それでも私はキレません!
「いいか、アデル、もうすぐ卒業で、俺は数ヶ月後にお前と結婚しなくてはいけないわけだが、それは立場上仕方なくてのことだ。
結婚しても俺の最愛の女はこのエリーザで、お前を愛することは決してないから、よーく覚えておけよ?」
多くの生徒で賑わう王立学園の中庭で――白金ブロンドと青灰色の瞳をした、目の覚めるような美形――王太子レイモンは公然と言い放った。
それもわざわざ見せつけるように他の女生徒の肩を抱き、婚約者の公爵令嬢アデル・バルトの昼食を邪魔しての宣言だった。
「勿論、子供の頃から殿下が私の事を嫌っているのは存じ上げております」
対するアデルは微笑をもって答える。
その微塵も動揺を見せない態度がいつもレイモンの心を傷つけているとはつゆ知らず。
先刻の発言もアデルとの結婚式が迫って浮かれてのもの。
幼い頃からのアデルへの恋心と劣等感を拗らせまくったレイモンの捻くれた愛情表現だった。
そうとは知らない――黒髪の巻き毛と緑の瞳をした、小悪魔的な美貌の女性――男爵令嬢エリーザが、続けて思い上がった口をきく。
「申し訳ありません、アデル様。私の身分が低くて、レイモン様との結婚が認められないばかりに……。
形だけの妻なんて、お辛いでしょう? おかわいそうに」
これにもアデルは、
「お気遣いありがとう。全く問題ないですわ」
とにっこり笑顔で返し、レイモンの胸をぐさっとさした。
「ふん! いつも、余裕ぶった取り澄ました顔をしやがって……我が妹ながらつくづく可愛げがない。
そんなだからアデル、お前は殿下に愛されないんだ!」
と、いつもレイモンとつるんでいる、アデルと顔だけは似ている双子の兄ロイドに理不尽な毒を吐かれても、
「もう可愛いなんて言われる年頃でもありませんから。それに私達の結婚は完全に政略的なもので、愛はいっさい関係ありませんもの。ねぇ殿下?」
やんわり受け流してから、止めの一言をレイモンにお見舞いした。
そこに購買に飲み物を買い足しに行っていた第二王子のジェレミーが走って戻ってくる。
「アデルお姉様、牛乳まだこんなにありましたよ! あっ、兄さん達。またお姉様に絡んでいるのですか!」
ジェレミーは年こそ二歳下だが、長身の兄のレイモンよりさらに頭一つぶん背が高い学園一の高身長。
白金ブロンドに青灰色の瞳と、特徴はレイモンに似ているものの、より精悍な顔立ちをしていた。
その制服の上からでもわかる筋骨隆々の肉体は、叶わぬ兄の婚約者への恋慕を身体を鍛える事で紛らわしてきた結果。
アデルの想いの分だけ筋肉を育ててきた悲しき大男なのだ。
「ふん、相変わらずお前らは出来ているようだな……この尻軽女がっ!」
自分の事は棚あげし、仲の良い二人に嫉妬して、言いがかりをつけた上に罵倒せずにはいられないレイモンなのだ。
そこもアデルは冷静に否定する。
「私とジェレミー殿下は実の姉弟のような仲。何もやましいことはありませんわ」
はっきり言い切られたジェレミーは内心傷つきつつも、威圧的に兄を見下ろした。
「アデルお姉様への侮辱は、たとえ兄さんでも許しませんよ? 父さんからも、お姉様に無礼な態度を取らないように再三言われているでしょうに」
言い返せないレイモンは舌打ちして「ふん、行くぞ、エリーザ、ロイド」と仲間を引き連れて去って行った。
「全く、アデルお姉様のような完璧な婚約者をないがしろにするなんて!」
ジェレミーは憤然とする。
本気で全てを兼ね揃えた理想の女性であるアデルに文句をつける兄が信じられなかった。
けぶる金髪、サファイア色の瞳、白鳥のような首とスラリとした肢体、祖母譲りの罪なほどの美貌。
名門公爵家の娘で王族の血を引く高貴な家柄と血統。
この貴族の子女が13〜18歳まで通う王立学園において、座学も武芸も五年間トップの成績という飛び抜けた優秀さ。
勤勉にして穏やかな性格で周囲の信任も集め、昨年から生徒会長も勤めている。
反面、高慢で高飛車などの評判もあるが、それはレイモン達が流した悪口と女子のやっかみのせい。
声のでかい人間の意見がある程度通るのは世の常。
それとたとえ性格に難があっても、レイモンとロイド、ついでにジェレミーは、ルックスだけは学園トップ3を争う美形。どうしても女子に敵を作ってしまうのだ。
「いいえ、少しも完璧なんかじゃないわ。私は努力だけが取り柄の凡庸な女なのよ。
でもありがとうジェレミー。あなたには学園生活の後半の三年間、とても世話になったわね」
