかったんだから」
「はて?」
ルイは思はず反射的に返事をしてしまっているようだった。
「そのようなことがあっただろうか?」
ルイは思い出している。
「起こしに行っていたのは君、弟であるクドリャフカ殿、君ではないか。
兄上ではない」
時代錯誤の正論。
ほとんど正解に気づいている。
いや、むしろ……この「生物兵器」たちはすでに、あるいはとっくの昔に真実に気づいていた。
そのはずだった。
だからこそ。
「何言ってんだよ」
クラサフカの声、言葉がまだ諦めきれないでいた。
「まったく、この出来損ないの弟がよぉ」
「兄さん!」
兄の暴言に弟のクドリャフカはひどく傷ついた様子であった。
「何で、そんなヒドイこと言うんだよ」
兄は答えない。
三十秒ほど経過しても無言のまま、ただ沈黙だけが累積している。
「兄さん?」
クドリャフカは、血まみれの手でそれを動かそうとする。
「兄さん、兄さん」
しかし兄は動かなかった。
「クドリャフカさん」
アイオイ・ルイは、ついにこらえきれなくなって、我慢が聞かなくなってきて、相手に真実を伝えることにした。
「あなたは嘘をついている」
どうやら彼は嘘つきのようだった。
「お兄さんはとっくに死んでいますよ」
「違う」
戦場のまっただ中。
二人の男の魔物の虚偽報告がぶつかり合う。
「兄さんは、兄は、クラサフカ上等兵はまだ生命活動を継続している」
「なるほど、まだ生きていらっしゃる、と」
ルイはクラサフカ上等兵の生命活動の継続具合について、クドリャフカ一等兵の主張について疑うことはしなかった。
「流石に観察眼が違いますね、医療用魔術式を学んだ身というのは」
ライカ・クドリャフカは医療用術式を使える。
そして何より。
「人を癒せる力は、同時に人を完璧に殺す術でもある」
「どういう意味だ?」
ルイの言い回しに答えているのは、弟の方だけだった。
ルイは相手に答えを教える。
しかし言葉はもはやほとんど必要ではなかった。
「答えはそこにころがっているではありませんか」
まるでものを指すかのような素振りにクドリャフカは激高しそうになる。
「貴様……っ!」
まだ生きているはずの対象を死者扱いすることが、クドリャフカ医療兵にはとても許しがたいことであった。
と、同時に。
「ああ、そうか……」
クドリャフカは、兄のクラサフカについてのすべてを理解していた。
そして突然、こんなことを言う。
事実を。
「お兄さんは童貞を卒業した!
卒業した!
卒業した!
卒業した!」
捨てやがった!!
クドリャフカは兄のことを叫ぶ。
「味方を、俺をいじめてばっかのクソみてぇな味方の言うことを聞いて、女さらって十人を一人で!
兄さんは。クソ兄貴は捨てやがった!」
捨てやがった。
呟いて、そしてクドリャフカは死にかけの兄の肉の上、血で黒く濡れた服から除く肉の上に涙をポトリ、と落としていた。
「くそったれ、馬鹿野郎が……」
彼は味方を処分するために、戦争犯罪を犯した身内を処分するために上から遣わされたのだ。
夜はどんどん深くなる。
死にかけの魔物が、弟である個体に襲いかかろうとした。
「あ」
言語化するのがとても難しい叫び声。
ただどことなく赤ん坊の唇から垂れる声に似ている。
まだ意味を着ることができないままの、獣の鳴き声に限りなく近しい声。
意味を持たない声だけを発する。
そして怪物に変身する。
「逃げますよ、クドリャフカ一等兵」
三等兵であるはずだが、しかしながら場面を一番支配下に置きたがっているのはルイだけであった。
ルイは伸ばした片腕一本だけの力で軽々とクドリャフカを抱えあげている。
「う、ぁ?」
急に視界が規格外の動きを起こすために、クドリャフカの脳みそは一瞬を超える長さのほど、混乱へと叩き落とされていた。
巨大な廃墟の中から二人の人影が身を寄せ合う、寄せ合いすぎて一個体のようになってしまっている。
そんな状態で飛び出してきている。
