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カスミソウ

作者: 香堂満月

本来4作目にしようとしてた作品が行き詰まったので息抜きで、書きました。


主な登場人物


桐野(きりの) 将吾(しょうご)…主人公


坂宮(さかみや) 千津(ちづ)…ヒロイン

 カスミソウ


  坂宮千津、記憶の底に意地悪く居座った彼女を僕はこれからも覚えているのだろう。

  彼女と最初に言葉を交わした教室に立つと、今でも思い出す。短くても濃かった彼女との時間をーー。


 1

 

 僕は不思議だった。坂宮さんはなぜか"ありがとう"を口にしようとしないのだ。

  例えば、消しゴムを落としてクラスメイトに拾って貰ったとき自然とありがとうは口をついて出るだろう。

  彼女は特別人見知りというわけでもないようで、誰とでも楽しそうに話している。でも、ありがとうは言おうとしない。そんなクラスメイトをよく思わないヤツもいる。僕はそういう人もいるんだぐらいにしか思っていなかったけど。

  ある日、僕が家に帰ってから思い出した忘れ物を教室に取りに帰ると彼女がいた。若干暗くなり始めた空を、なぜか机の上でブリッジをしながら眺めていた。器用だな。

「忘れ物?」

  電気をつけながらいきなり声をかけた僕に落ち度があるだろうけど、驚いた彼女はバックブリッジの要領で机から落ちた。

「きゃっ、いったー」

  慌てて近づくと、彼女は膝をさすっていた。

「ごめん、大丈夫?」

  手を差し出すと、手首を握ってきた。そのまま引き起こす。

「あ……どうも」

  ありがとうと言いかけたのに、言わなかった。どうしてそこまでありがとうを言わないのだろう。

  気になる……好奇心が勝ってしまった。

「どうして坂宮さんは、ありがとうを言わないの?」

  少し間が空いてから彼女が口を開いた。

「……どうしてか聞きたい?」

  坂宮さんはどうせ信じないだろうなと言った呆れとも諦めともとれる表情をしたあと、俯いた。

「どっちでも」

  思いの外そっけない返事になってしまった。

「自分で訊いといてそれはひどいよ、桐野くん」

  坂宮さんの表情が少し柔らかくなった。

  どうして柔らかくなったのか僕にはわからない。

「私はね、あと一回その言葉を言っちゃうと死んじゃうの。お医者さんにも親にもわからないみたいだけど。私にはなんとなくわかるんだ」

  僕はそんな話をどんな表情で聞いていたのだろうか。

  一つだけ確かなのは、嘘だとは思わなかったということだ。

「そうなんだ。変なこと訊いてごめん」

  僕のその返答は彼女にとってとても意外だったみたいだ。ぽかーんと口を開けたまま、目を二、三度パチクリさせた。

  笑顔になった彼女が口を開く。

「あり…………嬉しい」

  彼女はそれだけ言うと、ぺこりと一礼して帰っていった。


  僕も彼女の帰ったあと、忘れ物を回収して二度目の帰宅をした。実質的な効果はあまりないみたいだけど、手洗いうがいをしっかりする。

  それから、二階に上がって自室に入る。

  パソコンを立ち上げると、インターネットで早速調べる。

  【ありがとう 死ぬ】で検索するといくつか出てきた。大体がありがとうと自殺の関連性だったけど、いくつか『ありがとうといった後に亡くなる病』『ありがとうの後に死ぬ症状』といったものが出てきた。

  クリックしてそのサイトをみてみると、原因不明、謎の病、治療法なしと要するにほとんどわからないと書かれていた。唯一、わかったのは最後のありがとうのあとは数分で全機能が停止すること。最初に話すことができなくなるということだった。

  それだけ確認すると、さっさとシャットダウンしてリビングに行く。

  確認したからといって、何が変わるわけでもない。まあ気持ち的な問題だ。

  親はまだいなかったから1人で夕食を終えた。

  やることをさっさと済まして、ベッドに入る。

  彼女のことを考えているうちに眠ってしまった。


  次の日、てっきり彼女は僕を避けるだろうと思っていた。本人が隠していることを知っているようなものだから。まだほとんどクラスメイトのいない教室に入った途端、彼女が速攻で話しかけて来るまではーー。