「もうお姉様が卒業だなんて、寂しいです」
ジェレミーは切なく青灰色の瞳を細めた。
アデルは卒業式の三ヶ月後にレイモンと挙式予定。
その後は学園生活より憂鬱な夫婦生活の始まりだった。
(でもきっとこれまでのように表面上は耐えられるわ……。
なぜなら私にはエミール様がいるのだから)
「ただいま、エミール様-」
アデルは寮の個室の一角のエミール様コーナーで、絵姿、自作人形、貰った私物などのエミール様グッズに囲まれながら今日も一日の疲れを癒した。
漆黒の髪に神秘的なアメジストの瞳の絶世の美形のエミール・ガニエは当世人気の若手舞台俳優。
アデルの現在進行形の初恋の人で、9歳の時、初めて彼が主演する舞台を見てからずっと大ファンだった。
そう、その実、恋愛劇を好む内面は誰よりも乙女のアデルなのだ。
(本当は尊敬も愛もない結婚なんてしたくない……!)
本音ではそう思いつつも、しかし、両親の前ではとてもそんなことは言えない。
なぜならアデルと同じ、王太后が決めた縁談によって愛のない結婚をした二人なのだから。
おまけにバルト公爵と妻のローラの性格は水と油。
武勇でならしてきた硬派なバルト公爵に対し、王妹のローラは享楽的で騒がしい性格。
王太后の命令で夫が領土拡大の遠征に行きっぱなしなのをいいことに、ローラは毎日パーティー三昧。
今日も流行の先端を行き過ぎた珍奇な衣装を着て、公爵家の庭で昼餐会を開いている。
屋敷にいると昼夜騒がしいので、よほど学園の寮にいたほうが落ち着くアデルだった。
今も卒業式前の休日に、十ヶ月ぶりに戦いから帰ってきた父に会いに、実家を訪れただけである。
「やはりレイモン様に好かれないのは、私に女性的な魅力が不足しているからなのでしょうか……?」
平気なフリをしていても密かに深く悩んでいるアデルだった。
「何を言う、アデルは優秀なだけではなく王国一の美貌の持ち主!
お前以上に魅力的な女などこの国に――いや世界中にだっているものか!」
いかつい軍人であるバルト公爵も、娘のアデルには甘々だった。
息子が救いようのないアホなだけにますます娘が可愛いく見えていた。
「顔はそうでも身体が……」
アデルは三杯目の牛乳を飲みながら、自分の胸元を見下ろした。
娘の言わんとしていることを悟った公爵はチラッと牛並みの妻の乳を盗み見る。
「その控えめさがいいんじゃないか、余計な部分に栄養を取られていないからお前は賢いのだ」
後半の偏見部分は小声で言った。
ジェレミー以外の男子生徒はレイモンから攻撃されるのでアデルに近づかない。
そうとは知らずに本人は自分が全くモテないと勘違いしているのだ。
「アデル、お前を不幸にするだけの結婚なら、今からでも取り止めていいのだぞ?」
実際、王国一の武力と王の数倍の尊敬と人望を集めるバルト公爵ならば、なんとでもできるだろう。
「いいえ、お祖母様の期待は裏切れません……」
アデルが神妙にかぶりを振った時、
「ママー、またアデルが人前で俺に恥をかかせたんだ。
昨日、俺を剣で負かして得意になってたんだよー!」
同じく実家に帰ってきたらしいロイドが母に告げ口しながら庭に現れた。
選択科目である剣術の最後の模擬戦の話をしているのだ。
「まあ、アデル! 妹の癖に、生意気にも兄を負かすだなんて!」
「何を言う、ロイド。妹に負ける、お前の鍛錬が足りないのだ」
「あなたこそ何を言うの! ロイドはアデルと違って、戦いを好まない心優しい性格なのよ!」
こうやっていくら父であるバルト公爵が厳しくしつけようとしても、妻であるローラが全力で息子を甘やかすのだ。
「アデルはレイモン殿下もボコボコにしたんだよ、ママ!」
「まあ、何てことを! お前のそういう可愛げのないところがレイモンに好かれない理由なのよ!」
そう言われても、アデルにとって兄のロイドは弱すぎて負けようがないし、婚約者のレイモンはわざと負けると余計に怒るという面倒くさい性格だった。
「女性に負ける方が悪いのだ」
「ほら、そうやっていつもあなたがアデルを庇うから、ますます増長して可愛げを失っていくのよ! だいたいあなたは――」
ローラは癇癪を起こすと話が長い。
「その辺にしなさい!」
そこへぴしゃりとした声が飛んできた。
「お母様」
登場したのは王太后だった。
「ローラ、お前という娘は、馬鹿息子を甘やかすだけ甘やかして!」
ロイドが抗議する。
「酷いよ、僕の事を馬鹿息子だなんて、お祖母様!
