ホルスの千夜物語
1.プロローグ
「ホルス(Horus)」とは、エジプト神話に登場するハヤブサの頭を持つ天空と太陽の神である。古代エジプトでは昔からホルスの両目は太陽と月を表すとされ、宇宙の星々の運行を観測することで天文学が発達した。「エジプトはナイルの賜物」と言われるように、ナイル川は乾ききった砂漠に囲まれたエジプトの地を肥沃な大地に変えた恵みの川ではあったが、その一方で毎年繰り返される洪水により人々を苦しめた。天文学は一部の支配階級での奥義として発達し、その繰り返される氾濫の予測と、農作物の種蒔きや収穫の時期の指針をも示すことで、ファラオの権力を絶大なものとし、長期安定的な王朝時代を維持することにも一役買った。特に太陽の運行に関する観測は重要で、それによって現代のような一年を365日とする太陽暦が生み出された。
ところが、遠く離れた極東日本にもハヤブサを冠する「隼人」と呼ばれた一族が居たのだ。隼とはご存じのとおり世界各地に生息する鳥でハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ属に分類される猛禽類である。ハヤブサの航行能力は水平飛行時でも100km/時、急降下となると実に300km/時を越えるらしい。その驚異的な飛行特性を模した日本の一式戦闘機「隼」は連合軍機と互角以上の性能を有し、太平洋戦争初期の日本が優勢だった頃、総生産数5700機を数え海軍の零戦に次ぐ陸軍の主力戦闘機として東南アジアを中心に配備され活躍した。そして、今、宇宙の小惑星探査機にも。
あれから何年の月日が経ったのだろう。ホルスは宇宙に飛び立った。瑠璃色の地球を後にして・・・。国際宇宙ステーションを横目で見ながら兎とかぐや姫が誘うメルヘンの月世界に向かう。月は地球から直線にして約38万kmの彼方に位置する。月の直径 は3474kmで地球の0.27倍に過ぎないが、太陽系の衛星の中でも木星の第一衛星イオに次いで5番目に大きいらしい。
やがて、ホルスは月が間近に見える位置まで接近し、大気の無いその表面の観測行動を開始する。地球の夜を優しく照らす月も近づくにつれてその地表のデコボコを露わにした。この不毛とも思える天体にも近いうちに人類が基地を築いて住むという。ホルスは青く美しい輝きを放つ奇跡の星地球と見比べながら複雑な気持ちになった。
それからどれ程の時間が過ぎたのだろうか。今度は暗闇に赤茶けた星が浮かんでいるのが見える。これはきっと火星に違いない。太陽に向かって進もうと足掻いていたつもりだが、なかなか進まないのだ。逆に遠ざかっていくようだ。無数の星屑が漂う中、注意深く衝突を避けながらある小惑星にたどり着いた。
「そうだ、リュウグウだ。これが私のミッションだったのか。」
ホルスは周回軌道を辿って再び地球に接近しリュウグウの産物を送り出すと、再び果てしない宇宙の旅を続けるのだった。次のミッションも小惑星らしい。ホルスは自分の意図とは裏腹に可能な限りミッションを遂行しなければと思った。しかし、イオンエンジンの具合がどうも芳しくない。いわゆる制御不能という状態に陥りつつあるようだ。全力で出来うる処置を講じて何とか持ち直そうと何度も試みた。しかし、そのうち回路がヒートアップして気を失ったようだ。
気が付くと、大いなる木星(※1)の目に見つめられ、何だか優しく抱かれている。
いや待て、この目は大赤斑というものらしい。
※1
『木星は太陽系内で大きさと質量共に最大の惑星である。地球と比較すると、直径は11倍、質量は318倍にもなる。80個以上の衛星を有し、太陽の周りを約11.9年周期で公転している。主に水素とヘリウムからなる大気で覆われ、大赤斑(長径4万kmにも及ぶ楕円形の眼のように見える定常的に巨大な台風のような嵐が吹き荒れている領域)は木星のシンボルとなっており、重力(引力)は地球の約2.5倍もある。
木星の名ジュピターはギリシャ神話におけるオリンポスの神々の支配者とされる天空神ゼウス、ローマ神話におけるユピテルに由来する。
その第一衛星イオはギリシャ神話に登場する女神の名に由来し、神話ではオリンポスの神々の支配者とされる天空神ゼウスの愛人として登場する。ゼウスの妻ヘーラーに牝牛に変えられ放浪を続けることになるが遂にエジプトに辿り着き人間の姿に戻ったとされている。そんな苦難を背負ったイオだが、エジプトではゼウスとの間に生まれた息子エパポスがエジプト王となるらしい。そして、イオは、エジプト神話に登場する冥界の王オシリスの妻で冒頭に紹介したホルスの母親とされる豊穣の女神イシスと同一視されているのである。ギリシャ神話とエジプト神話はいずれも紀元前3000年頃に成立したとされ、注意深く比較検討するとこのように両者の共通点を見出すことができる。』
