第1章 その6
あの人では、なかった。
黒い壁際にあるDJブースにいたのは長身の男じゃなくて、アタシよりやや背が高いくらいの割と小柄な男だった。
年も全然違う。あの人は見た感じ、30代か40代といったところだった。目の前のDJはアタシと同世代に見える。
ちょっとガッカリしたけど、すぐにアタシは彼のプレイに興味を惹かれ始めた。
小柄でスリムな体型。長めの黒い髪を無造作に後ろへ撫でつけ、ポリス・キャップ(海外の警官がかぶる帽子)を後ろ向きにかぶっている。首にはレザーのネックバンド。
カットオフ(袖を短く切ること)した白いTシャツはたぶんデストロイ(パンクブランド「セディショナリーズ」の有名なデザイン)だろう。下半身はブースに隠れている。
顔はよく見えなかった。照明が暗いし、DJブースの周りには有刺鉄線を巻いた黒い柵が囲ってある。客は自然とブースをのぞき込む形になる。
彼は下を向いて次の曲をセットしていた。
使っているのはターンテーブルとCDJ。アタシと一緒だ。まあ両刀使いは珍しくはないけど。
ターンテーブルの横には飲みかけのビールのカップとCDバッグが無造作に置いてある。レコードバッグは足元だろう。
手先もよく見えないけど、動きに無駄がないのは分かる。
ここで“ソニック・リデューサー”。いいセンスしてる。
と、曲の終わりでDJが綺麗にカット・インした。
ホット・アンド・クールの“FxTxW”。アタシは鳥肌が立つのを感じた。
東京近郊を中心に活動する、直線的で疾走感のある楽曲が売りのモーターライド・ロックンロールバンドの代表曲。
こっちが欲しい雰囲気の音を、まるで察したかのように出してくる。洋楽も邦楽も織り交ぜて、流れが多彩でしかも芯が通っている。音量のバランスも完ぺき。
たった2曲で、アタシは彼のプレイに釘づけになった。
周りのパンクスたちが大騒ぎしている。彼のプレイを楽しんでいる。サビのところで拳を突き上げ、一緒にシンガロングしていた。ファック・ザ・ワールド!
いつものアタシなら一緒になって大騒ぎするところだ。
でも、今はできなかった。
名前も顔も分からない彼のプレイにただ圧倒され、立ち尽くしていた。5年前のあの日のように。
「こんなDJがいたんだ。」
そこから彼は申し分のないセットで3曲、4曲と最高のナンバーを叩き込んできた。流れに隙がない。
どんどん勢いが増し、フロアが温まってくる。客も楽しんでいるし、ステージ上のバンドもテンションが上がっているのが分かる。
既にドラムやギターは音出しを始めていたけど、DJはヴォリュームを適度に保ってその邪魔をせず、でも確実に存在感を放ち続けていた。
誰かがアタシのおしりに触った。アタシは思わずヒッと声を上げた。
「なーに、やってんの。」
ナミだった。両手にビールのカップを持っている。ひざでアタシのおしりを突っついたみたい。
「いつの間にかどっか行っちゃうし。ほら、ビールがぬるくなるぞ!」
「あ、うん。ごめん。」
いつの間にか、かなりの時間が経っていた。一瞬だと思ったんだけどな。ナミからカップを受け取り、アタシはビールをごくりと飲んだ。
「サニィ、どしたの?」
「うん、ちょっとね。」
「あ、DJ?彼、いい音出すよね。」
ナミも気づいていたのか。さすが同業者。
でも彼女は彼に対して、それ以上の関心はないみたいだった。
「さっきね、トイレ待ちしてたらさ…。」
ナミが何かを話そうとした時、鋭いギターの音がフロアを切り裂いた。DJの音はフェイド・アウトし、パンクスたちが雄叫びを上げてステージに押し寄せてきた。
ニー・ストライクのライヴが始まった。
ナミは小躍りして前の方に向かった。
アタシはその場に残って様子を見ることにした。
バスドラ(ドラマーの足元にある大きいドラム)の速いビートが腹の底を揺らし始める。
と、DJブースから黒い人影が勢いよくフロアに飛び込んでいった。
さっきのDJだ。彼は素早くステージに駆け上り、サッと身をひるがえすと力強くフロアに向かってダイブ!
不意を突かれたフロアの客は彼を受け止め損ねて、何人かが崩れるように倒れた。
それでも彼のダイブが引き金になって、モッシュ・ピット(ライヴ中に客が暴れ回っている空間)は激しく動き出した。
さっきのバンドとは比べ物にならない、緊迫感のあるステージだ。
ナミの言うとおり、他のバンドとは一線を画すクォリティー。ファストでソリッドで生々しい。さっき見かけたギタリストは髪を振り乱し、一心不乱にギターを刻みながらステージの上で荒れ狂っている。
でもアタシの気持ちは完全にあのDJに向いてしまった。後ろの方で楽曲に身体を揺らしながら、ひたすら目で彼の姿を追う。
ピットの中から彼の姿が見え隠れしていた。激しいモッシュに帽子が吹っ飛ぶ。髪は肩にかからないギリギリくらいまで長め。黒のボンデージ・パンツ(意図的に拘束感・束縛感をデザインした、パンクファッション特有のパンツ)を履いて、白いコンバースのハイカットで合わせている。小柄な割に足は長い。
彼はまるで観客のように、いや観客以上に楽しんでいた。あんなに暴れていて、次の選曲は大丈夫なのかなあ。
彼が頭上高く持ち上げられた。人の波をクラウド・サーフ(持ち上げられた状態で泳ぐように暴れ回ること)する。気がつくとアタシは彼だけを観ていた。もはや楽曲は耳に入らない。
一瞬だけこっちを振り向いた彼の顔は、少年みたいに見えた。