わかった、アデル、お前がまたお祖母様にある事ない事吹き込んだんだな」
濡れ衣である。
そんなこと一度もしたことがないし、むしろいつもある事ない事吹き込むのはロイドのほう。自己紹介もいいところだ。
ロイドは幼少期から出来の良い妹と比べられ、すっかり性格がねじ曲がっていた。
「その前に私が娘の育て方を間違ったようね。ごめんなさいね、バルト公爵、アデル」
「お母様はいつも私を悪く言うのね!」
ローラも不満を口にする。
「悪いけど、お前達はあっちへ行ってなさい」
相手をするのが面倒になった王太后は、しっしっと追い払う仕草をする。
「覚えておけよ、アデル!」
ロイドはまた勝手に新たな恨みをアデルに募らせ去っていった。
「はぁ、頭の痛いこと。
息子にも政務ができない分、せめてレイモンをきちんとしつけるように言ってあるのに……
ジェレミーの話によると、相変わらず貴女に迷惑をかけているようね、アデル。
でも、次期国王のレイモンがそんなだからこそ、貴女には将来、この国を中心になって支えて貰わないといけないわ」
アデルは小さい頃から同じことを祖母に言われ続けてきた。
その責任感において今まで人一倍努力を重ねてきたのだ。
「はい、お祖母様、わかっております」
王太后はふと、怒って去っていく娘の背中を眺めつつ。
「しかし、ローラはまた肥ったわね。夫に似てきたわ」
「先王はふくよかな方でしたからね」
バルト公爵が思い出すように頷く。
「おほほ。亡くなる前はそうだったけど結婚した時はあれでも痩身の美形だったのよ。
それが私が王の仕事を全て引き受け、毎日好き放題遊び暮らさせてあげたら、豚みたいにぶくぶく肥って30前に心臓発作で亡くなってしまったわ」
以来、王太后は女ながらにまだ幼かった現王の摂政を勤めてきた。
アデルはぞっとしない話を聞きながら思った。
(先王だけではなく、折り合いの悪かった王妃も早死にしたし、周りには他にも不審死が多い……。
お祖母様は本当は怖い人なのかもしれない)
どちらにしても一番敵に回したくない存在だった。
しかしアデルは、レイモンやロイドがやっかむほどに、特別祖母に目をかけられている自覚がある。
「ところでアデル、卒業前の景気づけにと、明日の晩、ボックス席を予約しておいたわ。観劇に行くでしょう?」
「はい、お祖母様、勿論です!」
王太后は孫娘にプレッシャーをかけるだけではなく、頻繁に気晴らしにも連れて行ってくれるのだ。
アデルはいつもベールで顔を隠し、お忍びで劇場へ通っていた。
カイル・ジェーファーソン劇場。
そこは王太后がひいきの舞台俳優の名を冠して巨費をつぎ込んで作った大劇場だった。
初めてここでエミールの舞台を観たのも祖母に連れて来られてのこと。
アデルは今夜も思い切り自分を解放し、
「エミール様ーーーーーー!」
黄色い声援をあげてストレスを発散しまくった。
思えばアデルの学園での五年間は、面倒くさい構ってちゃんの婚約者と浅慮で幼稚な兄の嫌がらせのせいで相当に我慢のならないものだった。
それでもキレずに済んでいたのは、全てエミールという心の拠り所があったからだ。
ぜひともそのお礼を言わなくては――そう思ったアデルは舞台終了後、花束を持っていった。
いつだってエミールはどのファンよりもアデルを特別扱いしてくれた。
プレゼントや花束を渡すとお礼の言葉や物に、必ずアデルの美貌に対する賞賛を添え、女性としての自信を与えてくれた。
今夜も顔を出せば歓迎してくれるはず。
うきうきと楽屋に向かったアデルは、しかし、開いていた扉から楽屋の中を覗いたとたん、激しい衝撃を受ける。