「おはよ、桐野くん!」

「……おはよ?」

  そう返すだけで精一杯だった。

  戸惑う僕に続けざまに彼女が言う。

「桐野くんって趣味とかあるの? 見た感じスポーツはしなさそうだね」

「趣味は特には、一応部活はバスケ部だけど」

  あからさまなへぇー意外という表情をした後、肩を叩かれた。

「下手くそなんでしょ」

  なんて失礼なんだ、と思いつつも話しかけてくれたことを嬉しく思っている僕がいた。

「じゃあ1on1してみる?」

  2回目だけど別の種類のへぇー意外という表情をした後、頷いた。きっと僕なんかが誘ってくるとは思っていなかったのだ。

「いいよ、私だって帰宅部なんだから意地見せてあげる」

「いや、僕はバスケ部だって」

「あー、ごめん」

  彼女が手を合わせたと同時に予鈴が鳴った。律儀に席に戻る彼女を目で追いながら、いつやるか言ってなかったことを思い出した。

  まあいいかと考え直して、隣の席のやつと談笑している彼女を微笑ましくみる。

  上手くやってるじゃん。むしろ、クラスにしっかり馴染めてない僕の方が問題な気がして来た。

  クラス全体を見回してみると、みんな楽しそうに話していた。

  高校3年生に上がって手遅れながら何かが変わると思っていたけど、そんなことはなく相変わらず友達らしい友達もいない。

  クラスメイトのほとんどのフルネームがわからない中、彼女だけは何かと噂になっていたから知っていた。主に後輩の中でだけど。"ありがとうが言えない先輩"ーー何のひねりもないその感想が自由に散歩していたみたいだ。

  でも、ありがとうが言えないやつなんて珍しいとは思わない。極度な恥ずかしがり屋や社会不適合者なんかにも言えない、言わないやつはいると思う。

  彼女は、命と直接関わってくる稀有な存在だからそう言ったくくりに入れるのが正しいのかわからないけど。

  ふと何でこんなに僕は彼女について考えてるんだと思った。「一目惚れか」我ながら他人事だなと苦笑する。

「何言ってんの……最初移動教室だよ」

  急に、前から呆れた様な声がして顔を上げる。坂宮さんだった。

「は?」

「何が一目惚れよ?」

  聞かれてたのか。どうやら漏れてたのはそこの部分だけだったらしく、特に追求はされなかったから僕も一目惚れの件はスルーした。

「悪い、準備する」

  彼女と最初の授業の場所に移動してる最中に彼女が言った。

「1on1、今日バスケ部体育館らしいから外のコート空いてるんだって。そこでやろう」

  つい悪い癖でまあいいかと置いといたことが、すぐに拾われた。

「マジでやるのか」

「当たり前だよ!」

  当たり前らしい。初対面は昨日の段階で果たしていたけど、今日急に話し出したような男子とバスケで1on1なんてやるだろうか。

  まあいいか。今度は良い意味で。


  やたら休み時間に話しかけてくる坂宮さんのお陰かしらないが、後ろの席だったり隣の席の男子だったりが話しかけてくるようになった。

  安直に坂宮効果と名付けた。

  今日の最後の6限目の始まる前の休み時間、隣の松島(さっき覚えた)に肩を小突かれた。

  横を向くと松島が顔を寄せて来た。

「お前なんで急に坂宮と仲良くなったんだ?」

「それは、坂宮さんに訊いてみたら」

  卑怯だけど、はぐらかした。

「いやまあそうなんだけど、坂宮ってさなんかありがとうが言えないとか言われてるじゃん?」

  きっとこういう方向の話になるだろうと思っていたから、感情を出さないように努めた。

「それで?」

  出さないように努めていたつもりだったけど、僕の言葉のどこかに潜む針が刺さったみたいで松島はそれ以上何も言わなかった。

「特に用がないなら席に座ったら?」

「お、おう」

  松島の顔は納得がいかないと言っていたけど、僕はそれを無視した。


  帰りのHRが終わって、気付かれないうちに帰ろうと準備をしてリュックを持ったところで坂宮さんに気付かれてしまった。

「あっちょっと桐野くん、待って」

  やむなしと振り返る。もう彼女もカバンを肩にかけているところだった。

  隣に来た彼女の目はすごくやる気満々だった。

「じゃあ、行こっか」

  坂宮さんが言う。

  金魚のフンみたいに彼女の後についていく。

  僕はバスケ部なんだから部活に参加すれば坂宮さんと1on1をする必要もないのだけど、幽霊部員だから関係ない。それに、もうすぐ引退だし。

  中学生のときはそこそこ上手かったしそこまで下手にはなってないだろう。

  外コートに着くと、彼女はコート脇にある常時鍵のかかってない倉庫からバスケットボールを取り出した。

  カバンを倉庫の横に置いたのでその隣に僕も置く。

  彼女がボールを投げて来た。キャッチして彼女を見るとニヤニヤしていた。

「先攻は桐野くんでいいよ」

  ここに来て僕は一抹の不安を覚えた。帰宅部なのにこんなにやる気なのは自信があるからじゃないのか。机の上でブリッジをやるようなやつだ。運動神経抜群だとしても不思議ではない。流石に発案者で引退間近の幽霊部員でもバスケ部の僕が負けるのは恥ずかしい。

