第4章 その6
茶沢通りでタクシーを拾った。
どこに行こうか考えるより早く、「高円寺までお願いします」と自然に言葉が出た。
滑るように走り出したタクシーの中で、アタシは鼻を押さえながら必死に嗚咽をこらえた。
アタシがDJパルスに言い放った言葉。
“お前にここで回す資格なんかない”
それはアタシのことだった。
5周年をぶち壊したのは、DJパルスじゃない。
アタシだ。
大事な大事な5周年。守やんが守ってきた守田屋の記念のイヴェント。
アタシがちょっとガマンすれば、それで済む話だったのに。
例えパルスがバカヤローでも、放っておけば良かったのに。
わざわざ余計なことを聞く必要もなかったのに。
カッコつけてタンカ切って、あの瞬間まで自分が正しいと思い込んで。
全部、アタシのせいだ。
ここまでアタシを一人前のDJとして育ててくれた守やん。その顔に泥を塗るようなマネをしてしまった。
もう、守田屋には二度と行けない。
DJパルスは、決してアタシを許さないだろう。
大物DJを敵に回す。それは守田屋にとって大きなマイナスになる。今ならアタシが身を引けば何とかなるかもしれない。
それに、店の中で他のDJに喧嘩を売るような女が今後も大きな顔をして出入りしてたら、守田屋の信用に関わる。
お店のため。守やんのため。今後のため。
もう、これ以上の迷惑はかけられない。
アタシはあそこに行かない方がいい。
そう思ったら頭の中をぐるぐるといろんな思いが駆け巡り、また泣けてきてしまった。
初めて守田屋に来た、あの日。
初めてターンテーブルに針を落としたあの日。
初めてDJデビューしたあの日。
初めてナミと出会ったあの日。
初めてレインが来てくれたあの日。
その日の選曲とともに思い出は鮮明で、それが余計にアタシの気持ちをえぐり続けた。
運転手が何も言わないことに感謝しながら、アタシは声を漏らして泣き続けた。
さっきからスマホが鳴っているのは、ナミからだろう。着信はひっきりなしに続いたけど、とても出られなかった。
ナミ。
アタシの親友。心の友。
アタシとナミ、守田屋の二枚看板DJ。ううん、今は一人だけになってしまった。
守やんに会わないでナミにだけ会うことなんて、アタシにはできない。
ナミにも、もう会えないんだな。
アタシはスマホの電源を切った。
突然、お兄ちゃんと心の友、そして我が家を失った。
ぜんぶ、アタシのせいだ。
一人ぼっちになったアタシが帰るところは、もう一つしかなかった。
タクシーが高円寺ミッションの前に停まった。お金を払ったことも覚えていなかった。
もう客電が付いている。受付には誰もいなかった。ライヴ、終わっちゃったのかな。
ドアを開けると、流れていたのは…永ちゃんの“親友”。
“次の汽車で 出てゆくのさこの街を 言っておくれ アイツによろしくと…”
レインがクローズを回していた。
アタシの気持ちを読んでいたような歌詞が頭の中を駆け巡り、レインの姿が心を満たす。
彼に向かって駆け寄った。走りながらまた涙があふれてきた。
レインはアタシを見て反射的に笑顔を見せ、そしてすぐに気づいた。ここにサニィが来るはずがない、と。
アタシは真っすぐにレインの胸に飛び込んだ。
レインの胸に顔をうずめ、背中に両手を回し、再び大きな声で泣いた。アタシは家に帰ってきた。
レインは何も言わなかった。両腕がアタシの背中に回される。彼はアタシを抱きしめてくれた。
そうやって、アタシたちは抱き合っていた。
あっ、曲が終わりそう。
こんな時でも、やっぱりアタシはDJだ。レインの邪魔をしちゃいけない。
レインはアタシを抱いたまま、片手を伸ばして素早くCDを入れ替えた。決めていた次の曲を変更するつもりらしい。もう片方の腕はアタシの背中を撫でてくれている。
次の曲がゆっくりとフェイドインしてきた。
ロージー・アンド・ザ・オリジナルズの“エンジェル・ベイビイ”。60年代にちょっとだけヒットしたポップ・グループのバラードナンバー。
レインと話していて、偶然アタシも彼も大好きだった曲。
あんまり上手じゃないギターとあんまり上手じゃないヴォーカルが、かえって切なさを助長している。
“アタシが求めるものがたとえ手に届かなくても アタシはそれに全てを捧げるわ”
アタシたちは抱き合いながら、曲に合わせてかすかに身体を揺らしていた。まるでチークタイムみたいに。
「アタシ、今夜は帰りたくない。」
アタシは小さな声でつぶやいた。
