第5章 その3
レインは両手をテーブルの上に置いていた。その手はギュッと握りしめられていた。
「ごめん、嫌な話を聞かせちゃって。サニィには関係ないことだったのに。」
「ううん。ちゃんと話してくれて…何て言っていいのか、言葉が見つからないけど、アタシ…。」
アタシはそっと手を伸ばし、レインの両手に触れた。
それが、今の時点でアタシたちの精いっぱいの距離。
「…辛いよね。」
「忘れてる時もあるけど。でも、不意に思い出すんだ。」
アタシと同じく、レインにはDJしかない。気持ちを紛らわすためにはスピンに没頭するしかないけど、スピンをするたび彼女を思い出す。
哀しいジレンマ。
「レインのせいじゃないんだよ。」
「俺が彼女ともっと上手にやれてたら。もっと早く、やり直そうって言えてたら。彼女、死なずに済んだかもしれない。そう思うとさ…。」
「そんなこと考えても仕方ないよ。運命なんて誰にも決められないんだから。」
「分かってる。分かってるんだけど。」
答えが出ない後悔の渦を、彼はずっとずっと抱えながら過ごしてきたんだろう。もう涙も枯れてしまった。
それでも、彼女の命は戻ってこない。
「今夜、何があったかは知らないけど。サニイ、辛いことがあったんだね。俺、受け止めてあげられなかった。」
そう言われて初めて思い出した。アタシの心の傷なんか、彼の苦しみを前にしたら何でもない。
生きてればまた始まる日もある。
けど、死んじゃったらそれもできないもん。
「正直さ。ミッションでサニィが泣きながら『家に来たい』って言った時、俺も“それもいいかな”って思ったよ。さっきもね…“流されてもいいかな”って。」
レインは両方の手のひらを上に向けた。アタシはその手を握った。レインも握り返してきた。
優しく、優しく。壊れないように。
「アタシと奥さん、似てる?」
「いや、全然。」
思わず聞いちゃったけど、無神経な問いだったな。それでもレインはフッと鼻で笑った。この部屋に来て初めての笑み。
寂しい笑いだけど、ないよりマシだ。
「彼女は気が強くて自己中心的で、早く言えばお嬢様だった。サニィは泣き虫だけど優しくて思いやりがあって、真っすぐだもんな。正反対だよ。」
「そんなことない。アタシ、ずるい女だよ。」
アタシは反論した。それは本心だった。
レインはアタシの言葉を流しつつ話を続けた。
「そのまま受け止めちゃえば、俺もサニィも楽だったかもしれないよな。でもさ。」
そう言って、レインはアタシの手をそっと離した。
「それって愛とか恋じゃない。ホントにただの、一時的な気持ちの揺れだから。いっときの感情で抱いていいほど、サニィは軽い存在じゃない。」
その言葉は、ナイフのようにアタシの心に突き刺さった。
確かにアタシはずっとレインが好きだった。
でも、さっきのアタシは明らかに、“いっときの感情”だけでレインに抱かれようとしていた。
それまで積み上げてきたものを無視して、大事なものを失ったショックを勢いに変えただけ。
それで、もう一つの大事なものまで失くしかけた。
「サニィはDJとしても人間としても素晴らしいよ。俺にとって大事な仲間で、大切な存在だ。でも、恋愛とかそういう目で見たことはなかった。」
言葉のナイフはアタシをえぐり続ける。でも、聞かなきゃだめだ。彼は本心を話してるし、アタシはそれを受け止めなきゃ。
「俺の好きな漫画に、こういうセリフがあるんだ。」
レインはひとり言みたいにつぶやいた。
「大事なものを失った傷口に上手にもぐり込めば、血は止まったような気がする。でも傷が治ってくると、そこに挟まってるモノがやけに気になる。いつか、それでシラケるんだ。そういうの、俺はイヤだ。」
ナイフはアタシの心を完全に切り裂いた。
確かに傷ついたけど、そこからドロドロした毒がアタシの中から流れ去っていくのが分かった。
いっときの感情から傷口にもぐり込んで、時間が経って気がついて、シラケる。
それって、今までのアタシの恋愛そのものだった。
“そんなものさ”と、いつか理想の相手が目の前に現れるのを待っていたけど。レインに運命を感じながら、アタシは同じ過ちを繰り返すところだった。
彼は、自らの結婚・離婚を通じてそれを学んだんだ。だから、今夜の”ま、いいか“を彼は回避した。
アタシとレインが、お互いに「都合の良い存在」にならないために。