「とりあえず個人で軽く準備運動しよう」

  一応怪我をしないために僕は提案した。

「いいよ」

  ずっと手首足首をやってる彼女を屈伸をしつつ見てる僕はふと思った。

「坂宮さん、そういえば体操服とかジャージとかある?」

「ないよ、帰宅部だしね」

  あるのかないのかわからない胸を張りながら、彼女は答えた。

「じゃあやめようか」

  少し間が空いた。

「……えっなんで? 制服でやるよ」

「いやいや、それこそなんでだよ」

  彼女は、んーとまだ明るみの残ってる夕焼け前の空を数秒眺めてから言った。

「青春ぽいじゃん」

  体育祭は過去に大怪我をした生徒がいるとかで廃止になってしまったらしい。今の時代は、何かがあればすぐ中止だの廃止だのと騒ぎ出す。正直気持ち悪い。それでも、文化祭や受験だったりまだまだ青春ぽいイベントはたくさんある。そう言いたかった。でも、言えなかった。

  彼女が何かを終わらせようとしてるのがわかってしまったから。

  そんなに憂う目を出来るものなのか。

「そうだね」

  自分でも意識しないうちにつまらない相槌を打っていた。

  暗くなる前にさっさとやろうということで、軽い準備運動を終わらせた。

  その場でボールをついてみる。

  感覚的にも懐かしいし、しっくり来てるから、この感じなら大丈夫そうだ。

「すごいっ。つけてるじゃん!」

  坂宮さんが僕の掌と地面を行き来してるボールを見ながらはしゃぐ。

  思わずため息をつきそうになったけど我慢した。

「本当に制服でやるの?」

「うん! やるよ!」

  まあいいか。

「はいはい、じゃあ行くよ」

  さっきと同じ要領でつき始める。スカートだからと遠慮はしない。

  少し上体を左にずらしてフェイントをかけると坂宮さんは思いっきり右に動いた。単純……。

  続けざまに右左とやると動かなかった。単純についてこれないのだ。

  ボールをつきながら、これなら余裕じゃないかと思い始めた。

「なあ、坂宮さんって素人?」

  頷いた。

  そのあとは、本気を出さなくても悲惨なほどに僕の独壇場だった。

  何回か攻守を入れ替えて、着実に僕の勝ちが積み重なって行く。

  何回攻守を入れ替えただろう?

  僕がスリーポイントを決めると、坂宮さんはがくんとうなだれた。

「もう勝てる気しない……。手加減してよ!」

「してるつもりなんだけど。むしろ本気でやってる?」

  運動したからなのか怒っているからなのか何のせいかはわからないが彼女が頬を染めながら言った。

「やってる!」

「僕の勝ちでいいよね?」

「いいけど……」

  急に声のトーンが落ちた。

  まだ何かやるのかと警戒する。

「けど?」

「またやる?」

  何だそんなことかと微笑する。

「機会があればね」

「あり……うん」

  本当はすごく言いたいのだろう。ありがとうと……。

  彼女の心境を思うといたたまれない。

その日は、2人で途中まで一緒に下校した。

  1人になってから、僕は考える。友達になると言うのは案外こんなものかもしれない。

  この日から、僕と坂宮さんはさらに仲良くなっていった。


2


  最初の1週間はほとんど一方的に坂宮さんが絡んでくると言う展開が多かったけれど、1ヶ月も経つ頃には僕からも絡むようになっていた。

  休みの日に坂宮さんと2人で出かけることも多くなった。

  どれもこれも僕が坂宮さんの行きたいところについていくだけだったけれど、それで満足だったし楽しかった。

  坂宮効果でクラスにも多少馴染めてきて、松島ともよく一緒にいるようになった。

  高校3年生に上がって何かが変わるわけもないと思っていたけど、それはただ単に僕の努力が足りなかっただけだ。今回も僕が努力をしたかというと疑問だけど。いつものようにまあいいかと放置していただけだった。

  もし、学校に忘れ物をして坂宮さんと2人きりになっていなければこんな風になっていなかっただろう。

  本当に僕は情けないな。まんま坂宮さんの金魚のフンだ。


  もうじき中間テストだ。

  3年生のテストは重要だとよく言われているから、血眼になって勉強しているクラスメイトもいる。僕は頭が良いやつからは悪いと言われ、悪いやつから良いと言われる。簡単にいうと普通だ。