レインはブースを片づけていた。今夜はハコ打ちじゃないみたいで、フロアにはもう誰もいない。
アタシたちが抱き合っていたのは、ほんの2曲。レインの腕の中で少しずつ落ち着きを取り戻したアタシは、ブース前を通りかかるパンクスたちの視線が気になって、彼からそっと身を離した。
パンクスたちの多くは、こっちをチラリと見るか気にせず通り過ぎた。誰も何も話しかけてこなかった。
はみ出し者たちは、人の感情がどういうものかよく分かっているから。みんな、見た目よりずっと繊細で優しい。
レインは何も聞かないし、何も言わない。ただアタシを気遣ってくれていた。
今ごろ、守田屋はどうなっているんだろう。
それを考えるとまた涙が出そうになる。
もう、あの場所には戻れない。忘れるんだ、忘れなきゃ。
「どっかで、飲もうか。付き合うよ。」
レインの言葉がアタシを包む。いつも通り、優しく。
アタシはかぶりを振った。
憔悴しきっていた。身体中がだるくて重い。心の中は空っぽ。
欲しいのはいつも通りの優しさじゃなくて。
もっと深くて熱い気持ち。
アタシはひどく傷ついた。自分のせいで。
この傷を癒せるのは、もう愛しかない。
愛されたい。
「今夜、レインのとこに泊めて。」
そんな言葉が口をついて出た。
今夜そんなことを言うなんて、自分でも思ってもみなかった。
不思議と後悔はない。
レコードをしまっていたレインの手が止まった。
彼は無言で唇を噛み、何かを考えている。そのまま時間が過ぎたけど、アタシは気にしなかった。
「“泊まるだけ”なら、いいよ。」
レインはためらいがちに答え、またレコードを片づけ始めた。
ミッションの今夜のBGMは…ジョージ・ウィンストンのピアノ曲なんて、誰がかけてるの。柔らかな調べに気持ちの傷穴が少し埋まるような気分。
ああ、良かった。
アタシはレインに受け止めてもらえたことに安堵し、いっときの安らぎを噛みしめていた。
もう、この世界にアタシの居場所はレインしか存在しない。
今夜、アタシを包んで。癒して。
愛して欲しい。
レインが主催者と話をしている間、アタシはミッションの外で待っていた。他には誰もいない。
真夏の夜。フーターズの店員みたいな格好だけど、熱帯夜の暑さは容赦ない。涙が引っこんだ代わりに汗が気になる。
疲れた。
「お待たせ。」
レインが戻ってきた。何と言って出てきたんだろう。いや、もう何でもいいや。アタシたちが結ばれれば、それでいいんだ。
「あっ。」
不意に思い出した。
レコードバッグ!守田屋に置いてきちゃった。
“ソニック・リデューサー”が収録されたデッド・ボーイズのLPをはじめ、大事な音源が何枚も入れてある。
今さら、取りには行けない。
「サニィ、どうしたの?」
「ううん、何でもない。」
しょうがない、音源はまた集めればいいか。2週間後のライヴはMP3で何とかしよう。
今は、彼と一緒にいられることが全て。
「行こうか。」
そう言って先に歩き出したレインの腕に、アタシは自分の腕を絡めた。意識せずそうした。
レインは何も言わず、拒否もしなかった。
てっきり駅に向かうのかと思ったけど、レインは環七の方向に向かって歩き出した。
タクシーを拾うわけでもなく、大通り沿いを進み続ける。アタシたちは腕を組んだまま、ゆっくりと無言で歩いた。
10分ほど歩いて何度か角を曲がり、小ぎれいなマンションの前で彼は立ち止まった。
「ここ。」
いつも総武線か中央線で帰っていたレイン。高円寺に住んでいたなんて。
アタシが酔い潰れたあの夜も、彼はアタシを経堂まで送り届け、そして高円寺に戻ってきたんだな。
もう、今はどうでもよかった。とにかく彼と一緒なら。
マンションの3階までエレベーターを上がる間、アタシはまだレインの腕を離さなかった。
案内された部屋は一人には広すぎる1LDK。清潔なキッチン、ダイニングには木のテーブル、奥行きのあるリビングにソファーベッド、テレビ。
掃除が行き届いているけど、スッキリを通り越して殺風景なほど何もない。こう言ってはなんだけど、レインの部屋はもっと温かみのあるイメージだったのにな。
もう一つの部屋に通じるドアは硬く閉ざされたまま。
“ひょっとして、この部屋に奥さんと住んでたのかな”
勧められるままにダイニングの椅子に腰かけた。ホッとすると同時に疲労感が押し寄せてくる。気を抜いたらこのまま寝てしまいそう。
レインは黙ったまま、奥の部屋にレコードを置きに行った。
アタシは一人、ダイニングに取り残された。