「――!?」
そこに今夜の共演女優と抱き合っている愛しのエミールの姿が見えたからだ……。
おかげで帰りの馬車はお通夜ムードだった。
「大丈夫? アデル、何だったらあの女始末する?」
「いいえ、いいえ、お祖母様、それだけは止めて下さい」
翌日の卒業式、夢も希望もなくなったアデルの精神状態は最悪なものだった。
しかし幸い、列席している保護者の手前レイモンとロイドは大人しく、ごく平和のうちに式は終わった。
「はぁ……牛乳のおかわり持ってきて」
昨夜から暇さえあれば牛乳の自棄飲みをしているアデルだった。
(……ああ、エミール様……)
アデルとて長年恋い慕ってきたとはいえ、立場的にエミールとどうこうなれるとは思っていなかった。
それでも夢を壊されたショックは大きい。
特にエミールの相手が自分と正反対の、豊満な胸をした肉感的な女優だったことがアデルの失恋の傷を深めていた。
(やはり男性はああいう女性が好きなのよね……私なんて、私なんて……)
やさぐれている間に夕方になり、侍女達が衣装を持ってやってくる。
「お嬢様、さすがにもうお支度をしませんと、間に合いません」
さすがに飲み過ぎでたぷんたぷんの腹で着替えを終えると、小間使いが迎えの知らせにやってきた。
卒業ダンスパーティーは婚約者がいる者はそのエスコートを受けるのが慣例。
当然レイモンが来たのだと思って玄関へ出てみると、待っていたのはその弟のジェレミーだった。
学園の敷地内にあるダンスホールでは、先に会場入りしていたロイドが、
(今日こそアデルに吠えづらをかかせてやる)
と、不気味な笑みを浮かべてジェレミーと並んで入場したアデルを見つめていた。
昼の卒業式と違い夜の卒業ダンスパーティーは生徒だけが参加する無礼講。
ロイドは今までの恨みを込め、最後に派手に一発カマしてやるつもりだった。
レイモンにも前もって「ぜひ楽しみにして下さい」と言ってある。
ところがロイドが知らないだけで、ダンスホールの中二階の観覧席には、三人の保護者の姿があった。
一人はゆうべの出来事で孫娘を心配した王太后。
「ジェレミーは素直で優しいけど、知能はレイモン以下なのよね。
やはり議会に改正法案を提出すべきかしら……?」
王太后はここ最近の近隣諸国の流れを受け、この国でも女性の王位継承を認めるようにするか悩んでいる真っ最中だった。
もう一人の見学者は、こっそり大人になった愛娘の晴れ姿を見ようと思ったバルト公爵だった。
(はて、レイモン様ではなく、弟のジェレミー殿下がエスコートをしているのは、いったいどういうことなのだ?)
疑問の答えを求めるべく、公爵はレイモンの登場を待つ。
最後の一人は、パーティー開始ギリギリ前に母と公爵の見学の知らせを受け、すっ飛んできた王だった。
(レイモンが来たら、隙を見て二人が見学していることを知らせなければ。それまでは頼むから何もしないでくれよ!)
果たして、ついに婚約者以外を連れたレイモンがダンスホールに現れた。
いつもはいかなる場面でも平静を装えたアデルだったが今夜、この時だけは違った。
レイモンのエスコート相手を目にしたとたん、早くも泣きそうになっていた。
なぜならよりにもよってレイモンの連れのエリーザ嬢は、豊満すぎる胸を強調する蠱惑的なドレスを着ていたからだ。
学園の制服と違ってドレス姿だとそのスタイルの差は歴然。
アデルは思わず全身を硬直させ、大きく目を見開いてエリーザの胸元を注視した。
そのショックを浮かべた表情を目の当たりにした瞬間、
(やはり今まで強がっていただけで、アデルは俺の事を好きだったんだ!)