  それに、高校の先生をしている親に3年生のテストは確かに重要だし踏ん張りどころだけど赤点さえ取らなきゃなんとかなると言われているのでそこまで気にしていない。

  そこは、勉強するように促すものじゃないのかと思ったけど。

  踏ん張りどころの3年生最初のテストが近づいているからなのか僕のクラスはすごくピリピリしていて少し過ごしづらい。

  坂宮さんは、成績が良くいつも上位にいるので問題ないと聞いた。

  松島は言わずもがなだ。

  その松島が近づいて来る気配がした。

「桐野ー、勉強教えてくれ」

「嫌だよ」

  僕は松島の方も見ずに即答した。

「何だよ。坂宮だったら逆に即オーケーするくせに」

  こいつはいつも坂宮さんを出す。

「坂宮さんは関係ないだろ。絶対教えない。てか僕も勉強苦手だし」

「おれよりは良いだろ」

「その程度だよ」

「それっておれがすごい馬鹿にされてないか?」

  確かにその通りだ。でもここで疑問にするあたり馬鹿なのだ。

  適当に答える。

「そうか?」

「いや、まあ。されてはないか」

  やっぱり馬鹿だ。

  チャイムがなった。

  今日の最初の授業が始まる。


  午前中を乗り切って、昼放課は慣れたように坂宮さんと昼食をとる。

  坂宮さんとの昼放課はあっという間に過ぎる。ここで一つ言いたいのはまだ付き合ってないということだ。

  僕に勇気があれば難なく告白して成功するなり、玉砕するなりしているのだろうけど。

  昼食を終えて、(不本意だけど)松島も交えて3人で談笑する。

  昼放課が終わり午後の授業に入る。

  午後の授業は睡魔と戦いながら、乗り切った。

  帰りのHRが終わった後、待つと言ってくれた坂宮さんのために、急ぎ目で僕は頼まれていたプリントの束を職員室に持っていく。

  先生が職員室にいなかったおかげでデスクの上にプリントの束を置くだけだった。すぐに職員室を出た。

  教室に近づくと、自分のクラスからあまり穏やかではない声が聞こえてきた。

「××で、あり××う×××わないの!」

「そ×よ! 誰でも××××とじゃん!」

  あと一歩出れば、クラスの中から丸見えというとこまで来てはっきりと中の声が聞こえた。

「ありがとう! ありがとう! ありがとう! ほらこんぐらい何で言わないの!」

「ありがとう言わない人ほんっと嫌い! しかも何でニコニコしてんの。笑うぐらいならありがとうって言えよ」

  こっそり中を伺うと女子3人が坂宮さんの前に立っていた。よく見ると、3人から少し離れた後ろに困り顔の松島がいた。

  僕は入ろうか迷ってしまった。一度ためらうと、入れなくなってしまった。

  情けないけど、聞き耳をたてる。

「なんでさっきから黙ってるの? なんか言えば?」

「それな。マジ意味わかんない」

「2人の言う通りだよ。松島くんも言ってたけど、急に桐野くんと仲良くなったのも関係あったりして」

  3人目が半笑いで言った最後の言葉が、あながち間違いじゃなくて思わずどきっとする。

  3人の後ろで困り顔の松島は前に僕が言った『それは、坂宮さんに訊いてみたら』を言われた通りにしたんだ。それに、便乗した3人が今まで思ってたことを一気にぶつけたのか。

  僕の、せいだ。

  まだ、3人の声が聞こえている。これじゃあ、坂宮さんが何かを言う隙間すらない。

  行かなきゃ、僕のせい云々の前に中に入って止めなきゃ。頭ではわかっているのに足が動かない。

  一気にまくし立てて疲れたのか、3人の声が途切れた。

  坂宮さんが口を開いた。声は震えていた。

「……私だって言いたいよ。何回だって同じくらい心を込めて言いたいよ……」

  3人の中の1人が言う。

「だから、そう思うんなら言えばいいじゃん」

  そうなんだけど、坂宮さんにとってはそうじゃないんだ。

「……そうなんだけど、そうじゃないんだよ。言えないんだよ……あと1回言ったら……し、死んじゃうんだよ、私は。誰にもわからない、けど私にはわかる! 私だってみんなみたいに言いたい、よ……」

「なにそれ、くだらない嘘言わないで。意味不だし。ありがとうって言ったら死ぬ? そんなの聞いたことない。もういいよ」

  僕の中で、初めて怒りと自覚できる感情が出た。

  今度は意識しないうちに中に入っていた。坂宮さんの前に立つと、3人の方を向く。

「桐野くん……」

  坂宮さんが呟いたのがわかった。

「お前ら、いい加減にしろよ。寄ってたかって。僕も情けなくて、そこで立ち聞きしてたから今更って感じだけど。自分自身にもお前らにも腹立ってる」

「なにお前らお前らって桐野くんさ今までぼっちだったくせに急にどうしたの?」

「うるさい。お前らが坂宮さんに理由を言えって言って、坂宮さんが答えて、なんでそれを頭ごなしに否定するんだよ。言いたくても言えないやつだっているんだ、とか思わないのかよ。僕もお前らもたった十数年生きてきただけだろ。知らないことだっていっぱいあるんだよ。知ろうとする努力もしないで、一方的に嘘って決めつけるのはどうかと思うよ」

「……嬉しいよ、桐野くん……」

  坂宮さんの蚊の鳴くような声が聞こえた。今だって、坂宮さんは堪えたのだろう。

  3人は、「うざっ」と捨て台詞を吐いて帰っていった。退いてくれてよかった。

  困り顔のまま松島が近づいてきた。

「ごめん、桐野。まさかこんなことになるなんて……」

  意気消沈している松島を初めてみた。まだ付き合いも全然短いけど。

「いいよ。元を辿れば僕が坂宮さんに訊いたらなんて言ったから悪いんだ」

  松島は良くも悪くも正直なだけだ。今回は悪い方で動いてしまったかもしれないけど、それこそあの時僕がもっと適当なはぐらかし方をしとけばよかったのだ。

  あの3人だってきっと不安だったのだろう。受験勉強でストレスも溜まっていただろうし、3人の中で一番突っかかっていた1人は休み時間も勉強していた。好意が悪意に変わるなんていうのはよくある。ストーカーなんかがいい例だ。