引力に抗いながらかろうじてイオの横を過ぎてさらに彷徨っていると、何と近くに和の調べを奏でるように浮かび上がる土星(※2)が見えて来た。その輪には昔の思い出が走馬灯のように流れていく。ホルスにはAIコンピュータが搭載されており、その頭脳には無作為に抽出された千人の記憶提供者たちの思い出が「隼人」という人格データとして統合されて詰まっている。その中からホルスの感情回路が選択した想い出が浮かび上がったのだろう。
※2
『土星は太陽系内で木星に次いで大きな惑星である。土星の直径は地球の約9倍あるが、巨大な体積のわりに質量は地球の95倍程度である。83個以上の衛星を有し、太陽の周りを約29.5年周期で公転している。木星と同様に主に水素とヘリウムからなる大気で覆われており、氷の粒などで構成される環(輪:リング)は土星のシンボルとなっている。
土星の名サターンはローマ神話における農耕神サートゥルヌスに由来する。最大の衛星タイタンはギリシャ神話のガイアとウラノスの間に生まれた、伝説上の黄金時代を築き上げた強力な神の種族タイタン(ティタン)族に由来する。』
ところで、皆さんは、アラビアンナイト(千夜一夜物語)をご存じだろうか。世界の童話やデイズニー映画の「アラジン」などで有名なアラビアンナイトは、シャフリヤールという王が妻の不貞を知り、人間不信になって妻や相手の奴隷たちの首をはねるだけでは飽き足らず、毎晩街の生娘を宮殿に呼んで一夜を過ごし、翌朝首をはねるという蛮行を繰り返していたが、ある時大臣の娘シェヘラザードが決死の覚悟でこれを止めるために王のもとに嫁ぎ妻となり、毎夜王に興味深い話をし、続きを次の日の夜に持ち越すことで、王の興味を引き、殺されずに千夜続けて、蛮行を止めさせたという物語なのだが、その一夜ごとの説話が「アラジンと魔法のランプ」や「アリババと四十人の盗賊」などの物語として世界中に広まったのである。そのような説話がシリア界隈で語り継がれ千一話収められていると捉えられがちなアラビアンナイトであるが、実はエジプトを中心に周辺諸国の説話も取り入れられて成立し、当初は千話収められたことが窺える。
本書では、アラビアンナイトに倣って千人の追憶の中から、ホルスの感情回路がピックアップした「隼」にまつわる短編を6話、順を追って紹介して行く。
2.芝の香り
プリンセスジャスミンは、日本競馬史上、無敗での中央競馬クラシック三冠を達成した3頭目の競走馬である。横峯騎手は、長年その良き相棒として、その駿馬を栄光の舞台に導いた。
プリンセスジャスミンは、サタデーナイトを父に、ワイルドモーニングを母に持つ、カーニバルファームが生んだ百年に一度現れるかどうかという奇跡の名馬である。牝馬(ひんば:雌馬)でありながら、3200mにも及ぶ長距離コースとなる春の天皇賞において、他を寄せ付けない圧倒的な走りを披露し優勝を果たしたのである。彼女の末脚(すえあし:前半はスタミナをキープしてゴール前終盤に勝負を仕掛けてくるパワフルな走り)は他を寄せ付けない圧倒的な強さを誇った。その実力を知り尽くした横峯騎手でなければ、このような大勝負を勝ち抜くことはできなかったであろう。
プリンセスジャスミンに跨った横峯騎手は、隼人という名が示す通り疾風の如く大空を駆け抜ける隼そのものであった。プリンセスジャスミンは彼の鞭と鐙から繰り出される一挙手一投足を逃すことなく、その期待に応え、健気にも全力で走り切ったのである。彼女の瞳は長いまつ毛につぶらな瞳、体全体を覆う光沢を帯びた栗毛に鼻筋にはミルクを垂らしたように甘く滴るような白毛が混じり、その名に相応しく気品を感じさせるチャーミングなアクセントを醸し出している。引き締まった胴体にもどことなくふくよかなボリュームを感じさせつつ、それでいて両脚から尻尾にかけての筋肉の盛り上がりは走り盛りの4歳馬としていかにもパワフルな走りを連想させるのである。
いつからだろうか、ウマ娘というキャラクタが巷で賑わうようになったのは・・・。
そして、競馬場にも馬が大好きな若い馬女たちが集うようになった瑞々しい若葉の季節にそのレースは行われた。
隼人は装鞍所で調教師の山田や厩務員の藤田とプリンセスジャスミンの体調を確認した。彼女の蹄鉄と蹄の具合、眼差しや耳の立て具合、鼻息、尻尾の振り方などを観察しながら鞍を装着していつものスキンシップによるコミュニケーションを交わした。隼人には彼女のコンディションが上々であることがすぐに見て取れた。
