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ぼくとわたしの生存戦略プロトタイプ  作者: 迷迷迷迷
思ひ出はママを見殺しにした
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思い出話、モネ その3

 モネは叫んでいた。

 助けを求めていた。


 だが、シズクはカブに動きをそっと止められたままで、そしてカブもまた動かないままだった。


 ついにモネの体力が限界を迎える。

 モネはまだ助けを求め続けている。


「助けてよぉ……お願いだから、ママが、ママが」


 指はすでにうっ血を通り越して壊死の域に達しつつある。

 紫色が黒色になって、指の肉が冷たくなる。

 骨は枯れ枝のように軋むだけ。

 爪は何度も何度も母の手を握りしめた影響で剥がれて、内側のピンクの肉だけが異質なる鮮やかさを残している。


 皮膚は引きちぎれ、血液すらも枯れて真皮のピンクがむき出しになっている。


 手はボロボロになっていた。

 それでも、モネは飛び去りつつある母の姿、その手を離そうとしない。


 どれほど時間が経過したか、誰にも分からない。

 ここに時計は存在していなかった。


「うぅ、うぅ」

 モネはすでに息も絶え絶えだった。

 重力に逆らい続ける宙ぶらりんの状態が、彼女から生命の基本をチーズのようにゴリゴリと削り落としていっている。


「うぁああ、ぁ」

 獣のような唸り声。

 美しい乳牛が恐ろしい狼に食い殺される時、きっとこのようなうめきを発するのだろう。


 カブは、そんな空想に浸っていた。


 耐えて、耐えて。

 ついに耐えきれなくなった。


「あ」

 小さな声を漏らして、モネは一瞬脱力する。

 気を抜いた、途端、彼女の母の姿をしたそれは遠くに飛び去っていった。


 泣き声。


 夕暮れは深まる、薄暗いビルの屋上にモネの泣き声が轟いていた。


 雷よりも恐ろしく、風の唸りよりもおぞましい泣き声。


 しかしシズクは当然のこと、カブは耳を塞ごうとは思わなかった。

 必要ないと確信していた。


「モネ」


 カブがモネのそばによる。

 モネが親の仇を見るような視線を差し向けてくる。

 

 だがカブはそれを無視した。


 そしてカブはモネに提案をする。


「お母ちゃんを心配していたんだろう。

 あの人の病気が治ることを期待して、願って、今までずっと頑張ってきた。

 

 お前は強いよ、かっこいいよ。そ、それに……結構可愛いし……。

 ……だ、だから!」

「だから、なに?」


 顔が真っ赤になっているのはカブだけで、モネの顔面は視認のそれのように真っ青になっていた。


 モネは怒る。


「私はママが大好き。理由なんていらないくらい好きで、家族としても、色んな意味でも、すっごく尊敬してる」

 

 モネは本当のことを話している。


「いつか病気にだって勝つって、そう信じている。

 ママは死んだりなんかしないって! 

 ママの病気は治るんやって」


「違う」


 だがもう日が暮れる。

 子供は帰る時間だ。

 だから、カブは彼女に容赦しなかった。


「それは、本当じゃない」


 そして彼女に願う。


「お願いだから、今だけでいいから……! 本当のことを言ってくれよ……!

 

 でないと、このままじゃ、嘘にも本当にも殺される」


 あるいはカブには見えていたのかもしれなかった。

 モネの全身を取り巻くおぞましいなにかに。


 黒よりも黒く、同時に白色よりも遥かに無垢な色を持つ何か。

 問答無用で容赦のない、無慈悲なもの、連れて行かれたら二度と帰ってこれない。


 そんな「何か」に彼女が囚われかけている。

 カブは、とっくの昔にそのことに気づいていた。


 ただ目をそらしてた、それだけのことだった。


「オレを置いて行かないで」

 なのでカブは小賢しい手に走る。


 モネが苦手とする状況に追いやる。

「オレを助けると思って」


 他人を助けるのが何よりも好きな、そんな彼女をあさましく利用した。


「ああ」


 一瞬だけ、モネはまるですべての境地に達したような声を漏らしていた。

 美しくもなく、見にくくもない。ただ赤ん坊のように無垢な声。


 ビクリと怯えるカブの肩。

 間に合わなかったのだろうか? 不安が彼の全身を強張らせる。


 しかし、彼の強ばる体をモネの肢体が柔らかく包み込んでいた。


 抱きしめられている。

 カブがそのことに気づきはじめる。

 暖かな抱擁の実感を得たのは彼女の亜麻色の髪の毛から香る、生きている女のほのかに甘い匂いを嗅いでからだった。


 カブはモネの体を抱きしめ返す。

 小さい男女が夕暮れの下で抱き合う。


 やがてモネが言葉を発する。

 伝えられるすべてを使って、本当のことを話した。


「本当は分かっていたんよ。分かっているつもりなんよ、ママはもう助からないって」


 そこから先は思い出話。


「私が気がついた頃には、ママはずっと病気で、時間が経てば経つほど病気は悪くなっていった。

 ガンとそっくりの病気で、末期って言葉も最近知った」


 戦争がもたらした大量の兵器、兵器が生み出した毒。

 それらに殺された誰かはたくさんいる。

 そのたくさんのうちの一人が、彼女の母親だった。


「毎日毎日助かりますようにって、ずっと願ってた。信じていたんよ。

 ホントなんよ。だって、そうじゃなきゃ、ママは本当に死んじゃうから」

 