その様子を遠目にずっと、じっと観察してた別個体の魔物がいた。
「来た……来たっ!」
小さい魔物。
アジア人の成人男性の平均的身長よりもやや過剰に小さい身体サイズ。
モグラに似た爪と髪の毛の柔らかさを持つ。「時渡りの土竜」という物語、時間に鑑賞する魔力を色濃く有している個体。
ルイとクドリャフカにとって後輩に当たる、つまりはいかにも雑魚っぽい雑兵の一匹。
なのだが、どういうわけか不運にも上記の二名に関わったが故に軍部の極秘任務に就かされることとなっていた。
その極秘任務というのが。
「怪物症確認! 怪物症確認!」
モグラの兵隊が叫ぶ。
クドリャフカの兄、ライカ・クラサフカが陥った病気のことについて、兵隊は同じ「仕事」をする仲間である数人に伝えている。
主に「仕事」を担当する上官たち。
上の者たちは指示を出し、直接的な攻撃は下っ端であるルイたちが行っている。
一見して部下にだけ最悪かつ最大のリスクを背負わせているようにも思われる。
実際そういう一面も無いことはない。
だが、それ以上に重要な要素が彼ら、若人? と思わしき雑魚魔物たちには含まれていた。
すなわち。
「戦闘を開始します」
戦える方法を知っているということ。
彼らは「魔法使い」だった。
神ないし神に通づる規格外を殺すことを専門とした存在のこと。
ルイは肩の上に米俵のように抱えていたクドリャフカの体を雑に放り捨てる。
ようやく状況を理解し始めていた、そして自分が置かれている状況、なすべきことを思い出す。
記憶の再生を果たしたはずのクドリャフカの脳みそは、しかしながら明晰さからは程遠い物理的かつ直接的すぎる痛覚によって雑にかき乱されていた。
「痛っだぁ?!」
固まりかけのスライムのように、雨に濡れた土の上に放り出されたクドリャフカ。
上司で先輩で、なおかつ兄貴分に当たるはずの彼。
彼を放置して、アイオイ・ルイは魔法使いとしての戦闘準備を整えようとする。
すう、と生きるための息を吸って、はぁ、と呼気を整える。
ルイは、肉体の中に水が満たされていくような感覚を覚える。
指先から魔力の形を感じ取る。まるで見にまとわりつくきりのような柔らかさ、しゃらりしゃらりと音がなる。
蛇のような姿、攻撃性の高い見た目をした魔法のキーチェーン。
鎖が現れていた。
鎖は持ち主の意識、心をそのまま体現するかのように、束縛するのように持ち主に纏わりついている。
ゆらりゆらりと、水の中に一滴紛れた血の雫のようなゆらめき。
まさに血の一滴と同じ、鎖は彼の肉体の一部分。
古くは呪いと呼ばれたその力は、今は魔力として概念が書き換えられている。
魔法使いは己の心理的イメージから一個の確固たる形を考える。
アイオイ・ルイが飛び上がる。
跳躍の動作を起こした瞬間から魔法は始まっている。
飛び上がろうとする筋肉の軋み、歪みの匂い、それらと全く同じ気配をまといながら激しく回転する。
まるで小規模な台風のように、鎖は規格外な浮遊力をルイの肉体にもたらしていた。
稲妻を帯びた雨風のような速度。
ライカ・クラサフカだったもの、誰かの兄で誰かの子供、いずれは誰かの親になっていくはずだった個体。
魔物だったもの、それが変身してしまったもの。
怪物になった個体は、自我が完全に消滅するまでひたすら暴れ続ける。
食い続ける、犯し続ける、壊し続ける、燃やし続ける、爆発し続ける、溶かし続ける、噛み続ける。
あらゆる破壊の限りを尽くしたあとに。
「最終的には、ただの水になっておじゃん。なんだろ? アホらしいよな」
草原を転げ回る子供のように快活な雰囲気のある音程であるが、言っている内容は酷く擦れていて、実に戦場臭いものでしか無い。
大人の男の声。
エルフ……の混血なのだろうか? 少しだけとんがった耳を持っている。
「あ」
あまり戦闘能力がなさそうな彼の元に、怪物の炎の粒のような一撃が向かう。
「ぎゃ?!」