プリンセスジャスミンは、厩務員の藤田に引かれてパドック(出走馬の下見所)へと向かい、大勢の観客を前に物怖じすることなく悠然と周回しながらその雄姿を披露した。
続いて隼人が彼女の背中に飛び乗り、パドックを一回りして本馬場に入場すると、瑞々しく若草色に輝くコースを渡る風が彼らの元に芝の香りを届けてくれる。出走馬たちは、思い思いに返し馬(準備運動)・輪乗り(呼吸を整える)などの一連の準備を終え、いよいよファンファーレと共にゲートインした。彼女たちは高鳴る胸を抑えつつ発走を待っている。
ゲートが開くと、各馬一斉にスタート。隼人を乗せたプリンセスジャスミンはレース中盤まで7番目のトウカイテイオーから1馬身遅れること8番目に付けている。そして第3コーナーを回った頃から徐々にその順位を上げて行き、最終コーナーを回ると一気に先頭に踊り出た。その走りはもう誰にも止められない。そして、ゴール地点ではぶっちぎりの独走でGⅠ(ジーワン:最高格付けの競馬レース)優勝を飾ったのであった。
3.ほとばしる汗と栄冠
隼人はウインブルドンセンターコートに立って、ラケットを持つ左手を高く掲げると、空を見上げ声高らかに雄叫びを挙げた。テニスの四大大会で連勝を重ねる世界の覇者ミロビッチを4-6、6-4、6-3、7-6で破って決勝戦を勝ち抜き、遂に世界王者としての栄冠を勝ち取ったのである。そして、センターコートはこの新しい東洋の無名の王者出現に驚きと喝采に包まれた。
隼人のラケットさばきは柔らかでしなやかだが、その左腕から繰り出されるサーブとスマッシュは強烈で、目にも止まらぬ速さで相手の胸元に突き刺さるのである。
出た!『隼スマッシュ』
隼人が2セットを連取してゲームカウント7-6で迎えたマッチポイント、彼はほとばしる額の汗をリストバンドで丁寧に拭うと、手にしたボールに魂を込めて空高く放った。すると、バネのようなしなやかな身体から繰り出されたラケットの軌跡はそれを的確に捉え、矢のようなサーブが容赦なく相手のコートに突き刺さったのだ。非常に高い守備力を誇るミロビッチではあったが、隼人の打った強烈なファーストサーブがミロビッチを襲うと、苦し紛れで拾ったリターンは高く大空に弧を描き、それは隼人のスマッシュの餌食となるのだった。ボールはセンターコートの芝を滑り、ミロビッチの右脇をかすめてコートから消えた。
隼人の幼い頃、テニスに転向する前は、学校や少年チームでサッカーやバスケットボール、バレーボールなど様々なスポーツにも興じていたが、彼は何をしても万能なタイプだったようだ。彼の柔軟な身体と持って生まれた運動能力、ボールのコースを読む予知能力は卓越していた。彼は中学に入ると、試合でそれを見出した有名なテニスプレイヤー松山のスカウトを受け、松山の指導するテニスアカデミーに入部する。そして、全国大会に出場し、連戦連勝の日々が続いた。
ところが、激しい練習と過密する試合の日々に身体を酷使したためか、左肘を疲労骨折してしまう。隼人の入院生活は3カ月ほど続いた。隼人の骨折も癒えてリハビリを行い出した頃、同じく入院していた一人の女性と出会う。彼女の名は茉莉と言った。茉莉は交通事故で両足を骨折して通常なら一生車椅子生活を余儀なくされるはずだったのだが、彼女の不屈の精神は再び自らの足で歩くことを切望した。そして、担当医師もそれを応援してくれ、それからというもの、辛く厳しいリハビリの日々が続いていたのだ。隼人はリハビリの時間に倒れてもまた立ち上がり自ら進もうとするそんな彼女のひたむきな姿を目の当たりにして、何よりも勇気づけられた。
「少し休みませんか?」
隼人が思わず声をかけた。
「ありがとう。でも、あと少しで向こう側まで歩けそうなの。隼人君、先に休憩してて。」
茉莉は隼人の活躍を知らないようだった。彼女は彼を有名なテニスプレイヤーとしてではなく、挫折から立ち直ろうとする意志を自分と共有する同志として接していた。
「じゃあ、僕、先に休ませてもらいますよ。飲み物でも注文しておくね。茉莉さん、何がいい?」
「私、アイスカフェオーレ。お願い。」
「OK。」
隼人は、リハビリルームの傍らにある喫茶スペースで一休みする。大変な状況にあるにもかかわらずそんなことを全く感じさせない屈託のない彼女の笑顔が隼人には何よりの憩いとなっていた。
彼はアイスカフェオーレとアイスティを注文すると、振り返って窓越しに彼女の横顔をもう一度確認した。そこには渾身の力を込めてゴールに辿り着いたばかりの彼女の笑顔があった。彼はすっかり回復した左手の親指を上に伸ばしてジェスチャーで祝福し、車椅子を持って彼女を迎えに行った。
