あるメイドの結婚
「私、結婚いたします」
水差しを手に、屋敷の主の息子――若様を見つめて、私はそう言った。
曇りなく磨かれたグラスへ、澄んだ水を注いで盆に乗せる。起き上がった若様へ差し出すと、喉を鳴らして一気に飲み干した。
無言で突き出されたグラスへお代わりを注ぎながら、体調の確認をする。
「おはようございます、若様。昨晩頭が痛むとおっしゃられておりましたが、その後いかがですか? 食欲はおありですか」
「え? あ、ああ……頭痛……は、薬を飲んだらおさまった。朝食は食べる。今朝のスープは何だ」
「人参と玉ねぎをすりおろし、ブイヨンで煮たスープです」
若様は頭痛持ちの気があり、頭痛薬を常飲している。
本当ならばご無理をなさらずにお休みになって頂きたいのだが、若様は大丈夫だからと薬を飲んで横になってしまうのだ。
確かに薬で頭痛を止めるのは手軽なのだろうが、どうにも癖になりやすい。だんだんと利きが悪くなるともっと強い薬をお求めになるかもしれない。
しかし、領地経営を旦那様に付いて学んでいる若様は今が踏ん張りどころだから、と鎮痛剤を飲み頑張ってしまわれるのである。
「俺の好きなスープだ。料理長が気を利かせてくれたのか?」
「はい。具合がよろしくない場合でも好物であれば、と」
もちろん理由はそれだけではない。若様好物のスープは、すりおろしてある分消化に良いのだ。
……強い薬は身体に負担がかかる。例えば、胃腸などに。
元々、若様は幼い頃から朝に弱くて頭痛持ちで、おまけに心配事があると胃痛を覚える繊細なところがある。
長男である以上、ご当主になられることは決まっていた。今にして思うと、きっとお小さい頃から重圧を感じておられたのだろう。
成人が近づき、領地経営を学び始めてからはさらに内臓にも負担がかかっているように思える。
さらに困ったことに、集中すると寝食を後回しにしがちなのである。せめて栄養を取りやすいように、と毎朝若様用のスープをお出しするのが習わしとなっていた。
若様は決して大変だと口には出さないけれど、屋敷の使用人たちは皆心配しているのだ。
「そうか、助かる。時に」
「はい」
「……先ほど、何やら聞こえたような気がしたんだが。……け、け……、結婚、とか、そういった感じのようなことを」
「はい。お伝えしました」
「……お前が?」
「はい」
「結婚……?」
「はい」
ですからそうだと言ってるだろうに。若様は珍妙な顔をし、今日の身支度は自分でするから、と半ば無理やりに私をお部屋から追いやられたのだった。
することが無くなってしまった。仕方ないので他業務に当たっているグループに加わろう。
「あら、どうしたの? 手が空いた? それじゃあ、こっちはいいから食堂の方をやってもらえる?」
同僚メイドに手伝いは要らなかったらしい。頷き、私は食堂へ向かった。
食堂ではすでに雇用主――当主様と奥様、そして若様の妹君であるお嬢様が席について挨拶を交わしていた。
お嬢様のグラスの水をお注ぎするためにテーブルに近づくと、お嬢様がこちらを向く。目が合ないよう、そっと瞼をわずかに伏せた。
「お嬢様、おはようございます」
「おはよう! 珍しいわね、あなたがこちらにいるだなんて。お兄様がまだお見えになっていないけれど、まだ頭が痛いのかしら」
「いえ、朝食はお召し上がりになると仰っておりました」
「そうなの。……あれ? でも一緒じゃないの?」
「はい」
「本当に珍しいわね。何かあった?」
「結婚します、とお伝えした以外は特に変わったことは申しておりません」
「そう、結婚するのね……結婚!?」
「はい」
水の注がれたグラスをテーブルへ置きながら、ご兄妹だけあって驚いた表情が似ているな、と思った。
「あ、あ、あなたが!?」
「はい」
「誰と!」
どこから説明をするべきか。支障はないのだが、なにぶん少々ややこしいことになっているような気がする。
