第5章 その2
「…何から話せばいいかな。」
レインがポツリポツリと話し始めた。
アタシは横を向いたまま。
「さっきは、ごめんな。」
そういうの、もういいから。
「少し前から、何となくそんな気はしてたんだ。」
気づいてたんなら誤解させないでよ。
「もちろん、サニィのこと嫌いじゃないけどさ。けど…。」
けど、か。
その先は言わなくても分かる。
親友。盟友。マブダチ。ソウルメイト。
言葉は違っても意味するところは同じ。
恋する相手ではないってことだ。
レインはまたしばらく黙っていた。沈黙が重たい。こんな時、音楽があればいいのにな。
「俺の、別れた奥さんのことなんだけどさ。」
その話か。結局、そこに行きつくわけか。未練があるって話に。
じゃあなんであの時「気持ちが離れたから離婚した」なんて言ったのよ。
「彼女…DJだったんだ。」
あっ。そうなんだ。
驚いたけど、全く予想してなかったわけじゃない。
レインの「同業者とは付き合わない」という言葉を考えれば十分にあり得たことだし。
話の流れがアタシの予想してたのとは少しだけ違う方向に転がっていったけど。結論は結局、同じことなんだろうな。
「ロックじゃなくてハウス系のDJだった。大学の同級生で、音楽サークルで知り合ったんだ。」
レインは昔話を語り始めた。
「その頃の俺はバンドをやってた。彼女とはジャンルが違ったけど、不思議と噛み合って。すぐに友達になって、そのうち自然に付き合うようになったんだ。」
“そんな話、アタシにとっては残酷なだけだよ”
喉まで出かかったそんな言葉を、アタシは飲み込んだ。レインは何かを伝えようとしている。
「彼女の家にミキサーがあって、遊びで触ってるうちにDJがバンドより俺には合ってるんじゃないかって思った。ちょうど、いろいろとうまくいかなくてさ。で、ロックとかパンクにもDJがいるのを知った。」
「…。」
「それで俺はDJに転向した。楽器を売って機材を揃えて、ライヴハウスを直談判して回ってさ。“どうしたら、DJで使ってくれますか”って。それで、一つ一つ自分でポジションを作っていった。」
「…。」
「彼女は俺がDJになったことに対して何も言わなかったし、俺も彼女が出てるクラブに遊びに行くことはあっても『出演させてくれ』とは言わなかった。あくまで俺たちはただの彼氏・彼女だった。」
レインは言葉を切ってタバコに火をつけた。“吸ってもいいか”とアタシに断らないのは珍しい。
それだけ彼も気持ちに余裕がないってことか。
アタシは何も言わなかった。悔しいけど、彼の話にちょっと興味をそそられていた。
「大学を卒業するちょっと前、彼女が俺に言ってきた。彼女の実家は古い家柄で、卒業したら帰郷して花嫁修業をしなきゃいけないって。こっちで結婚すれば、こっちに住んでいられるって。」
「…。」
「俺はすぐ彼女に結婚を申し込んだよ。俺は片親だし、早く身を固めてお袋を安心させてやりたかった。家族団らんとか、暖かい家庭に憧れてたのもあったしな。何より、その時に彼女の願いを聞いてやれるのは俺しかいなかった。」
レインらしい話だ。誠実で純粋で、どこまでもお人好し。
そしてアタシにはレインの元奥さんの気持ちもよく分かった。好き嫌いは別にして、自分の望む方向に事を進めるために、計算高く彼の優しさを最大限に利用した。
アタシ自身、何度もそうやって彼に甘えてきたから。
「結婚式を挙げて、彼女の行きつけだったクラブで二次会をした。その時、俺は初めてクラブでDJをしたんだけど…そこで彼女に言われたんだ。テクニックも無いのにレコード流してるだけだって。ピッチのズレも分かってない、ミックスも全然できてないって。」
レインは妙に抑揚のない口調になっていた。感情を込めず、事実だけを伝えたいという感じ。
「彼女、ひどく酔ってた。俺は酒のせいだと思って、その場は丸く収めて家に帰った。俺の友達は引いてたけど、彼女の仲間のDJには笑ってるやつもいたよ。」
「…。」
「次の朝になったら、彼女は何も覚えてなかった。俺も何も言わなかったよ。これから楽しく生きていけば、それでいいと思ってた。」
レインはそこで言葉を切った。