「茉莉さん、おめでとう!頑張ったね。」
「ありがとう、隼人君。あなたのお陰よ。」
そう言った彼女の目には光るものが溢れて、それが頬を伝って落ちた。
初めてかも知れない。彼女が隼人に涙を見せたのは。
「そんなことないよ。茉莉さんが頑張ったからさ。」
隼人はそう言って彼女の涙をタオルで拭った。
「早く行かなきゃ。飲み物が温くなっちゃうわね。」
「ちょうど飲み頃じゃないかな。じゃあ、座って。」
茉莉を車椅子に乗せ、隼人がいつものように優しく送り出すと二人は喫茶スペースに向かった。
それから一か月ほど経った頃、茉莉は松葉杖を突きながらもしっかりとした足取りで病院を後にし、既に退院して練習に復帰していた隼人に会いに行った。隼人は、控えめにネット越しに遠くから眺めていた茉莉を目ざとく発見すると、彼女の手を取りコートの傍に連れて行き、コーチや仲間たちに紹介した。
それからというもの、隼人の破竹の連勝は続いた。そして、コートの応援席にはいつも茉莉の姿があった。
隼人がテニスの世界ランキングでトップ10入りを果たしたのは、それから3年後である。そして、遂にウインブルドンセンターコートで彼の優勝を目にすることになるのである。勿論、観客の中には茉莉の応援する姿があった。
優勝インタビューにおける彼の流暢な英語スピーチの中には、茉莉への感謝と求愛のメッセージが綴られていた。
4.夏祭りの追憶
那津江は今頃どうしているのだろう。夏草の匂いと夜空を彩る花火が彼女との淡い思い出を掻き立てる。隼人は水天宮の祭りに彼女を誘い、エアコンの効いた駅前の本屋で待ち合わせし、ちょっとインテリに見える文芸書を立ち読みしながら待っていた。程なくして那津江が紺色の生地に淡いピンクの花柄を染め込んだ浴衣姿で現れた。
「隼人君待った?」
「いや、大丈夫。さっき来たところさ。」
隼人は那津江の浴衣姿を見違えたことを悟られないようにできるだけ平然と答えた。
「ほんとに?実は長いこと私のこと待っていたんじゃない?うふふ・・・」
「馬鹿言え。さあ、そろそろ行こうか。」
二人は本屋を出ると、水天宮に続く参道脇の夜店を梯子しながら、人ごみを掻き分けて川の堤防まで歩いた。河川敷に降りてレジャーシートを敷くと、まもなく夜空を彩るであろう打ち上げ花火を待ちながら、缶ビールを開けて乾杯した。つまみは夜店で買った烏賊の姿焼きと蛸たっぷりのふっくらたこ焼き、それに天かすと青のり、紅ショウガのトッピングがうれしいもちもち食感の太麺焼きそばだ。辺りが暗くなり夜風が仄かに華やいだ頬に心地よくなって来た頃、「ボボーン」という轟音と共に大輪の花がいきなり夜空を染めた。二人は思わず夜空を見上げ、顔を見合わせた。
「タマヤー」
「こんなに近くに花火が見えるなんて感動ね。」
「やっぱり来て良かっただろう。」
「そうね。私小さい頃、打ち上げ花火の音が怖くて泣いていたの。」
「へえー、那津江だってそんな可愛い頃があったんだ。」
「まあ失礼ね。レディに何てこと言うの。」
連発して夜空を彩っていた花火の音が落ち着くと、川面を渡る風が火薬の匂いと共に夏草の香りを届けてくれる。二人は子供の頃に連れて行ってもらった夏祭りの思い出話に興じていた。
「昔よく買ってもらった玩具で、糸を引っ張ると丸い輪っかの付いたプロペラが勢いよく回って大空に飛んで行くやつなんだけど、知ってるかい?」
那津江は少し茶化し気味に答えた。
「えー、そんなのあったっけ?ドラえもんのタケコプターかな?えへへ。」
「違うだろ。あれは糸を引っ張る必要ないし、人間が飛べるじゃないか。」
隼人は大真面目に答えた。
「でも隼人はそれで大空を自由に飛べるんじゃない?」
隼人は那津江の瞳が心なしか潤んでいるのを感じた。
「俺のこと何か知っているのかい?」
「いいや、そんなことないけど。でも、隼人が突然私の前から居なくなるような気がして・・・。」
「馬鹿だな。俺はいつも那津江といっしょだよ。」
そう言って隼人は那津江の肩をそっと抱きしめた。彼女の目からは大粒の涙がこぼれた。
隼人に召集令状が届いたのはそれから三月ほど経った頃だろうか。
隼人は戦闘機のパイロットとして訓練を受け、知覧の飛行場に転属となった。時は桜の蕾が膨らむ頃である。戦況は日増しに悪化の一途を辿っていた。空母を失い、沖縄を最後の砦とした戦いでは旧日本軍の制空の要は特攻攻撃のみとなってしまった。海軍は鹿屋、陸軍は知覧から、多くのにわか仕立ての若者が海の藻屑と散って行ったのだ。その主力戦闘機は零戦と隼であった。