「そうだ、誰と結婚するんだ! 聞くのを忘れていた!」
「きゃあお兄様!」
とりあえず簡潔に伝えるだけにしようか、と口を開く前に食堂の扉から若様が勢いよく会話に割り込んできた。
「若様、淑女を驚かすような行動はお控えを」
紳士らしさに欠ける挙動に思わず幼い頃のような口出しをしてしまっていた。しまった、と思わず唇を噛む。
若様は生意気なメイドのことは気にせず、素直にお嬢様に謝罪をしている。
「す、すまなかった。そしておはよう妹よ……いやそうではなくてだな」
「お兄様がこんなにも朝から喋っているのを初めてみたわ」
「血圧が上がりもするだろう! だってこんな、いきなり、急に! 結婚、だなんて!」
若様が語気強く言った。血圧が上がっているのは事実らしく、頬には朱が差している。
それだけならまだいいのだが、あまりそう頭に血が昇りすぎても良くない。ひとまず落ち着いてもらおうと思い、そっとグラスに常温の水を注いだ。
胃の弱い若様用に、この屋敷では冷たい水と湯冷ましの両方を用意してあるのだ。ちなみに、寝起きの若様にお出ししたのも湯冷ましである。
「どうぞ」
「ああ、ありがとう……ところで、何故今朝になるまで黙っていたんだ?」
「そうよ。お兄様はともかく、どうして私にも言ってくれなかったの?」
「俺はともかくって何だ!」
「だってお兄様、相手の方を品定めするでしょう。彼女はその方が好きで一緒になりたいのに、わざわざ文句を付けられたくはないじゃない」
「し、しないぞ。そんなこと……」
「嘘。絶対するわ」
「しない! だからヒントだけでも教えてくれないか。確実に当ててみせる」
質問攻めに遭うんだろうな、と身構えていると、それまで静かだった当主様が声を掛けた。
「お前たち、そこまでにしろ」
「そうですよ。落ち着きなさいな」
「お母様……」
穏やかな微笑みの奥様もお二人を窘める。当主様は若様に着席を促し、良いか、と説く。
「たとえ主人と使用人であっても、人は人。守られるべき個人の権利はある。何が言いたいかわかるな?」
「はい、父上」
「はしたなかったですわ、お父様」
当主様の言にお二人はそれぞれ頷いた。わかっているなら良いと当主様も目線で応じた。
「思ったより大事になってしまったな。説明は必要だろう」
主人の視線を感じる。この状況を楽しんでいるように、私の発言を待っている。
どうするべきか。正直、自分でも持て余しているので当主様自ら事の次第を明らかにして欲しかった。
すべてこのお方の筋書きなのだし。
などと考える私を気遣ってか、お嬢様がフォローを入れてくる。
「言いたくなければ答えなくて良いわ。あなたの意思を尊重する」
「お嬢様……」
では甘えて全部ご当主様が知っていますよと丸投げしてしまおうか。
「その上で教えて。そのお方のどこが好きなの?」
あっ駄目だ。控え目にとれるようシフトしただけで、しっかり私の口から引き出そうとしている。
「確かに気になるわね」
「奥様まで……」
「許してちょうだい。いくつになっても女性というのは恋のお話を好きなものなのよ」
「分かりました。……先に言いますと、口下手ですのでご容赦くださいませ」
逃げ道はないと悟った。仕方ない、メイドである以上主には逆らえないのだから、覚悟を決めるしか。
「……まず、とても努力家なお方です。ご家業を継がれるということで、まだ遊びたい盛りだろうに誘惑を遠ざけ、日々取り組んでおられます」
「家業を継ぐ? ということは長男か。ならやめておけ、苦労するだけだぞ」
すかさず若様が突っ込んできた。口を出さないと言っていたのは違っていたらしい。
「一番責任が重いのは継がれるご本人です。それをお支えすることを苦労と仰るのでしたら、私はそれをともに背負いたいのです」
「うぐぐ」
「お兄様、お願いですから黙ってて」
