第1章 その3
5年前まで、アタシはどこにでもいるロック好きの女の子だった。
夏と言わず冬と言わず、音楽フェスに友達と連れ立っては大騒ぎし、ライヴを楽しんではお酒を飲むのが大好き。ロック好きはアタシの世代では少数派かもしれないけど、それでも特に珍しい存在ではなかった。
全てが変わったのは、フェスに出ていた若手バンドを目当てに行った南青山のライヴハウス。といってもファンだったのは友達で、アタシは誘われてオマケで行ったんだけど。
バンドの転換(前のバンドが終わって次のバンドが演奏を始める準備をする時間)が始まった時、一段高くなったDJブース(DJプレイをするスペースの総称)から、デッド・ボーイズの“ソニック・リデューサー”が大音量で流れ始めた。デビューからたった1年で解散してしまった、アメリカ初期パンクの代表的なバンド。スピーディでスリリングな曲調が空間を切り裂いていく。
何気なくブースを見ると、そこにはノリノリでジャンプを決めまくる、長身にテンガロン・ハットの男がいた。それがその日のDJだった。
“DJが空を飛んでいる!”アタシはぶっ飛ばされた。周りのこともお構いなく、そのDJはブースで跳び続けていた。アタシはその姿をいつまでも観ていた。
バンドのことは記憶にない。正直、“ソニック・リデューサー”以降の選曲も覚えていない。でも、あのDJの姿だけは今でも鮮明に覚えてる。あれ以来、一度も見かけたことがなくて誰だかも知らないんだけど。
その時、アタシは初めてDJという存在を意識した。
DJブースに、あの場所に立ってみたいと思った。
あんなことをしてみたいと思った。
でも、実際どうすれば“ライヴハウスでDJする人”になれるんだろう?
当時のアタシには全く分からなかったけど、とりあえず前からCDやレコードだけはいっぱい持っていた。
ダウンロード全盛の時代だけど、アタシは形あるものが好き。中古CD屋に行けば、大抵の音源は安価で手に入る。レアなものは専門の中古屋をチェックするか、ネットオークションに張りつけばいい。
宝物を探し出すみたいに一枚一枚、コツコツと集め続けていた音源。ただでさえ狭い部屋をさらに圧迫していく音源。
“無意味かなー”と思いながら貯めていたアタシの宝物が、思いがけず出番を得て震えていた。
そんなとき、アタシは「守田屋」に出会った。
この店に巡り合ったのは、まったくの偶然だった。
その日、アタシは友達と…いや、ホントは当時の彼氏と下北沢にある行きつけのお好み焼き屋で飲んでいた。まだ飲み足りなくて二人でフラフラ歩いている時に、横道に入り込んでたまたま発見したのがここだった。
一軒家のようなビルのような、妙な造りの建物。コンクリートの殺風景な壁に重そうなドアがついて、手書きの看板に「守田屋」と書いてある。ドアのすぐわきに大きなイーゼルが立て掛けてあって、「営業中」とだけ書かれていた。
カフェにしてもバーにしても変な名前。彼氏はしり込みしてたけど、アタシは何だか面白そうな気がして入ってみた。
店内は照明が暗く、レンガ調の壁一面にべたべたと貼り付けられたポスターやフライヤー。
バー・カウンターには高いスツールのイス。
居心地が良さそうなボックス席。
そして、店の一番奥には…。
DJブース。
アタシは“ブースに誘われたんだ”と感じた。
守田屋はDJができるロックバー。
お店のブッキングやDJの持ち込み企画でDJイヴェントを開催して、チャージとドリンク代で売り上げをまかなっている。
表のイーゼルはその日のイヴェントを告知するためのものだった。
イヴェントがない日は、普通のロックバーとして営業する。
アタシたちが入ったその日はイヴェントがなかった。
アタシと彼氏はボックス席に腰を落ち着けた。紫色のソファーが妙に馴染む。BGMには適量な音で90年代のUKロックがかかっていた。スピーカーも良いものを使っているみたいで、音がとてもクリアだ。アタシは密かに興奮しながらDJブースを眺めていた。
店内の奥、一段高くなった場所に黒い布がかかった台があって、その上にターンテーブル、CDJとミキサーが置いてある。ネットで調べたから機材の名称くらいは分かっていた。
ブースのすぐ後ろは壁で「守田屋 ロックンロール SINCE20XX」と書かれたバックドロップ(布製の大きな垂れ幕、バンド名や店名を掲げるのが通常)が飾ってあり、アタシにはそれが凄く神聖なものに見えた。
店員がアタシたちの飲み物を運んできた。人懐っこい顔、太めの体型、タータンチェックの上下に細いネクタイを締め、ポークパイ・ハットをかぶった、おおよそ店員らしくない姿。
後で分かったことだけど、それが守田屋のオーナー・守やんだった。
彼氏はどうでもいいことをペラペラ喋っていた。アタシは適当に相槌を打ちながら、お酒を素早く飲み干した。
飲んでいるんだけど、酔いは完全に覚めていた。とにかく店員と話すきっかけが欲しい。
アタシはお代わりを頼んだ。そして2杯目が運ばれてくると、いかにもさりげなく(を、精いっぱい装って)店員…守やんに話しかけた。
「すいません。あのDJブースって、どうしたら使えますか?」
守やんの答えは意外だった。