隼人はかつて水天宮の祭りに那津江と交わした言葉を噛み締めていた。もう一度、那津江と共に夏祭りを楽しみたいと思った。翌朝になると自らの出陣フライトが待ち構えている。写真に写った彼女の笑顔をもう一度目に焼き付けると、一句したためて布団に入った。
『我がみこと 大和の夏へ 捧ぐべし 今散らんかな 舞う桜花』
隼人の辞世の句である。
5.無念の恩賞
隼人は、時々、何が正義なのかわからなくなる時がある。これまで、長い間、一心に主君に仕えてきた。主君の命令とあらば容赦なく多くの罪もない人命をも殺めて来た。その相手が自分の親族や友人、上司、同僚であろうとも。
ところが、微音と出会ってからというもの、彼の心に小さな明かりが灯り始めたのだった。
百戦錬磨の剣豪として名を馳せた隼人であったが、ある時、川を隔てた戦の最中、敵方の矢を右肩に受け瀕死の重傷を負ってしまった。隼人は辛うじて追手を逃れある山里の一軒家に辿り着いた。中に押し入って抵抗あらば切り捨て、そこに身を隠すつもりであったが、家の中から現れた娘の瞳に彼の張り詰めた氷のような心が瞬く間に解けていくのを感じた。娘の名は微音と言った。彼女は隼人を見るなり、事の真相を察して彼の傷ついた心身を優しく癒すように、家の中に連れて行き、傷の手当をしてくれたのだ。彼女の父親は娘の身を案じて彼をすぐに放り出すよう忠告したが、彼女は奥の隠し部屋に意識を無くした彼を横たえ、匿ったのだった。程なく、追手が訪ねてきたが、彼女は父親とも口裏を合わせて、体よく追い返してしまった。
それから、三日が過ぎ、彼女の献身的な看病の甲斐もあり、隼人の意識が戻ると、やがて傷も癒えて行った。
隼人が目を覚ますと、微音はお粥を作って彼の枕元に置いた。
「お気が付かれて本当に良かったわ。どうぞ、冷めないうちにお粥でも召し上がってくださいな。」
「かたじけない。既に世を捨てた身だが、そなたのお蔭で私も生き長らえた。この恩は決して忘れない。」
隼人はそう言って、立ち上がろうとしたが、まだ、傷が深く思うように動けなかった。
「その身体ではまだ無理です。どうか、傷が癒えるまでゆっくりして行ってください。」
「しかし、それではそなたたちに迷惑がかかる。」
「大丈夫です。ここは人里離れた山奥の一軒家ですから、もう、追手はやって来ますまい。」
それからひと月が過ぎて行った。隼人も歩き回ることができるまで回復していた。
微音との語らいの日々に隼人の心は幸せというものがどのようなものかを知る。
すっかり傷も癒え、隼人は微音にこれまでのお礼と共に契りの約束をする。
「主君に存命の報告をしたら、すぐにそなたを迎えに来るから、私と夫婦になってはくれまいか?」
微音は少し頬を染め考えてから、笑顔で返事した。
「ありがとうございます。でも、ここでずっと過ごしてください。そうでないとあなたはもう戻って来ないような気がします。」
「そんなことはない。私は必ずそなたを迎えに来る。」
微音はしぶしぶ隼人を見送った。
それから、ひと月が過ぎた。隼人は城に戻り、その後の経緯を主君に報告し、その際手当してくれた娘と祝言を挙げたいと申し出た。
主君は、表面上は彼の事情を斟酌して納得し、恩賞を与え祝福してくれたように見えた。
しかし、隼人が城を出たところを多勢の刺客に襲われ、剣の腕前には自信のある隼人であったが、遂に命を落としてしまった。
微音は、待てども待てども戻らぬ隼人の身に何か嫌な予感がしていた。
そんなある日、城の者が訪ねてきて、紙に包まれた隼人の髷を渡し、申し伝えた。
「隼人どのは、自らの戦における失態を恥じて潔く自害なされた。これは彼の遺品だ。受け取ってほしい。」
微音はその場で泣き崩れた。
6.夜を駆ける列車
隼人は、気が付くと故郷へと向かう寝台特急「はやぶさ」のベッドを兼ねた傾斜の無い背もたれ座席に少し窮屈を感じながら座っていた。窓の外には工場の灯りが港の海面にその光を映して揺れている。彼は、車窓から見えるそんな街の明かりをぼんやりと見つめ、ピーナツ混じりの米菓をつまみに缶ビールを飲んでいた。時折車両のガタゴトと揺れる音に反応して、つまみやビールを溢しそうになるが、不思議とその揺れを巧みにかわしては、ぼんやりと明日の葬儀のことを考えていた。
彼が故郷に残してきた年老いた一人暮らしの母が昨夜亡くなったという知らせを受けたのである。隼人は母の伊織を東京へ呼び寄せようと幾度となく説得したが、彼女は近所の友人と毎日を楽しく過ごしていると言って、離れたがらなかったのだ。彼女が小料理屋を営んでいた頃、剛腕政治家の臼杵と知り合い、愛人として付き合ううちに二人の間に隼人が生まれた。しかし、臼杵の正妻の和代は、夫が通い詰める愛人の伊織に激しく嫉妬し、ヤクザを頼んで伊織の店が立ち行かないように妨害した。困り果てた伊織は店を畳むと息子の隼人を連れて、地方に流れて行ったのだ。それでも彼女は、住み込みの店でコツコツと働きながら女一人で隼人を育て上げ、学資を捻出して大学にも通わせてくれた。そして、息子の目から見ても、彼女は女優にしてもいいくらいに器量良しで優しい母だった。