「ごめん……」

  松島はそれだけ言うと、そそくさと帰った。

  2人きりになった教室で、やっと坂宮さんと向き合う。

  坂宮さんは泣いていた。

「……ごめんね。今だって本当に言いたいよ。いっそ言って死んじゃおうかなって思うくらい」

「それは僕が嫌だ……あのさ、坂宮さん僕と付き合ってくれない?」

  今言うのはこの状況に便乗したようなものだから、若干自己嫌悪に陥るけど、情けない僕には今しかない。

「うん。情けないしょーくんを私が見てあげる」

  告白が成功したことも嬉しかったけど、それ以上にしょーくんと言うのに反応してしまった。

「えっまじ、ってしょーくん?」

「だめ?」

  そんなことを言われたら、ダメなんて言えない。むしろ嬉しいし。

「玉砕すると思ってた」

  まあいいかはさすがに出なかった。思わず本音が漏れた。

「告白されたら嬉しいなって初めて言葉を交わした時から思ってたんだ」

  頬を染めながら坂宮さんは言う。

「坂宮さんありがとう……あ、なんかごめん」

  謝って、気付いた。謝った方が坂宮さんに失礼だ。

「いいんだよ謝らなくて、言えるなら言ったほうがいい。それと下の名前でいいよ」

  下の名前……小学校以来、今まで女子を下の名前で呼んだことないのに。

「ち、ち、千津」

  失敗した。

「緊張しすぎだって」

  笑われてしまったけど、緊張が解けた。今度は、失敗することなく伝える。

「千津。ありがとう」

「どういたしまして」

  変な間が空くのが怖くて、思わず右手を差し出した。彼女も首を傾げながら、握手してくれた。今度はしっかりと手を握った。そのまま3回ほど上下する。

  思わずブリッジを思い出して吹き出しそうになったけど堪えた。

  手を離すと、おかしくなって2人とも笑う。

「おい。何笑ってるんだ。てか、早く帰れ!」

  担任の先生が教室に入ってきた。黒板の上の時計を見ると、もう下校時間を過ぎていた。

  2人して、カバンを掴むと先生に謝りながら教室を出た。

  帰り道、いつも通りの雑談を交わした。

  なんでもないような会話だけど、思い出を重ねる。分かれ道まで歩く。

「さか……千津、家まで送ろうか?」

「いいよいいよ、しょーくんとバイバイしてから5分くらいだしね」

「なら、尚のこと送るよ」

  食い下がる僕に食い下がる千津。

「だって往復で10分だよ! 時間は有限なんだよ!」

  確かにそうだけど、10分だ。

「むしろ、有限だからこそ少しでも千津といたいじゃん」

  すっと顔が熱くなるのがわかった。すごく恥ずかしい。街灯に照らされた千津の顔も赤くなっていた。

「もう、わかったよ嬉しいなぁ。送って……」

「わ、わかった」

  千津の家まで本当に5分くらいだったけれど、その間一言も話さなかった。

  坂宮と記された表札の前で立ち止まった。

「えっとじゃあ千津、オーケーしてくれてありがとう。改めてよろしく」

「こちらこそ、よろしくね」

  やっと彼女に笑顔が戻ってくれた。5分間気まずかった。

「じゃあ、また明日」

  千津に手を振ると、千津も振り返してくれた。

  文字通りの彼女を無事送り届けて、僕も家に帰る。


  次の日、昨日朝一緒に登校しようと言うのを忘れていた。ついでにLINEを交換していたのも忘れていた。多少恥ずかしさを感じながら彼女の家に向かっていると、いつも別れていた道でばったり会った。