レイモンの胸にかつてない勝利の喜びが巻き起こった。
唯一事情を知っている王太后は、
(アデルの様子がおかしいのは、やはり昨夜のショックを引きずっているせいよね。
分かるわ。分かるわ。私もカイルに想い人がいると知った時、しばらく陰で泣いたものよ。
だけど、あなたが泣くのは今でも、ここでもない。この曲は私からのエールよ)
上で様子を見守りながら、従者に急ぎリクエスト曲を書いたメモを持って行かせる。
「ふん、迎えに行ってもいないと思ったら、婚約者の俺以外と来ていたとは……。
やはりアデル、お前はジェレミーと出来ていたんだな!」
愛するアデルを痛めつける喜びに打ち震えつつ、嫉妬も手伝い濡れ衣を着せるレイモンだった。
「なっ……!? 兄さんがアデルではなく、エリーゼ嬢を迎えに行くと言って出たから僕は……!?」
言い返すジェレミーの横で、なおもアデルが放心していたとき――
王太后のリクエストにより会場に流れ出したのは、愛しのエミールの初主演作にして出世作の劇中曲。
奴隷に落とされた将軍が剣闘士となり、不屈の精神で戦いを勝ち進んでいく歌劇だ。
その物語は孤児から身を立て人気俳優にまで登りつめた主演のエミールの人生と重なる。
同時に恵まれた境遇でありながら弱音を吐いていた9歳のアデルを恥じ入らせ、大きな勇気を与えてくれた舞台でもあった。
そうだ。本物のファンなら苦労人の彼が、愛する人に巡り会えたことを喜ぶべきでは?
ようやく我に返ったアデルは、
「どうやら行き違いがあったようですね。レイモン殿下。
――私はスピーチがあるので失礼します」
さっと取り繕うと、急ぎステージへと向かった。
毎年、卒業ダンスパーティーの開始の挨拶は生徒会長の勤めである。
アデルが壇上に立つのに合わせて演奏もいったん中止される。
王太后も二階でひとまずほっと胸を撫で下ろした。
しかし、アデルがお辞儀をし、スピーチを始めた直後。
このタイミングを待ちに待ったロイドの合図で、ステージの真上に仕込んであった樽に繋がる紐がその手下によって引かれる。
瞬間、天井下のブドウ棚に吊ってあった樽がひっくり返り、中に入っていた大量の豚の血がアデルにぶっかかった。
ざばぁーーーーーーっ。
と、いっせいに鮮血を頭からかぶったアデルは、一瞬のうちに頭からドレスまで真っ赤に染め上げる。
「きゃああぁっ……!?」
思わず悲鳴をあげたあと、生臭い匂いに飲み過ぎた牛乳を戻しそうになり、両手で口を押さえ、深く腰を折る。
そんなアデルの姿が激しいダメージを受けているように見えたロイドは、してやったりと小躍りして叫んだ。
「はっ、はっー、無様だな、アデル!」
アデルはかがみ込み、なんとかギリギリで吐くのを堪えた。
しかし、激しくえづいたせいで涙目になっていた。
武人としても一級のアデルだ。
いつもなら気配に気づき、血を浴びる前に避けられていた。
でも今は平常とは全く違う状態。
そう、いつもの心に余裕のあるアデルではなかった。
(……何これっ……? いくらなんでも、やっていい事と悪い事があるでしょうっ……!?)
いたずらの限度をこえた行為に、さすがの温厚なアデルも頭に血が上る。
これまでの積もりに積もったうっぷんも加え、アデルは激しい怒りをみなぎらせながら、ゆらり血の海の中立ち上がった。
初めて人前でキレそうになっていた。
「これをやったのはレイモン殿下、それともロイド?」
まずは壇上から凄んだ目つきで容疑者二名を名指しして睨みつける。
――その頃、上の観覧席では――
可愛い娘が受けた酷い仕打ちに、バルト公爵の額の血管は浮き上がり、顔色もどす黒く変色していた。
その凄まじい怒りの形相を隣の席で目撃した王は、ショックで小水を漏らしかける。
(これは犯人次第ではクーデターが起こるかもしれない)
さすがの王太后も戦慄した。
――階下に戻り――
「何の事かな~?」
ロイドはそっぽを向いて白々しくトボけていた。
「……あっ……あっ……!?」
一方、まさかロイドがアホでも、ここまですると思わなかったレイモンは、驚きにあんぐりと口を開き声にならない声を漏らしていた。
「ロイドなのね」
二人の顔を見比べたアデルは速やかに結論づける。
その時、アデル同様、爆発しそうなバルト公爵を「ここは私に任せて」と制止してから、階下へ駆け降りていく一つの影があった。
(アデル、未来の女王たるもの、いかなる場面でも取り乱してはいけないわ)
男孫に失望してほぼ改憲の意志を決めた王太后だ。
そしていよいよアデルが兄を怒鳴りつけてやろうと息を吸い込んだとき――楽団の前に立った王太后の直接の指揮により、演奏がいきなりクライマックス部分から再開される。
アデルは、はっとした。
(これは――!?)