車両の灯りが暗くなると、隼人はシャワーを浴びてから、寝台を広げ、備え付けの布団に潜り込んだ。カーテンを少し開けて外を眺めると、夜空に三日月が浮かんでいた。
彼は、その夜、夢を見た。
隼人は地球を後に、夜空を走る銀河鉄道の車内で母親の伊織に抱かれながら、宇宙を旅していた。
伊織は隼人が生まれて間もなく地球を後に土星の衛星であるタイタン(※3)に移り住んだ。伊織は地球での温暖化が招いた愛憎によるトラブルから生活に困窮し、新天地を求めてタイタン開拓者の募集チラシに応募したのだった。しかし、乳飲み子の隼人を抱えてのタイタンでの生活は容易ではなかった。地球を飛び立った大型輸送ロケットは国際宇宙ステーションで「銀河鉄道」と呼ばれる複数の飛行寝台棟を連結した小型核融合炉を推力とする高速大型宇宙船に乗り替え、太陽系の各中継基地を経由しながら最終目的地タイタンへと向かうのだった。
※3
『タイタンは土星の衛星うち最も大きい衛星で、原始地球の様相を呈しており、地球以外で唯一地球と同様大気と、山や川、湖や海があり、風雨による大気の循環が行われている星として知られている。ただし、大気は大部分が窒素で満たされており、液体メタンの雨による大気循環なのである。さらに、表面温度はマイナス179.5℃と至って寒い。しかし、地表や大気中にあるメタンや窒素だけでなく、地中には岩石の他に氷やアンモニアなどの層があり、人類や動植物が生きていくための水や空気や有機物を生成するには十分な環境が存在するのだ。そして、アンモニアからは核融合に使用される重水素が容易に抽出可能なのである。土星の公転周期は約29.5年なので、その衛星であるタイタンも当然同じ周期で太陽の周りを回っているが、土星の周りも約16日で公転して、自分自身もそれと同期して自転している。したがって、土星に面する側は常に同じ地表面となりほとんど太陽の光を遮られるが、その反対側の地表面では土星と同様に昼と夜が存在する。そして、地球と同じように地軸が傾いているため29.5年の公転周期で一巡する四季が存在する。もし、タイタンに生命体が存在した場合、土星(タイタン含む)の公転速度は地球の1/3で、タイタンの重力は地球の1/7程度なので速度と重力の違いが及ぼす影響としては特殊相対性理論と一般相対性理論により若干ではあるが地球上より早く時間が進むことになる。したがって、単純には地球より成長速度が速くなる傾向が予想されるが、そのような環境が生物にどのような影響を与えるかは不明で、樹木の年輪などのように公転・自転周期などによる影響を受けるとすれば生命の成長過程は地球の約1/16~1/30ずつしか成長しないのかも知れない。また、重力の小さい環境では自らの体重を支える力が小さくて済むから地球上の生物より相対的に大型化することが予想される。ギリシャ神話に登場するタイタン族は巨人族で、彼らを統率するクロノスと同一名の神が時間を司る神とされているのも興味深い。』
地球では既にレーザ核融合による人工太陽の技術も確立しつつあった。そして、それらの技術を使って、宇宙コロニー計画が進展していた。人類は既に月や火星にも中継基地を建設してはいたが、人類が永住して生活必需品を自前で調達できる環境を整えられるような星ではなかった。そこで、次なる計画は土星の衛星であるタイタンに白羽の矢が立ったのである。
銀河鉄道は約2年間の飛行を終え遂にタイタンに到着した。タイタンは月と同程度の重力だが厚い大気が存在するため、銀河鉄道は翼とプロペラを広げて離着陸することができる。既に多数の輸送船で運び込まれた建設資材を使って大型ロボットによる駅舎棟や制御棟、居住棟などの建設が進んでいた。
銀河鉄道はラグランジュ・ポイントに到達するとタイタンの周回軌道に入り、翼を広げ徐々に速度を落としながら高度を下げ大気圏内に進入して行った。濃い大気に満たされ視界はそれほど良くないが、誘導信号を受け自動操縦で地底に建設された駅舎にゆっくりと着陸した。
伊織たちに課せられた新天地での役割は、タイタン環境における人類の入植の可能性を検証するために乳幼児の適応性と成長過程を記録することが主たる業務であった。