「あ、千津おはよ」

「しょーくんおはよ! 昨日朝一緒に行こうって言うの忘れてたと思って、ここで待とうとしてた」

  朝からとびきりの笑顔を見せてくれる。

「実は僕も、今から千津を迎えに行こうとしてた」

  自ずと僕も笑顔になる。

「私たちさすがだね」

  千津が得意げに言う。

  いつまでも立ち止まってるわけにはいかないから、歩き出す。

  とりとめのない話をしていると、すぐに学校に着いた。

  2人で教室に入ると、昨日の3人が近寄ってきた。

  冷やかされるのか昨日のことを掘り返されるのか警戒していたけど、それは思い過ごしだった。

  近づいてきた3人は声を揃えて、戸惑う千津に、言い過ぎたこと、調べたら原因不明だけど本当にそういう症状があったこと、悲しい思いをさせたことを謝罪してきた。

  千津はいとも簡単に許した。僕もそれでいいと思ったけど。

  3人は口々にありがとうと言って、いつも集まってる1人の子の席に戻った。

  僕も千津と一旦別れて席についた。

  リュックを机の横に掛けて、千津の席に行こうと立ち上がった。

  同時に席を立った千津が振り返って、目が合った。

  僕が近づく。

「こっちこようとした?」

「うん、またタイミングあったね」

  私たち前世は双子だったりして、と言って笑う。

  僕も笑い返す。

  千津のことばかり考えていたからか、あっという間に1日が終わった。気が付いたら、千津と喋りながら帰路についていた感じだ。

  しっかりと千津を家に送り届けた。一緒に登校は、今日の朝のように分かれ道で合流しようということになった。千津は「分かれ道で合流ってなんか面白いね」と笑っていた。


  毎日同じような繰り返しだった。せいぜい帰りに勉強という名目でファミレスに寄ったりするくらいだ。

  テストがいよいよ前日まで迫って来たある日、いつものように千津と帰っている途中で行きつけのファミレスに入った。珍しく千津から勉強をしようと言ってきた。いつもはファミレスに寄ろうなのに。

