第2章 その1
アタシは守田屋のカウンター席に腰かけて、ウィスキー・コークを飲みながら頬づえをついていた。甘く苦い、ウィスキー・コーク。
DJブースではボウリング・ハットのDJがスクーターズをスピンしている。“恋のバカンス”は言わずと知れたザ・ピーナッツのカヴァー。
“初めてあなたを見た 恋のバカンス”
今の気持ちにぴったり過ぎるところにグラスの氷がカランと音を立てたりして、お願いだからやめて。
今日は木曜日。アタシはミッションでの土曜日から、ずーっとこんな感じ。
DJレインのことが頭から離れない。
朝起きてもレイン。仕事をしてもレイン。お酒を飲んでもレイン。夢の中にまでレインが出てくる。
せめてDJの時くらいはアタシもピリッとしないと。という訳で、あの夜から初めてのイヴェント。
また氷が音を立てる。アタシは大きくため息をついた。ピリッとしないと…とは、思ってるんだけどなあ。
守やんは何も言わない。ただ黙ってお代わりを出してくれた。
「守やん。」
「んー。」
「アタシ、恋したみたい。」
守やんは自然に相手から話を切り出させる空気を持っている。それはバーのマスターとして天与の才能だと思う。
「へえー。」
守やんは微笑みながらグラスを磨いていた。興味があるともないとも違う、あえて言うなら肯定の「へえー」。その響きがアタシを安心させてくれる。
「いつもと、ちょっと違うね。」
守やんの言葉にアタシは我に返った。
「どういう意味?」
「んー。」
守やんは磨き上げたグラスを脇に置いた。
「いつものサニィならさ、だいたいこう言うんだよ。『彼氏ができた』とか、『アイツと付き合うことにした』とかね。要は事後報告なんだよね。それが『恋してる』でしょ。まだ気持ちの段階なんでしょ。これは、よっぽどだなあって。」
はい、その通りです。
アタシは今まで守やんには必ず、歴代の彼氏を紹介したり報告したりしてきたけど、こんな「恋してる」なんて感情を打ち明けたことはなかったと思う。
理由は簡単。今まで、そこまでのめり込む相手が現れなかったから。
雰囲気に流されたり、たまたま寂しかったり、何となくの妥協だったり、ほんの少しの勘違いだったり。「ま、いっか」の連続で、別れる時も常に「ま、しょうがない」だった。
一夜の関係で終わったことも何回かある。それはそれで、そんなアダルトな経験も思い返せば悪くはなかった。
それが、今はこの有り様。今どき女子中学生だって、もうちょいスマートな恋愛してるってのに。
ライヴハウスでひと目惚れ。嵐のようにいろんなことが起きて、ひと言も話せずに恋に落ちた。そして相手はそんなアタシのことを知りもしない。あーあ。
アタシはまたため息をついて、ウィスキー・コークのグラスを口に運んだ。
いてっ!後ろから誰かに後頭部をどやされた。
「サーニィ!まーだ、モヤってるんかー!」
ナミだ。彼女はアタシの隣の席にすべり込んだ。手には小さいジョッキに入った生ビール。
イヴェントも佳境。盛り上がりを見せるDJをよそに、アタシたちはひそひそ話の態勢に入った。曲はトレイシー・ウルマンの“ブレイクアウェイ”に変わっている。そういえばアタシの出番、次じゃん。
ナミがアタシをどついたのが冗談なのは分かってる。それでも、今のアタシには軽口で切り返すだけの余力もなく。
「だって。」
「しょーもねえ。重症だな~、レイン病。」
「レイン?」
守やんがなに気なく聞いた。
あーっ、ナミのお喋り!
…かと言って、守やんに聞かれたくないわけじゃない。ホントはむしろ聞いてもらいたい。
「そう。サニィね、こないだアタシと行ったライヴで、レインってDJに恋しちゃったらしいの。」
「レイン。俺が知ってるレインかな。」
「えっ?」
アタシはガバッと身を乗り出した。
「守やん、知ってる?」
「よくは知らないけど。パンクのDJだよね?」
「そう、そう。」
「何回かライヴで観たよ。確かにいいDJだよね。」
「でしょ、でしょ。」
勢い込むアタシをナミは“しょうがないなあ”という顔で見つめている。
「ふだん、どこでDJやってんのかな?」
「さあね。俺はライヴでしか見たことないから…少なくとも、この辺のイヴェントじゃ名前を見たことないよ。」
「そっか。」
アタシはガッカリして腰を下ろすと、また悶々に戻った。
レインはどこにいるんだろう。
仮に今、彼が下北沢のどこかでプレイしてるって分かったら…恐らくアタシは自分の出番を放り出して彼の元へ走っていくだろうな。
そういう意味ではある意味、分からなくて良かったのかな。いや、そういうことじゃない。ああもう、何がなんだか!
「サニィさ。」
黙っていたナミが口を開いた。
「なに。」
「何でもいいんだけど、アンタそのままずっとセミの抜け殻でいいわけじゃないんでしょ?」
「セミの…まあ。」
「頭で考えてたって話は進まないんだから。さっさと何とでもしに行きなさいよ。レインのDJに惚れたんならイヴェントにでも呼べばいいじゃん。男として惚れたんならカノジョに志願すればいいじゃん。どっちにしたって体当たりだよ。」
「アタシは…どっちなんだろう。どっちもなのかな。」
アタシはまたため息をついた。
「最初はDJがすごかったから。それから彼の真剣な顔に惹かれて。ライヴでも暴れてて、少年みたいで凄いピュアなの。それで喧嘩があったでしょ。あの時の彼、カッコ良かった。トドメ刺されちゃった。」
自分でも何を言ってるのかよく分からない。
守やんが面白そうにアタシの顔を覗き込んでいる。
「彼がどんな人なのか、分からないでこんなことになっちゃったでしょ。日が経てば経つほどさ、彼が神様とかヒーローみたいに思えてきちゃって…。」
「ああもう。分かった、分かった。」
ナミはお手上げという風に両手を広げた。
「サニィ、お願い。」
オーガナイザーが呼びに来た。こんなタイミングで、かよ。
前のDJは最後の曲を回している。ザ・ヴィーナスの“キッスは目にして”。罠、罠、罠に落ちそう。落ちそうじゃなくて落ちちゃったよ、アタシ。
「よっしゃ、じゃあやるか。」
「サニィ、ちょっと大丈夫なの?」
「だーいじょうぶ。板の上に上がっちゃえば(ステージに立てばの意)ちゃんとやるから。」
そう言ってアタシはウィスキー・コークを片手にヨタヨタとDJブースへ向かった。
前のDJとハイタッチをして交代すると、レコードに針を落としヘッドフォンで音をチェックして、DJ紹介なしMCなしの一気にカットイン!
1曲目はダムドの“ラヴ・ソング”。
カウンターでナミがずっこけるのが見えた。
ダメだ、こりゃ。