まだ住環境の整備が十分でないタイタンでの生活は困難を極めた。例えば宇宙船では人工重力装置により地球上と同様な生活が送れたが、タイタンではその環境への適応性を検証することが目的として課せられているため温度環境や空調などは別としてできるだけタイタンの環境そのものでの生活が要求された。そのため地球の約1/7の重力下での生活に慣れることから始めなければならなかった。それは歩行や運動、食事、洗面、排泄、入浴、睡眠などの全てに対して関わってくる問題であった。また、地球環境のような自然に接することもできないため、ドーム内の動植物園やファームなどでの擬似環境で代替するしかなかった。しかも十分な育児環境など整備されていないため、幼い隼人への影響は甚大だった。しかし、伊織の創意工夫を駆使した育児のお蔭で、隼人は見る見るうちに成長し、10タイタン年を迎える頃には3mを越える巨大な青年に育っていた。伊織は入植すると間もなく同じタイタン開拓者の雅琉という青年と知り合い再婚し、隼人を育てる傍ら一男一女を設けた。タイタンの人口も徐々に増え、地上にも町が作られて行った。そして、銀河鉄道はタイタンからさらに延伸し、太陽系を越えて文字通り天の川銀河(※4)に広がって行った。開拓プロジェクトは概ね成功し、将来は第二の地球として繁栄していくであろう。
※4
『宇宙には2兆個以上の銀河が存在するとされているが、その中でも太陽系が属する銀河は天の川銀河と呼ばれ、軟らかな光の集まりが帯状に連なる棒状渦巻き銀河であることが分かっている。
ミルキーウェイの語源は、ギリシャ神話に由来し、天空神ゼウスが死の運命を持つ人間の女性アルクメネに産ませた幼子ヘラクレスを不死にしようと、眠るヘーラーの胸に置くと、子供はほとばしる母乳を飲み不死となったが、ヘーラーが目覚め、見知らぬ幼児が乳を飲んでいる事に気づき突き放したので、彼女の母乳が夜空に噴き出し、ミルキーウェイの名で知られる軟らかな光の帯となったからだとされている。
太陽系はこの天の川銀河内の楕円軌道を約2億4千年かけて一周するらしい。天の川銀河もまた、広大な宇宙をさらに周回しているようだ。
そして、宇宙を構成する物質とエネルギーの割合は通常の物質が4.9%程度で、残りはダークマターと呼ばれる暗黒物質26.8%と、ダークエネルギー68.3%で占められていると算定されている。暗黒物質を光すら閉じ込めてしまう巨大な質量を持つブラックホールとすると、残りのダークエネルギーとは物質としては存在しない霊的エネルギーが支配する世界=冥界に相当すると考えられないだろうか。
なお、冒頭に記した通りヘーラーにより牝牛に変えられたゼウスの愛人イオは放浪の末エジプトに至りエパポスを生み、エパポスはエジプトの王になったとされている。牡牛座を象徴するゼウスの愛人なのでイオが牝牛で、ヘラクレスの母アルクメネ=イオとすると、ヘラクレス=エパポスとなり、エジプトに登場するがギリシャには登場しない毒蛇や獅子を殺して自らの象徴としたヘラクレスがエジプト王となったとすれば辻褄が合う。
そして、エジプト神話の天空神ラーと冥界王オシリス、ギリシャ神話の天空神ゼウスと冥界王ハデスをそれぞれ同一神とすると、その子ホルスとヘラクレスも同一神である可能性が高い。
さらに、放浪を続けたイオが流浪の民ユダヤ民族を象徴していると仮定すると、流浪の末、最後に辿り着いた先は日本で、古代イスラエル王ソロモンの秘宝が眠ると噂される剣山がそびえる四国に愛媛(愛の姫)という地名や五百木(いおき:イオの末裔で千の片割れ?)という姓などにその痕跡を留めている。』
地球との星間通信を介して映像で地球の様子を観ることはできたが、隼人は故郷の地球を実際に自分の目で確かめてみたいと思った。ある時、タイタン人の地球環境適合調査を兼ねた留学生募集があり、隼人はそれに応募した。
隼人は伊織たちに別れを告げ、再び銀河鉄道に乗り、地球に向けて旅立った。今度は幼い頃に旅した時とは逆に太陽に向かっての旅である。2年程の宇宙生活の後、いよいよ窓の外には碧く輝く地球が見えて来た。幼心にも辛く長かった流浪の旅も間もなく終わろうとしていた。
7.天空の翼
隼人はエジプト王家の王子として次のファラオに即位することが約束されていた。
ある時、彼は砂漠の先に碧く光り輝く湖を見つけた。そして、その向こうには深緑の山々が広がっているのだ。これまでナイル川に沿って旅することは度々あったが、一人で砂漠を横断して旅するのは今回が初めてだった。ラクダに跨った隼人は、その湖の水で乾く喉を潤したいと思い、先を急いだ。しかし、進めど進めど湖は遠ざかって行くばかり。そのうちに湖や山々は消え去り、そこにはやはり茫洋とした砂漠が広がっているだけなのである。隼人はこれが蜃気楼というものなのだと思い知った。