「でも、間違いだった。」
彼は立ち上がり、冷蔵庫から新しい缶ビールと、アタシにもビールと水のボトルを出してきた。
「少し経ってからまた二人でクラブに行って、また同じことが繰り返されたよ。俺はもう二度と彼女の出るクラブイヴェントには顔を出さなかった。」
ビールは遠慮して水のボトルを取った。アタシまで緊張して喉がカラカラだ。
「彼女は議論が好きだった。気の強いところが、付き合ってる時は魅力的だと思ってたよ。でも一つ屋根の下で暮らすようになってからは、それは苦痛以外の何ものでもなかった。ただワガママで自分勝手なだけに感じたんだ。」
レインが誰かのことを少しでも悪く言うのは珍しい。アタシが頭にきた話や嫌いなDJの話をしても、常に笑って受け流していたレインが。
「DJのことはそれからも火種になって、それがだんだんと生活全体に広がった。俺が何かするたびに彼女は不機嫌になって、俺はどうやったら彼女が笑って過ごしてくれるか、そればっかり考えてたよ。みんな俺が悪いんだって思って。」
「…。」
「俺は彼女の機嫌を取ろうとばかり考えて、かえって失敗を繰り返して…とうとう最後に降参した。このままじゃ二人ともおかしくなるからって、俺から離婚を切り出したけど彼女は嫌がったよ。意外だった。」
アタシには分かる。彼女はそれでもレインを愛していたんだ。
アタシとはやり方が違うだけで、彼女なりに必死に彼をつなぎ止めようともがいていたんだ。
「仕方なく俺は、彼女の両親と俺の母親に全てを話したよ。彼女は怒り狂ったけど、結局は親同士が話し合って離婚することになった。それが1年ちょっと前のこと。」
レインもまた彼女を愛していたはずだから。
苦しくて悲しくて、やり切れなかったんだろうな。
たった1年。気持ちの整理なんて、まだついてないよね。
そうか。やっぱり忘れられないのか。
「この部屋、彼女と一緒に住んでた部屋なんだ。」
そう言ってレインは、ガランとした広い部屋を見渡した。
だと思った。ここは、夢の跡地なんだ。
「彼女が出て行ってから俺は思ったよ。“どうしてこうなっちゃったんだろう”って。長渕の“愛してるのに”って曲、知ってるかな…。」
“出会った頃の二人に 今すぐ戻れるならば きっとうまく行けるさ こんなに愛してるのに…”
「なら、やり直せばいいじゃない。」
アタシは思わず声を上げた。レインの苦しみも分かったし、アタシも苦しかった。こんな話、もう聞きたくない。
レインが幸せになれるなら、もうアタシはいいんだ。
「今でも好きなんでしょ?愛してるんでしょ?なら、歩み寄ればいいじゃない。今のレインなら、絶対に彼女と幸せになれるよ。」
「もう、できないんだ。」
レインはぼそりと言った。
「死んじゃったから。」
その言葉の意味を噛みしめるのに、少し時間がかかった。
アタシは絶句した。
まさか…。
レインは無表情だった。あらゆる感情を通り越したあとの虚無感が顔に表れている。
「離婚が決まって、彼女は実家から見ると“恥”ってことになったみたい。東京から離れられずに、それからもクラブに入り浸ってた。ある夜、酔っ払って車道に飛び出して…即死だったって。」
「…いつだったの?」
「半年…9か月前か。下北の、茶沢通りで。」
それでアタシも思い出した。
DJの女の子が下北沢で車に跳ねられて亡くなった。
覚えてる。アタシはその日たまたま守田屋にいなかったけど、もう大騒ぎだったらしくて数日はその話題で騒然としていた。
守田屋からそう遠くない場所だったはずだ。
「確か…。」
余計なことを言わないように、アタシは言葉を飲み込んだ。
確か、自殺じゃなかったはずだ。周りの話では、ふざけて踊りながら車道に出たところへたまたま乗用車が…。
レインにとっては、せめてもの救い。それでも。
思い起こせば、レインは決して茶沢通りに出ようとしなかった。下北ではいつでも裏道を通っていた。
レインはクラブに出たくない。“あそこは俺の居場所じゃなかった”。
“気持ちが離れたから離婚したけど、前後にいろいろありすぎた”という言葉の意味。
レインは同業者…DJとは付き合わない。
全てが一本の線で繋がった気がした。




