第5章 その4
負けは負け、完敗だ。答えは揺るがなかった。
けど、さっきまでより気持ちは落ち着いていた。たくさんのものを失ったけど、それ以上に大切なものを見つけたし、少なくともレインはまだここにいる。
「分かった。」
アタシは大きく息を吐いて立ち上がった。
レインも同じように立ち上がった。
「ごめんな。」
「アタシの方こそ。勝手なこと言って…それに、蹴ったりいろいろとひどいことして、ごめん。」
「いいよ。サニィ、いっぱいいっぱいだったんだよな。助けられなくて、ごめん。こんな状態だけど、何かできること、あるかな。」
心身の疲れがピークに来ている。納得はしたけど、心には穴が開いていた。
「アタシ、今夜ホームと大事な友達をいっぺんに失くしたんだ。」
アタシはそっと告げた。レインは黙ってうなずいた。何となく、何があったか理解してくれたみたい。
「また立ち上がるまでに、ちょっと休まないと。」
「そうだな。」
「今夜、ここにいてもいい?」
「いいよ。」
レインは優しく了解してくれた。あんなことがあったのに。そこにまた甘えるのは正直どうかと思ったが、アタシは思い切って寄りかかった。
「レイン、一緒に寝てくれない?」
「…えっ?」
「何もしなくていい。隣にいるだけでいいんだ、それだけで。お願い。」
レインは一瞬身をこわばらせ、口を開いて何かを言おうとしたが、やがて肩の力を抜いた。
「いいよ。」
アタシたちは同じベッドで寝た。そっと手を伸ばすと、レインはアタシの手を握ってくれた。
アタシはその感触と彼の匂いに包まれながら眠りに落ちた。
レインの動き回る気配でアタシは目覚めた。
キッチンにいる彼はボンヤリとした黒いシミにしか見えない。アタシはもぞもぞと動き出し、メガネをかけた。
「起こしちゃった?」
「ううん。大丈夫、よく寝たから。」
昨日はいろんなことがいっぺんに起きたけど、アタシたちが寝た時間はそう遅くなかったはずだ。気分はやっぱり低調だったけど、身体だけはスッキリしていた。
「レイン、ちゃんと眠れた?」
「まあまあだね。」
コーヒーのいい香りがする。彼は朝食を用意してくれていた。
「いま、何時?」
「10時。」
アタシの休日としては早い時間。
そう思ってから、ハッと気づいた。
「ごめん、レイン今日は仕事でしょ?大丈夫なの?」
「午後から行くから大丈夫だよ。」
アタシはホッとしてまたベッドに倒れ込んだ。彼が元から午後出勤だったのか、休みを取ってくれたのかは分からないけど。とりあえず慌てなくても良さそうだ。
「洗面所、借りるね。」
「どうぞ。」
目の腫れはだいぶ引いていた。顔もまあまあ見られる。
二人寝ってのは意外と疲れるものだけど、一緒のベッドで過ごした昨夜、少なくともアタシは安心して熟睡できた。
レインは眠れたのかな。悪いことしちゃったな。
顔を洗ってコンタクトを付け、アタシはバスルームから出た。
テーブルには朝食が並んでいる。
トースト、サラダ、目玉焼き、コーヒー。変わったものはないけど、手慣れた雰囲気。料理好きってホントなんだな。
「あっ。」
白い磁器の平皿に並べられていたのは、鶏ハム。
「ちょうどこの前、作ったんだ。サニィのには負けるけど。」
「すごく美味しそうだよ。」
ちょうどコーヒーが沸いた。アタシとレインは席についた。
「レインは普段も朝ご飯、作るの?」
「いや、仕事の日はコンビニのおにぎりが多いね。休みの日はあんまり食べないし。」
「じゃあ、わざわざ用意してくれたんだ。ごめんね、疲れてるのに。」
「いやいや、サニィに鶏ハム食べさせたくて。それに飯は一緒に食べた方が美味いから。」
「ありがとう。ごめん。」
鶏ハムをひと切れ、フォークで刺して口に運んだ。
アタシが作るのより色がピンクがかって綺麗だ。使ってる香辛料もちょっと違うみたい。
「美味しい。」
お世辞じゃなく、アタシが作ったのよりずっと美味しい。しっとりしてるし、旨味も強い。
「今朝は食欲なんか出ないと思ったけど…美味しいものは美味しいね。」
アタシはそう言って力なく笑った。レインは申し訳なさそうに聞いてきた。
