第3章 その5
LINEでは今までに何百回もやり取りしてきたけど、電話するのは初めて。
夜の7時過ぎ、アタシは自宅での食事を終えたところ。今夜のメニューはアーリオ・オーリオのパスタと自家製コールスロー。家では基本、お酒は飲まない。
ちょっと緊張しながら、アタシはスマホを耳に当てた。
「もしもし?」
ちょうど4回目のコール音でレインは出てくれた。アタシはいかにもさりげなく聞こえるように話し始めた。
「あ、レイン?アタシ、分かるかな。」
「もちろん、サニィ。」
電話の向こう側は少しざわざわしてるみたい。今夜はライヴじゃないはずだけど。
「ひょっとして、まだ仕事中だった?」
「今、ちょうど休憩時間で。タバコ吸いに来たところ。」
「そうなんだ…ごめんね、忙しいのに。」
「いや、大丈夫だよ。」
アタシはちょっと沈黙した。上手な切り出し方が分からない。
「どうしたの?」
「え、いや、あの、大したことないんだけどさ。」
「うん。」
「レイン…アタシとプロレス、観に行かない?」
「プロレス?」
「新日の後楽園のチケット、来週の水曜日の券が2枚あるんだ。平日だから早くからは厳しいかもだけど…別に途中から行ってもいいからさ。」
それは、アタシの賭けだった。
新日の後楽園は今やプラチナチケットだ。同僚に頼み込んで、何とか2枚を手に入れてもらった。もちろんお返しに仕事をいろいろと肩代わりしたんだけどね。
その日にレインが行けるかどうかは分からない。でも確認を取ってから手配することはできなかった。レインは「そこまでしなくていい」と断るか、でなきゃ「割り勘で」と言い出すに決まってる。
こんな時間にまだ休憩ということは、仕事で遅くなる日もあるんだろうな。
そういえば、レインって何の仕事をしてるんだろう?
「チケット代はいらないから。そんなにいい席じゃないけど、この前のお礼。大抵のことは遠慮されそうだから、これならって思って。」
「うーん。」
「ね、どうかな?」
アタシは祈る思いで返事を待った。
「来週水曜日に水道橋だと…行けるのは今くらいの時間になるけど、それでもいいかな。」
「もちろん!全然、大丈夫だよ。」
「じゃ、甘えさせてもらうかな。サニィ、お礼のこと永久に言い続けそうだったし。正直、プロレスで来るとは思わなかった。それは断れないよね、俺の負け。」
やった!
アタシは踊り出したい気分だった。
やっと見つけた、レイン突破のキーワード。このカードは強かった!
「サニィ、ありがとね。細かい時間はまた当日に連絡でいいかな。」
「うん。先に行って待ってるからね。」
まさに、アタシは万全の体制で待ち構えるつもりだった。
しかし、予定通りにいかないのが人生。
アタシは総武線の各停に乗り、水道橋に到着するのをイライラしながら待っていた。
7時まであと5分。結局、レインが来るのとほぼ同じ時間になっちゃう。
週明けから急な仕事が相次ぎ、昨日まで終電続き。今日も忙しさは続き、アタシは同僚にもう一つ借りを作ってギリギリの時間に会社を飛び出してきた。
悲劇はそれだけじゃない。
2日間、ほぼPCの前に貼りついて過ごしていたせいで、ドライアイが酷くなってしまった。どうやってもコンタクトが入らない。アタシは断腸の思いで、メガネをかけたまま会社を後にした。
シャープなフレームの黒ぶちメガネ。オシャレなデザインをセレクトしたつもりだし、目が赤いのを隠すことはできるけど。
メガネっ子の顔は、正直レインには見られたくなかった。出力はだいぶ下がってしまう。あーあ。
春先と比べると湿気がだいぶ強くなってきた。今日は首元が大きく開いたカーキ色のカーディガンに白のスリムパンツ、足元は地味なパンプス。
ピアスだけはいつものフープに変えてきたけど、見た目は完全に仕事帰りのOL。ま、実際そうなんだけどね。
JR水道橋駅は混雑していた。ここはいつ来てもゴチャゴチャしている。アタシはレインを探したけど、それらしき人物は見当たらない。何とか先に到着できたのかな。
「誰かと思ったよ。」
柔らかい声。後ろから肩を叩かれた。
振り向いたアタシの前に立っていたのは、黒っぽい細身のスラックスに上着を肩から引っ掛け、ノーネクタイで清潔な白ワイシャツを着たレインだった。
アタシは思わず見とれてしまった。
「何だか、サニィじゃないみたいだね。」
それはお互いさまだ。
髪の毛は綺麗にクシを入れて後ろに流している。ローファーは磨き上げたようにピカピカ。スーツ姿だと、心なしかいつもより背が高く見える。
立派な社会人。アタシが知ってるパンクDJ・レインの雰囲気は全くない。
やだ、こんなに見違えちゃうなんて。
アタシは思いがけずドキドキしてしまった。お互いの秘密を見せ合いっこしてる気分。
「レイン、いま来たの?」
「5分くらい前かな。すっげーキョロキョロしてる女子がいるから、よく見たらサニィだった。」
そう言ってレインは笑った。
またも先を越された。しかもアタシがテンパってるところを思いきり見られたし。
どうもレインには常に先を越されるなあ。くっそー。
「もう始まってるんでしょ?」
そう言われて思い出した。そうか、アタシたちプロレスを観に来たんだっけ。
「うん。急ごうよ。」
そう言ってアタシたちはドームシティーに通じる陸橋を歩き出した。二人並んで、人ごみに溶け込んでいく。
ライヴハウス以外で会うのはこれが初めて。お互いに仕事帰りでビズなファッションで、知らない人が見たら二人ともDJには見えないはず。
それこそ、仕事帰りに待ち合わせて遊びに行くカップルにしか見えないと思う。とっても素敵なカップルに。
すぐ横にはレインの腕。手は無造作にポケットに突っ込まれている。アタシはその腕にアタシの腕を絡ませたくて、お腹の下あたりがとっても変な感じ。
きっとレインは少し驚いて、そして笑ってそのままにさせてくれるだろう。
それは単にレインがアタシに対して寛容なだけで、形以上のものではないんだ。
今は止めとこう。アタシはレインと、心と心がつながった本当の恋をしたいから。
そんなことを考えながら、アタシは少し下を向いてレインの横を歩いていた。