しかし、よく見るとその先に小高い丘があり、その麓の周りには少しばかりの緑が見える。近づいて行くと、小さな泉と緑の木々に隠れて洞窟のような岩陰が見えた。なんとオアシスではないか。隼人は嬉しくなりラクダを降りて、泉でラクダと共に喉を潤すと、ラクダの背に下げた皮袋にも水を満たした。そして、木陰で日差しを凌いで暫く休憩を取ることにした。いつの間にかうたた寝をしてしまった隼人は、ゴトゴトという馬車の音に気付いて目を覚ました。すると、数人の男たちが岩に向かって何か唱えているではないか。隼人は気づかれないようにそっと陰に隠れて耳を澄ませた。
「へそのゴマ!」
隼人にはそう聞こえた。
すると、岩の割れ目が大きく開き、その先には洞窟が見えた。そして、男たちは我先にと中に入って行き、しばらくすると割れ目は閉じてしまった。
隼人は男たちが戻って来るのを待った。1時間ほど待っただろうか。男たちは洞窟に入った時と何も変わらない様子で再び戻って来た。しかし、皆幸せそうな笑みを浮かべ、馬車に戻るとどこかへ立ち去って行った。
隼人は、男たちの姿が見えなくなってから、その岩の前に立ち、同じように呪文を唱えてみた。
「へそのゴマ!」
すると、やはり同じようにゴゴーという音と共に岩の割れ目が大きく開いた。
隼人が恐る恐る岩の奥の洞窟の中に入ってみると、少し先に光が見え、それを追って行った先に、華やかな風景が広がっているではないか。そこには草花や木々が生い茂り、木々には甘い香りの果実が実り、小鳥がさえずり、清く澄み切った小川が流れ、噴水広場を中心に街が広がっているのだった。
隼人は古代都市エデンの園に立っていた。
そこでは誰もが好きなものを食べ、永遠の生命を約束されている。
男と女の神々がおり、愛に満ちているが、生殖機能は持っていないのだ。
すると、空を飛ぶ白い龍が現れた。「ハク」と言った。
彼は地上に降りてきて、隼人に挨拶した。
「私はハク、大空を司る者だ。ここでは見かけない顔だが、君の名前は?」
「私は隼人。エジプトの王子でナイル川の畔からやって来た。」
「隼人、では歓迎の意味を込めて、君が望むものを一つ与えよう。欲しいものを言ってごらん。」
隼人は、ハクのように大空を飛んでみたくなった。
「私はあなたのように空を飛べる翼がほしい。」
「なるほど、君の望みを叶えよう。」
ハクはそう言って、隼人に白い息を吹き掛けた。
すると、隼人の背中に翼が生え、羽ばたきすることができるようになった。
隼人はハクの後を追って大空に舞い上がった。空は隼人に自由を与えてくれた。
ハクは煌めく星を追って彗星になった。そして、尾を引いては宇宙を彷徨いながら大掃除をするのがマイブームになって行った。
隼人は惑星になった。輪を纏ってガイアと共に太陽の子になったのだ。
それから何千年の月日が過ぎたのだろう。隼人はエジプトが恋しくなった。エデンの園に降り立つと、遠い記憶を呼び覚まして舞い込んだ世界からの復活の方法を思案した。
「そうだ、砂漠だ。あの時蜃気楼と共にオアシスを発見して・・・。ヘソだ。ここはこの星のヘソなのだ。」
隼人は噴水広場を横切って、東方へ進んだ。すると、木々に隠れて大きな岩の割れ目が見えた。
「へそのゴマ!」
隼人がその岩の前まで行き、そう唱えると、やはり割れ目が開き洞窟が現れた。彼は迷わず洞窟の中に入り、一筋の光を追った。そして、光の先に見えたものは、女神だったのだ。そうだ、そこにあったのは自由の女神・・・。右手は世界を照らす松明を掲げ、左手には智による開放を記した独立宣言書が携えられていた。
8.エピローグ
土星の和が奏でる追憶は少しずつ遠ざかっていく気がした。気が付けば、天王星、海王星、そして冥王星・・・。
冥王星は、現在では惑星から準惑星に格下げされているが、古くからその存在を知られており、エッジワース・カイパーベルトと呼ばれるドーナツのように周りに天体が密集している空間の中に位置している。そして、その外側にはオールトの雲と呼ばれる彗星や小惑星が点在する太陽系の外殻が存在しているらしい。
量子力学で扱うミクロの世界には、トンネル効果という粒子と波動の二重性により通常超えることのできないエネルギー障壁を超えてしまう物理現象が存在する。そして、広大な宇宙に浮かぶ無数の天体もミクロの世界と類似する現象を示すかも知れない。
ホルスは宇宙の波動を受け共振しそれが大きく増幅されて行くのを感じていた。その先には冥界が広がっているのだろうか。
ホルスが再び覚醒すると、そこには千の風が吹き渡っていた。