「いらっしゃいませー! 2名様ですね」

  よく当たる店員だった。何回も来ているうちに、"2名様ですか?"が"2名様ですね"に変わっていた。

「お席の方へご案内します」

  お馴染みの店員についていくとお馴染みの席に案内される。

  向かい合って腰を下ろす。

「こちらメニューになります。ではごゆっくりどうぞ」

  ここは、水もセルフで取りに行かなければならないので、僕が取りに行く。

  水を持って席に戻ると、千津が何かのパンフレットを出していた。

「はい。それなに?」

  水を差し出しながらたずねる。

「これね、この前しょーくんと駅前のデパート行った時にもらったパンフなんだけど。花屋さんの」

  確かにこの前駅前のデパートを散策してる時に、千津が何かの紙を受け取ってたのを見た。これだったのか。

「へえ、行く?」

「えっでもテストもう直ぐだし、割引も終わっちゃうし」

「ちょっと貸して」

  千津から受け取ったパンフレットを僕も見る。

「大丈夫だよ。来週の日曜日までだから。ちょうどテスト明けの土日だし、どっちかで行こう」

  パンフレットを千津に返すと、千津は改めてパンフレットを見直した。

「ほんとだ」

「じゃあ土日で暇な日ある?」

  少し考えるそぶりをした後、千津は人差し指でバツをつくった。

「暇な日ないの?」

「どっちも暇」

  どうやら千津の中では暇な日はバツで暇じゃない日がマルになってるらしい。わかりづらい。

「バツは……まあいいか。なら、土曜日に行こう」

「うん! 欲しい花があったんだ〜」

  今まで、花を買ったことがない僕からすると皆目見当がつかない。

「まずはテストだけどな」

  必要はないだろうけど、クギを刺すと言い返された。

「それなら、しょーくんこそだね」

  確かに、と2人して笑う。

  メニューが視界に入った。そういえば忘れてた。

「何か頼む?」

  パンフレットをカバンにしまうと、千津がメニューを広げた。

「千津が先に決めていいよ」

「一緒に決めよ。しょーくんは逆さまで読んで」

「普通に見るから、先でいいよ」

「いいからいいから」

  何がいいのかわからないけど、千津のプチ無茶振りに付き合うことにした。

「私はね〜ハンバーグとライスにする」

  軽くかなと思っていたけど、結構がっつりだった。

「しょーくんは?」

  わざわざ逆さまのままで、メニューをこちらにグイッと押した。この時点で一緒に決めてはいない。

  しれっと戻そうとしたら、さっと止められた。そのまま、千津はひっくり返されないように押さえている。

  まあいいかと諦めた。

「僕はカルボナーラにしようかな」

「ぶー」

  なぜか不正解の音を口で鳴らして来た。ここで理解した。

「ラーナボルカにする」

「ぴんぽーん」

  正解だった。

  僕の左側、千津の右側にあるブザーを押して店員を呼ぶ。

「はい。ご注文をどうぞ」

「ハンバーグとライスの中、あとラーナボルカ一つ」

  僕が口を開く前に、千津が全部言ってしまった。僕はカルボナーラって言うつもりだったけど。

「ラ、ラ、ラーナボルカですか? えっとありましたっけ?」

  お馴染みの店員が混乱している。

「ごめんなさい。カルボナーラです」

「あっああカルボナーラですか。反対から読むと……なるほど」

  千津もすぐ謝った。店員も混乱はすぐに収まったみたいだ。

「えっと、確認させていただきます。ハンバーグ1つとライス中、カルボナーラ1つで合ってますか?」

「はい。お願いします」

  料理が来るまで、少し勉強することにした。お互いに問題を出し合って答えると言う単純なものだ。僕の完敗だった。

  15分くらいすると、千津の頼んだハンバーグとライス中が届いた。その5分後に僕の頼んだカルボナーラも届いた。

  2人で手を合わせる。

「「いただきます」」

  ファミレスのことをなめていたつもりはないけど、まろやかで麺も平たく、味も僕の好みだった。

  千津もナイフでハンバーグを細切れにして、フォークを使ってハフハフしながら食べていた。

  食事中は会話らしい会話はなく、黙々と食べ続けた。

「ごちそうさま」

  20分で食べ終わった。千津もほぼ誤差なく食べ終わった。

「ごちそうさまでした」

  千津のコップも持って水を入れに行く。

  戻ってくると、メニューを見ていた。

「デザートとか食べる?」

「んー食べない。しょーくんは何か食べる?」

「いらないよ」

  千津が水を一口飲む。

「これから、どうする?」

  メニューは手持ち無沙汰で見てただけだったみたいだ。

  僕も水を飲むと言った。

「帰ろっか」

  いつもは千津の提案でじゃんけんで決めていたけど、今日も僕が払った。最初以外勝っていない。1勝12敗と僕が負け越してる。弱すぎ。

  分かれ道まで歩く。テストが終われば5月も終わる。6月に入るけれど、梅雨は好きではない。花屋に行くのはまだギリ5月なので、雨は大丈夫だろう。

  ふと思った。

「結局勉強してないな」

「うん。したかった?」

  心配そうに覗き込んで来た。千津から目をそらして答える。

「いや、楽しかった」

「良かった」

  千津が言わなくても、僕が言ってただろうから問題ない。

  あっけなく分かれ道についた。

  分かれることなく、千津を家まで送る。

「あり、えっとごめんね。また明日」

  久しぶりに千津が言いそうになったのを見た。千津自身もハッとしていた。

「また明日」

  僕は何事もなかったようにそう返した。

  来た道を戻って、家に帰る。



 3

 

  松島の顔がこわばっていくテストが終わって、今日の金曜日で松島の顔色が悪くなっていく最後のテスト用紙が返ってくる。千津は返ってきた後の放課後にわざわざ見せに来ていた。どれもこれも80点以上だった。

  僕は、得意な現代文とかの教科は普通によく苦手な教科も可もなく不可もなく出来ていた。今日返ってくる最後のも得意な教科なのでそこまで心配していない。

  1、2限とそわそわしている松島をよそに授業は新しいところに入っていく。

  3限目は歴史、いよいよ最後だ。これで何もなければ本当にテストが終わったと言える。

  僕は82点と現代文の90点についで2番目の高得点だった。

  隣でホッとしている松島の点数を見てみると、34点だった。平均点は66点だったから赤点は回避できたようだ。

  千津を見ると、こっちを見てピースして来た。相当良かったようだ。

  3限目が終わって放課になると、案の定見せに来た千津の歴史の点数は97点だった。呆れてしまった。僕も赤点はなかったから、8教科中5教科で赤点を取った松島を不憫に思う。思うだけで手伝うつもりはない。