 だけど。

 モネの声が震える。


「でも、もう耐えられないんよ……。ママがいつ死ぬか分からないまま、ずっと頑張り続けるのが、もう辛いんよ……」

 

 だから。


「だから、もう終わってほしい。……早くママに死んでほしい。さっさと全部まるごと終わって、もうママが死ぬことを考えたくないって、……思って……」


 不意に思う。

 ずっと思う。

 星に願うか、あるいは短冊に描くか絵馬に描くか、それともソーシャルネットワークサービスの匿名に垂れ流す。


 思う。思う。思う。

 どうやって、どのような方法で、どのようなタイミング、時間で思ったか。


 長さは? 質量は? 文字数は?

 計測できるすべての要素が彼女にとっては無意味だった。


 思う、という事実が、ただひたすらに重みを伴う現実でしかなかった。


「私は最低だな」

 モネはメソメソと泣いている。

 堪えきれない涙が、彼女を抱きしめるカブの小さな方をシトシトと濡らしている。

「私は、ママに死んでほしいって思ったんだ」

「それは」


 カブは、思うことをただ伝えるだけだった。

「本当に全部が、本当じゃないと思う」


 自分でも何を言っているのかよく分かっていない。

 だが分からないままでも寄り添うことは出来た。


「お母ちゃんが死ぬのが怖いって思うのも本当だし、死んでほしくないって思うのも本当だし。どっちが間違いなんて、そんな、はっきりさせなくたっていいよ」


 カブはモネの方に顔を埋める。

 声がくぐもる。


「それで辛くなるくらいなら、ずっと分からないまま方が良い。

 ……オレはそう思う」


 ただ。とカブはモネに最低限の頼みごとをする。


「だけど、このままここにいたら、お前のお母ちゃんが病院で心配するから、さ。

 だからさ、もう帰ろう?」


 時刻は夜。

 夜が始まった。

 今日も今日とて長い夜になりそうだ。


 抱き合う彼と彼女に、ずっとその様子を見ていたシズクが提案をする。


「まだ間に合うはずです」

 間に合わなかった事実を知っている。

 だからこそ、猫耳の少女はそれなりの確信を以て彼らを安心させられていた。


 何より、大事な仕事仲間で、大切な友人の言葉を疑えるほど、まだモネも擦り切れてはいない、つもりらしい。


「そうやね」

 モネはカブから体を離している。

 

 離れる女の体温をこっそり寂しく思いつつも、カブは自らの利き手にまだ彼女の肌が触れ合っている事実を静かに、静かに噛みしめている。


 母の姿を握りしめていた手が、今はもう自分の手を握っていてくれていた。


 迷い込んだ迷宮、誘われた神への答えはそれで十分と思えた。


「帰ろうか」

 モネは一瞬母の幻影に振り返りそうになる。


 だがカブが手を握りしめる。少しだけ暴力的に握る。


 うっすらとした痛み。

 すぐに消える痛覚を追いかけるように、モネは迷宮から脱出する。


 友人たちに手を引かれて、外に出た。


 夜は段々と更けていく。

 やがて深夜が訪れるのだろう。いかなる存在も拒絶できない、抗えない本当の暗闇がやってくるのだろう。


 本当の暗黒を前に、モニカ・モネという名前の小さな女性は絶望するに違いない。


 世界を憎むに違いない、母を奪った世界を憎悪するに違いない。


 だが、それは彼女だけの感情だ。

 誰かに捧げるものでもなく、彼女だけが持つ痛みなのだ。


 誰かの個人的な地獄が、誰かの指先に、毛先に、つま先に広がる現実に、モネもまた自分だけの地獄を抱えて生きるだけだった。


 地獄に堕ちるように、階段を下にくだる。

 モネの足音を聞きながら、手を握りしめて離さないように、カブは痛みを想像することしか出来ないでいた。


 シズクが「んるる」と喉を鳴らして彼と彼女を先導する。


 迷宮の外、扉は目の前。


 シズクが開けようとしたそれを、モネが自分で実行しようとする。


 カブの手から離れる、彼はモネをもう追いかけない。ただ見守るだけだった。


「……」

 痛みのような、静かな呼吸。


 そしてモネは扉を開けた。

 扉の外は夜、夜の七時、空は晴れているようだ。

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