「大丈夫?…じゃ、ないよな。」
アタシはトーストをひと口かじった。
「アタシのハートが壊れちゃった。」
「ごめんな。」
アタシはかぶりを振った。
「ううん。レインのせいじゃない。」
そう。アタシが傷ついたのは、全部アタシのせいだ。
レインはそんなアタシの気持ちを知ってか知らずか、意を決したみたいに投げかけてきた。
「あのさ、サニィ。」
「なに?」
「ライヴDJのことなんだけどさ。もし、もうやりたくないなら…降りてもいいよ。俺、一人で回すから。」
友を失くし、ホームを失くし、そして自分が突っぱねたアタシと、わずか2週間後にDJで共演する。アタシが精神的に限界じゃないか、無理じゃないかと考えるのは当然だ。レインはまた気を遣ってくれた。
レインはBGMにカヒミ・カリィをチョイスしていた。楽しい歌でも哀しい歌でも今朝には似合わない。ある意味、絶妙な選択。さすがとしか言えない。
彼の申し出にアタシは即答した。
「いや、やるよ。それは、絶対にやる。」
そう、アタシはようやく理解した。
感情に振り回されて、大切なものを失って、全てを自分で壊しかけて、それでやっと目が覚めたんだ。
今まで、アタシは本当に“ずるい女”だった。
アタシが時折レインに対して感じていた「アタシたちは根本的に合わないのかも」という意識。
それは、合うとか合わないとかいうことじゃない。
思えば、アタシが彼に対して「うまくいかないなあ」と感じていたことは、全て小細工なり駆け引きなりを使って、アタシが「こうありたい」という展開に強引に持ち込もうとした結果だった。
女の子であることを利用したり、色仕掛けで迫ったときもレインは動じなかった。というより、そんな上辺のことを彼は見ていなかった。
逆にアタシが心からの思いで真っすぐにぶつかった時、彼は必ずそれに答えてくれた。
レインはアタシに対して常に誠実でいてくれた。彼がそうしてくれたように、アタシも彼に対して常に誠実であるべきだった。そんなことも、アタシは分かってなかった。
でも、彼はアタシに言ってくれた。「サニィは優しく思いやりがあって、真っすぐだ」と。
今までのアタシなら、それをレインの優しさゆえのお世辞だと捉えていただろうな。
でも、違うんだ。レインは本気でそう思ってくれている。今は、それが分かる。彼はアタシの奥底にある、本当のアタシを見抜いてくれてるんだ。
だから、それに応えなきゃ。
DJとしてもそう。女としてもそう。人としてもそう。
常に誠実な自分で、レインの気持ちに応えなきゃ。
そして昨夜、傷ついたアタシをレインが癒してくれたように、今度は傷ついたレインの心をアタシが癒すんだ。
その先に、二人が同じ道に進む交差点が待ってると思うから。
そう。アタシ、諦めてない。
「分かった。やろう。」
レインはそれ以上、何も言わなかった。彼もアタシの口調に何かの変化を感じたのかも。
「コーヒー、もう一杯飲む?」
「アタシがやるよ。レイン、座ってて。」
「ありがとう。」
それに。
コーヒーをレインのカップに注ぎながら、アタシは少しだけ前向きな気持ちで微笑んだ。
女の観察眼って鋭いんだ。アタシには分かってる。
レインがさっきから、時おりアタシのことをチラッと見ては目をそらしていること。そのたびに、彼の色白の顔がうっすら赤く染まっていること。
アタシはスウェットの下に何も身に着けていない。おまけに小柄とはいえ、レインのスウェットはアタシには大きすぎる。どうしても首回りが余って、常に片方の肩が「フラッシュ・ダンス」の女優さんみたいに見えてしまう。
裸よりも“見えそうで見えない”のを想像する方が、男の人にはエロティックに感じるというけど。レインもアタシのことを、女として見てないわけじゃないんだな。それとも昨日のことがあって、意識してるのかな。
さっきまで気づく余裕もなかったけど、少し自分を取り戻してきた。アタシの名前は「サニィ」。太陽は沈んでもまた昇る。
だけど、それを駆け引きに使うようなことはもう絶対にしない。コーヒーを飲みながら、アタシは自分に誓った。
レインに誇れるような自分になる。絶対に、なるんだ。