「通常のバー営業中なら、ドリンクさえ注文してもらえれば自由に使っていいですよ。」
店がオープンして間もないのでイヴェントの数も少なく、練習でも何でもDJが入ってくれれば宣伝にもなるし、ありがたいらしい。
「それが可愛い女の子のDJならますます良いしね。」
守やんは笑いながらそう言った。人好きのする笑顔で、まだDJでも何でもないくせにアタシは妙に嬉しくなった。
「ブース、見せてもらっていいですか?」
「もちろん、どうぞ。」
アタシは守やんについてDJブースに上がった。守やんがブースの真上にあるスポットライトみたいな照明をつけてくれて、アタシはブースからフロアを見下ろす形になった。
ドキドキしていた。まだ何もしていないのに、自分がDJになった気がして感情が沸き立つ。
アタシはそっとDJ機材を撫でた。ターンテーブルを回し、ミキサーを自信なさげに確かめる。
なに気なくヴォリュームのスイッチを上げたらUKロックが大音量になり、慌てて元の位置に戻した。CDJを使ってBGMを流していたのか。
“やだ、バカみたい”
アタシはちょっと素に戻った。夢から覚めたような気分。
守やんは笑わなかった。代わりにこう聞いてきた。
「どんな感じの、回すんですか?」
予期してた質問だけど、聞かれたくなかったなあ。アタシはじゃっかん挙動不審に生返事をした。
“素人だと見抜かれたかな”
でも守やんはバカにするような素振りを一切見せなかった。
ボックス席に戻ると、彼氏が退屈そうに待っていた。
帰りがけにお店のフライヤーをもらった。翌日もイヴェントは入っていないみたい。
行くしかないよね。
アタシはレコードとCDを抱えて、次の夜も守田屋に顔を出した。今度は一人だった。
「あれっ、どうも。」
そっと扉を開けると、守やんは昨日と同じ態度で接してくれた。アタシは意味もなく、逃げ出したい気分に襲われた。
「覚えてます?」
「うん、昨日の。」
「ブース、使わせてもらっていいですか?」
「どうぞ、どうぞ。」
開店直後で、他のお客さんはまだいなかった。ま、アタシもそれを狙って行ったんだけど。
ブースの横にレコードバッグを置きながら、アタシは意を決して守やんに告げた。
「初心者なんです。まだ一度もやったこと…。」
「分からないことがあれば教えるから。自由に使っていいよ。」
守やんの口調が気楽なものに変わった。その響きにアタシは大いに救われた。
深々と息を吸って、アタシは最初に回す一枚を選び始めた。
それからアタシと守田屋は共に育ってきた。
守田屋はすぐに週末・平日問わずイヴェントで埋まる人気店になった。今じゃバーとしての通常営業はほとんどないくらいで、その分アタシみたいに素人のDJ志望者が飛び込みで来るにはハードルが高い店になっちゃったけど。
守やんの話では、この場所は前もDJができる有名なバーだったんだって。地代の高い下北沢で長年営業を続けるのは大変なことなんだな。
守やんはアタシに(下心とかじゃなく)ホントに良くしてくれた。
彼には素敵な奥さんと2人の可愛い子供がいて、年もアタシよりひと回り上。アタシにとって守やんはお兄ちゃんみたいな存在。困ったとき、何でも相談に乗ってくれる。
初めてブースに立ってから来る日も来る日も店に来てはDJの練習を続けるアタシを見て、守やんは早い段階で(守田屋での)DJイヴェントにアタシをブッキングしてくれた。
守やんいわく“本番は練習の100回分以上の経験”だって。内容は思い出したくないくらい散々だったけど、ともかくアタシはDJとしてデビューした。
守田屋のイヴェントに出続けるうちに少しずつ自分でも納得できるプレイができるようになり、少しずつ周りからも評価され、共演したDJからお誘いをもらい、ゲストDJからレギュラーDJになり、やがて他の店でも回すようになり…と、アタシは順調にDJ界隈の波に乗った。
そうそう、「サニィ」という名前を付けてくれたのも守やん。それはアタシが太陽みたいに輝いてるから…なんてそんな大そうなものではなくて、名前をもじっただけなんだけどね。
でも、アタシらしくてとっても気に入っている。
DJを始めて一年後には、ささやかながら守田屋で自分のイヴェントも打たせてもらった。その夜にたまたま遊びに来ていたのが、現在の心の友!DJナミだ。アタシたちはすぐに打ち解け、何でも話せる友だちになった。
その代わり例の彼氏とは、その後なあなあで破局した。アタシが恋愛よりDJに夢中になっちゃったから仕方ない。その程度の相手だった…と言えば失礼か。アタシが悪いんだ。でも男と女なんて、そんなもんだよね。
それ以来、彼氏はいたり、いなかったり。アタシを通り過ぎていった男たちに、運命を感じるような人はいなかった。
DJとも何回か付き合ったけど、答えは同じ。学んだことがあるとすれば、DJとして魅力のない男は彼氏としても魅力的じゃなかった。たぶん女もそうなんだろう。そういうアタシはどうなんだろうか?
そういえば、音楽フェスに行くこともいつしか減っていった。付き合う友達もDJばかりになった。
アタシは一線を越えた。観る側から演る側へ。なんとなく、自分が普通のロックファンではなくなったことに気づいた。