「構わなくて良いわ、続けて」
「はい。奥様」
呻く若様を横目に続きをせっつかれる。女性はこういう時強い。
「次に、お優しいのですが照れ屋さんなところがありまして。ご両親、妹君、使用人、領民など……どうすれば皆が楽に暮らせるだろうか、ということをいつも考えておいでです。ですが照れ屋さんなので、頑張っておられるのを隠そうとします。賞賛を素直に受け取れず、つい素っ気ない態度をとってしまったり、茶化してその場を濁してしまいがちで……謙虚さは美徳ではありますが、やりすぎは卑下となってしまいますから、もう少しご自分をちゃんと認めても良いのでは、と思います」
「なんだそいつは。面倒くさすぎだろう」
「そうね。ひねくれているわ」
「……。いいえ、そのようなことはありません。確かに照れ屋さん故に回りくどく感じられる時もありますが、根がまっすぐなお方ですから結構読みやすいのです」
「照れ屋さん照れ屋さんと……大体いくつでそんな子供扱いされてるんだその男は。まさか年下なのか?」
「はい」
「やめろそんな男!」
食い気味に否定された。そこまでですか若様。年下なだけなのに。
「お兄様、不躾よ」
「あくまでも俺の一意見だぞ」
「好き勝手に言い過ぎよ」
またお二人が勢いづいてきた。このまま白熱していくと先と同じになってしまうので、一応気にしないと伝えておく。
「私は構いません」
「ほらこう言ってるし」
「お兄様をあまり甘やかさなくていいのよ……?」
問題ないだろう、個人の意見だしな! と腕を組む若様と、それを気の毒なものを見る風に見やるお嬢様。ちょっとお引きになられている。
若様はもしかすると、私の結婚相手が年下だから生活能力に不安があるのではと考えているのかもしれない。
だとするなら、それはとんだ杞憂である。
認識を訂正するべきか、と思っていると、神妙な顔の若様が挙手をひとつ。
「俺からもひとつ、質問して良いだろうか」
「もちろんでございます」
「お前は……」
両手でグラスを包むように持ち、水面を見つめている。言葉を選んでいるのだろうか。
「……お前は、そいつのことが好きなのか? 結婚したいと心から思っているのか?」
「それは……」
想定していた質問のどれとも違う問いに、言葉が詰まる。
「それは、私が不本意な結婚をするのではないか、と疑ってのことですか?」
「う、……まあ、そう……なる」
歯切れ悪く、若様は俯いた。
「お前は、その。俺がクソガキだったころから面倒を見ていたせいで結婚適齢期を逃してしまっただろう。……気にしてはいたんだ、ずっと」
「お気遣いありがとうございます」
お口の悪いところが出てしまっているが触れずにおく。茶化す流れでもないのだし。
「どうなんだ?」
「まったくの杞憂かと」
「……そうか。ちなみに相手の男は何と言ってるんだ? 支度金とか嫁入り道具とか必要ならいくらでも俺に言え、全部用意してやる」
何かを決心したように、顔を上げた若様は意志の強い瞳で私を見た。
どうにも様子が変だ。ストップ、ストップです若様早まらないで!
私は慌てて誤解している若様を制止しようとしたが間に合わず――
「結婚おめで「ンッフフフ」
こらえきれなかった奥様の笑い声が、一世一代の男の覚悟を台無しにする現場を見た。
「……母上?」
鳩が豆鉄砲を食ったよう、とはこんな顔なのだなと思った。
しんと静まり返る食堂。奥様が口元を覆いながら小刻みに震えている。
それを見た当主様がついに我慢できず忍び笑いを漏らした。
「クク、すまない息子よ、いやあ、ハハハ……!」
「何ですか二人とも、その笑いは……え? 何故笑っているんですか?」
俺は今勇気を振り絞って祝福を告げようとしていたのに? と責めている顔だった。
眉がハの字になっていて、失礼と分かっていても途方に暮れた犬のようで可愛いなと思った。
「な、なんでもない、のよ? ンッフフ……!」