毒を盛られて瀕死の主人公が、絶体絶命の状況でコロシアムでの戦いに挑む場面の曲!!
独白の曲で主人公は歌う。
最大の敵はいつも自分自身なのだと――
アデルは目の覚める思いだった。
(そうだ。私もいい加減、自分の甘さと向き合わなくては……!)
ここまで相手を増長させたのは、何をされてもただ流してきた自分の責任もある。
きっちりとこの落とし前はつけさせるにしても――
(私がキレるのは今でも、ここでもない)
この場で激情をぶつければ、今まで時間をかけて築き上げてきた自分のイメージを大きく損ねてしまう。
そう冷静に返ったタイミングで、壇上にすっ飛んできたジェレミーがジャケットを脱いでアデルの肩にかけてくれた。
「大丈夫ですか、お姉様!」
「ええ、大丈夫よ」
すんでで自分を取り戻したアデルは、生徒達の注目が集まる中、完璧な型の淑女の礼をした。
「それより皆さん、せっかくの記念日にお騒がせして申し訳ありません。
私のことは気にせず、どうぞ卒業パーティーをお楽しみ下さい――それでは失礼させて頂きます」
堂々と挨拶し、颯爽と壇上を去って行く。
その背筋をピンと伸ばしたアデルの後ろ姿は、豚の血を滴らせながらもどこまでも気高く美しかった。
――と、アデルがダンスホールから去った後、入れ替わるように王太后が壇上に立つ。
そして、慌てふためくレイモンとロイドに対し、閉じた扇をビシッと向けて鶴の一声を飛ばす。
「お前達二人とも廃嫡!」
「「ええっ!?」」
追加で忘れず男爵令嬢エリーザにも一声。
「お前は国外追放」
「ぎゃっ」
一方、ダンスホールを出たアデルを、一人ジェレミーだけが追いかけていく。
全速でステージに駆け上った時にシャツのボタンが外れ、鍛え抜かれた胸板が丸だしになった状態で。
「お姉様! 待って下さい」
玄関を出てすぐの広階段でようやく振り返ったアデルは、
「――!?」
そのむき出しの見事に盛り上がったジェレミーの胸筋を見たとたん閃いた。
(そうか、これだわ!)
後日、アデルが過度な筋トレにより脂肪を減らし、よけい胸を平面に近づけたことは言うまでもない。
しかし、つきっきりで筋肉トレーニング指導を受けているうちに、遅まきながらジェレミーの自分への献身的な愛に気づき、一人の男性として意識するようになる。
そうして徐々にジェレミーに惹かれ始めた矢先、エミールが抱き合っていたのは泣き出した女優を慰めていただけだと判明。誤解を解くのにあわせてエミールからアデルを崇拝する熱い気持ちを告白されてしまう。
そんな二人の男性の間で心が揺れている最中、アデルは招かれた近隣の帝国で、若き皇帝と衝撃的な出会いをし、熱烈な求婚を受けてしまうのだった。
そこに激怒したバルト公爵と王太后により婚約解消を言い渡され、廃嫡の審議にかけられているレイモンが、今更ながらの恋の悪あがきを始める。
――等々、アデルはしばらく恋の嵐に翻弄されることになるが、それはまた別のお話――
なお、王太后によって提出された女性の王位および爵位の継承権を認める改正法案は議会にて無事に可決。あわせてロイドの廃嫡が決定し、アデルが次期バルト公爵位を継ぐことが決定する。
おまけとして、文字通り裸で国外追放されたという男爵令嬢エリーザのその後を知る者は誰もいない。
<完>
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