「あー、ゴホン……君、あまり倅をからかわないでやってくれないか。流石に見ていて可哀想になってきたぞ」
わざとらしい咳払いでは誤魔化せませんよ当主様。ご子息を一番からかっていたご自身を棚に上げないで欲しい。
お嬢様はそういうことね、と肩の力を抜き、やや呆れながら苦情を言った。
「お父様もお母様も意地悪だわ。まさか教えられていないだなんて、彼女も思ってもみなかったでしょうに」
「? 何だ? 何の話だ?」
「お兄様は鈍感だし……」
「!? だから何の話を」
「彼女の結婚相手の話をしているのよ」
「は? さっきからしているだろう?」
「騙すようなことになってすまんな、息子よ」
「本当は昨夜にでも伝えようとしたのよ。けれど具合が悪そうだったから良くないと思って」
「若様は確かに昨晩頭痛があると仰って、早めに床につかれましたね。何となく察してはおりましたが、まさか本当に何も知らされていなかったのは驚きです」
「俺を置いて話をしないでくれ」
「むしろお前は渦中に居るんだが……」
「やっぱり朝が弱いせいかしら。いつにも増して察しが悪いわ」
「母上に突然暴言を吐かれた……」
事態についていけず、目を白黒させる若様。大分昇っていた血圧が下がり、疲れさえ見えている。
これ以上いじめるのは可哀想だ。若様を労わるべく背中をそっと擦り、私は伝達ミスで伝わっていなかった最重要事項をようやく声に乗せた。
「私の結婚相手はあなたです。若様」
三分ほど、若様は硬直していた。思ってもみなかったためか、物凄く驚いているようだった。
あれだけ私に語らせておいて、まったく心当たりが無かったのだろうか。
自己評価を低くしがちな方ではあるが、本当に私が自分以外と結婚すると思っていたのですね……。
「……冗談だろう?」
ぼんやりとそう呟く声は戸惑っていた。
自分の与り知らないところで、勝手にメイドなんかと結婚を決められたのだ。冗談であれと感じるのは当然だった。
誇りを傷つけられたと思っても無理はない。
「冗談ならよかったですか?」
「違う、そういう意味じゃない」
こんな女と夫婦になりたくないでしょうと思って問えば、即座に否定された。
「俺は、嫌なんかじゃない。でも、嘘だろう、思ってもみなかった」
「おや、私が若様に嘘をついたことがおありでしたか?」
「今! さっき!」
「あれは言っていないだけです」
「物は言いようというやつではないかそれは」
「でも、本当ですよ」
「全然そんな様子はなかったのに」
「ええ、私も先月打診されてとても驚きました」
「俺はずっと、お前が結婚出来ないことが気がかりで――行き遅れた原因が俺にあるなら、絶対責任を取らなければ、と……思っていた」
「そうでしたか」
「ああ、いや、そうじゃない。いや違くもないのだが、一番言いたいのはそういうことでは無くて……! 責任感からお前と結婚しよう、だなんて思ってないってことをまず知っておいてくれ」
「はい」
「それを踏まえて答えてもらいたいんだが……どうして、話を受けようと思ったんだ?」
「と、言いますと」
「俺と結婚していいと、思ってくれているのか。お前は……俺を好いてくれていたのか?」
「まあ。そんなことでしたか」
ここに来て動機を問うとは。もう散々先ほど言わされた気がするものの、答えるべきだろう。今度は、含みなく思っているままを言葉にした。
「……私は、若様が坊ちゃまだった頃からお仕えしております。不敬ながら弟のように感じておりましたゆえ、結婚となると戸惑いましたが……あなた様はとても魅力的で、格好良くて、素敵な男性に成長なされました。気づかぬよう、気持ちに蓋をしていたほどに」
はて、先ほど好きなところを語ったときは平然としていられたのに。どこかむずがゆくて、焦りにも似た感覚が胸を支配する。
私、もしかしたら、緊張している……?
それはそうだ。だって、今から私がするのは、思い慕う殿方への、告白に他ならないのだから。
「私は、心から若様をお慕いしております」
意識したとたん、次は血の気が引く気がした。怖い。断られたらと、最悪の想像が脳裏をよぎって、声がだんだん掠れていく。
「むしろ、若様こそこのような董のたった嫁ぎ後れなど要らないだろうと思って……」
「そんな訳がない!」
身を乗り出し、若様が言を遮った。食堂の響くほどの声で。
「やだ、お兄様ったらそんな大声出せたのね……」
驚愕の呟きを落としたのはお嬢様。その場にいる全員が同じことを思ったかもしれない。
「あ、う……お、俺は……」
周囲の反応に気づいたのか、若様は言葉を詰まらせた。何を言いたいか、自分の中で探るようにゆっくりと私に向けて話し始める。
「ずっとお前が――いや、君が好きだった。弟扱いされていたのは分かっていたから、早く一人前になって君に結婚を申し込もうと思っていた。父上はきっとお見通しだったから、見かねて手を回して下さったのだろう。未熟ゆえに女性である君にそこまで言わせてしまった自分が情けなく、不甲斐ない」
悪い思考を振り払うようにして、小さく息を吐いて首を横に振ると、若様は立ち上がって跪いた。
手を差し出しながら、真っすぐに私を見上げている。先ほどよりもずっと強い、決意を宿す瞳だった。
「君に、私の妻になって欲しい。これまで以上に気苦労を掛けることになるだろうが、後悔させないとここに誓う」
「……まあ。若様、いつの間にその様な。立派な紳士になられましたね」
「からかわないでくれ、本気なんだから! ……答えは?」
すでに決まっている答えを言うのに、ずいぶん遠回りしたものだ。けど、それもまた楽しくて、愛おしく感じる。
「――喜んでお受けいたします。あなたを生涯お支えすることを、私もここに誓いましょう」
水差しをテーブルに置き、代わりに彼の手に指を置いた。手が重なると、お互い震えているのが分かった。
きっとこの日の光景を、死ぬまで何度も思い出すだろう。あんなこともあったなと、二人でお茶でも飲みながら。
「ありがとう……!」
立ち上がった彼に腕を引かれて胸に飛び込む。抱きしめられながら、何度も何度もありがとう、の言葉を聞いた。声は少し湿っていて、盗み見ると目尻に涙が浮かんでいた。
ああ、やだ、いけない。なんだか、私まで胸がいっぱいで泣きそうになってしまう。
おめでとう、と笑顔で拍手を贈るお嬢様の声がする。奥様も、周りの使用人たちも、拍手とともに祝福の言葉を投げ掛けながら、こちらを見つめていた。
と、いうことは。これまでのやり取りが見られていたことになる。
当たり前だ。ここは朝食を摂る場で、私も彼らも使用人である。
今更、じわりじわりと気恥ずかしさが込み上げる私のことなど知らずに、彼は「指輪はないから、後日改めて正式に求婚する」とか囁いて来るのである。
絶対、寝る前とかに今の自分の台詞を思い出してベッドの中で暴れますよ、あなた。
頃合いを見計らっていたのだろう。給仕が食事を運んで来たので、ようやく彼が私を開放してくれた。
腕からは逃れられたものの業務に戻ることは許されなかったが。
若様の前にそっと置かれたのは、小さいころからの大好物。
緊張しいで胃が弱かった小さな男の子の為のスープだ。
私はポケットから取り出したハンカチで目元に残る彼の涙をぬぐい、スプーンを手に取った。
ひと匙そっと掬ったスープを、不思議そうな顔をした彼の口元へと運び入れる。
素敵に成長してかっこいいプロポーズだって出来るようになったのに、彼は子供の頃のように泣きたいのか笑いたいのか分からない、といった表情をしていた。
「嬉しすぎて味がよく分からん」
ちゃんと味わってるくせに。
わかっておりますよ、あなたの感じていることなんて。思わず呆れて笑ってしまう。
「いつもと同じ味なのに、何だか格別美味い気がするのは、幸せだからだろうか」
照れ屋な若様が、まさかこのようなことを私に向けて言う日がこようとは。
後で頭を抱えながら忘れてくれと言われても絶対に忘れまいと心に刻んだ。
白状すると、鍛え上げた表情筋で抑え込んでいるが、ずっと口元が緩んでしまいそうで仕方がなかったりする。
私の旦那様(予定)はちょっと素直になれなくて、でも心根がまっすぐなので非常に可愛らしい方なのだ。
にやけてしまいそうになる口元を必死で抑えようとして、はたと気づく。
じっと若様が私を見ている。問いかけの答えを待っている。
「お前は?」
ああ、もう。本当に困った若様だ。
今はお仕事中だというのに。私はまだ、あなたのお世話係のメイドだというのに。
しかしここをはぐらかせば面倒になるのが目に見えてわかっていた。多分絶対拗ねる。
……仕方がない。仕方がないから、この一瞬だけ。私もメイドの看板を下ろそう。
プロポーズを受けた彼の未来の伴侶として。
「私も同じ気持ちです、若様――私も今、とても幸せです」
みるみるうちに顔を真っ赤にした若様は、いよいよ泣き出しそうな顔で「急に可愛く笑うのは反則」などと言いながらテーブルに突っ伏し、しばらく顔を上げてはくれなかった。