「桐野、助けてくれ」

「頑張れ」

  昼放課に頭を下げに来た松島にそう告げる。

「薄情者、おれだってここまで悪いとは」

「ドンマイとしか言いようがない。赤点の数かける10ページだからノート50ページに毎日、書き込み。赤点ノート大変だ」

「他人事のように言うなよな」

「他人事だろ、僕は赤点なかったから」

  相変わらず桐野〜と泣きついてくる松島を追い返して、千津とご飯を食べる。

「いいの松島くん?」

  弁当の蓋を外しながら、千津が開口一番そう言った。

「いいんだよ、そもそも補習ならまだしもノートに書き込みだからね。字でバレる」

「先生たちもバレたらやり直しって言ってたしね」

  千津が箸を取り出しながら、付け足した。

「そうそう」

  僕も弁当を開けて、箸を取り出す。

「「いただきます」」

  黙々と食べ続けた。

「「ごちそうさま」でした」

  午後は2時限とも体育なので、放課が残り15分を切ったところで教室を出る。

  めんどくさい。

  体育が終われば、今日も終わりだ。厳密に言うと学校でやることだけど。

  帰りのHR後、千津と帰る。

  千津を家まで送って、帰宅する。

  明日は10時に分かれ道集合になっていた。


  次の日、9時40分に分かれ道に着くともう千津がいた。

「ごめん、早いね」

  今日の千津はショーパンにニーハイ、猫みたいな動物が真ん中でバンザイしている長袖のシャツだった。容姿も相まって、子供っぽく見えなくもないけど可愛かった。

「大丈夫だよ。今日割とあったかいしね」

  千津の言う通り今日はいつもよりさらに暖かい感じがする。もうじき6月だし、妥当といえば妥当。

「確かにね。じゃあ、行こっか」

  分かれ道から電車を使って30分くらいかけて、駅前のデパートに向かう。

  到着してからは、花屋さんに行く前にお昼を食べたり本屋に寄ったり、服を見たりした。

  目的の花屋についたのは16時ごろだった。

「今日の目的のとこだね」

「うん、見ていい?」

  千津のその質問に思わず笑ってしまった。

「いいよ」

  その花屋は思っていたより広かった、奥に長くて左右に多種多様な花たちが鎮座していた。

  僕でも知ってるバラやチューリップもあった。

  千津はバラやチューリップには目もくれず、何かを探していた。

「何探してるんだ?」

「ないしょ」

「教えてよ、一緒に探すよ」

「いいからいいから」

  千津はキョロキョロしている。

  ないしょと言われてしまってはどうしようもない。あまりにも見つからないようだったら、店員を呼ぶことにしよう。

「あ、あった!」

  それは、思いの外入り口付近にあった。小さく細かい花を咲かせていて、なんだかふわふわしている可愛らしい花だった。品名を見るとカスミソウと表記されていた。

「これを探してたの?」

「そう! カスミソウ別名、ハナイトナデシコ」

  花糸撫子漢字まで丁寧に説明してくれた千津が得意げに言う。

  白色とピンク色があった。どちらも可愛らしいけど、個人的には白色の方がいいなと思った。どことなく千津を連想させる。

「へぇ、なんか可愛らしい花だね。千津みたい」

  恥ずかしいと思ったけど、正直に言い切った。

「可愛らしいよね、って私みたい!?」

  カスミソウを見ていた千津がばっと振り向いた。

「ほ、本当に言ってるの?」

「そりゃわざわざ嘘は言わないよ」

  頬を染めた千津が白色のカスミソウを一本手に取った。

  レジに向かうと、店員に言った。

「あのこれで千円分で花束を作って欲しいんですけど」

「カスミソウですね。わかりました」

  カスミソウを店員に渡す。

「お願いします」

  千津は頭を下げた。

「どなたかに贈るんですか?」

「あ、いえ手渡ししたいなと」

  そこで、隣に僕がいるのに気づいたのかちらっと見て店員に視線を戻した。

  店員はそれだけで何かを察したのか「承りました」と言った。

  少し時間がかかるとのことで、他にも色々な花を見た。千津と見て回ってると、店員の声が聞こえてきた。

「坂宮様ー!」

  時計を見ると、そこそこ経っていた。慌てて、声の方に向かう。入り口にいた。

「すいません」

  千津が声をかけると、店員はビクッと肩をふるわして振り向いた。どうやら外にいると思っていたらしい。

「あ、いえいえ。花束出来上がりましたよ」

  店員についてレジの前に立つ。レジの奥から別の店員が花束を持ってきた。

  一本の小さなカスミソウに比べると、結構な迫力だった。真っ先に思ったのはブーケみたいだなということだ。実際ブーケにも使われるらしいけど。

「すごいですね。キレイです」

  千円を払った千津が花束を受け取る。顔を上げて店員を見た。口が開きかけて閉じたのを僕は見逃さなかった。

  代わりに言う。

「ありがとうございます。立派ですね」

  千津が僕を見て、それから店員に頭を下げた。

「いえいえ」

  店員は特に気にした風もなかった。

「ありがとうございました。またお越しくださいませ」

  お店を出ると、千津が改めて僕にも頭を下げてきた。

「いいよ。どうするんだその花束?」

「プレゼントする」

「ふぅん」

  僕は少し嫉妬していた。身内とかならいいけど、男だったら嫌だなと思ったから。

  目的を達成した僕たちは、帰ることにした。

  千津は何故か緊張していたし、僕も花束をどうするのか気になっていたから、行きより口数は少なかった。

  行き同様、30分かけて分かれ道まで戻ってきた。

  千津を家まで送る。もう習慣になっていた。

  家についても、千津はなかなか行こうとしなかった。

「どうした?」

  意を決したように、千津は振り返った。

「じ、実はこのカスミソウしょーくんにプレゼントしようって思ってたの」

  まさか僕にだとは思っていなくて、純粋に驚く。

「えっ、僕に?」

「うん。ど、どうぞ」

  グイッと花束を僕の方に差し出してきた。何かの授賞式のようにそっと両手で受け取る。

「ありがとう。大切にするよ」

「私だと思って大切にしてね」

「なんだよそれ」

  僕が笑うと彼女も笑った。

「そういえば、今日訊こうと思ってたんだけど、しょーくんって将来の夢とかあるの?」

  即答する。

「教師かな。学校の先生になりたい」

  前にも見たことあるへぇー意外と言う表情をした後、言った。

「似合いそう」

「今、へぇー意外って思っただろ」

「あ、バレてた?」

「バレバレ」

  カスミソウを左手で持って、右手で軽く千津の頭を小突く。

「でもなんで教師なの?」

「親が教師だしね。生徒のための教師になりたいなって思ったんだ」

「そうなんだ。しょーくんなら大丈夫だね」

「また適当なことを」

  今度は適当なことを言っていたわけではないと、わかっていたけど。そう返した。

「バレてたか」

「まったく。じゃあまた明日。カスミソウありがとう」

  このままだといつまでも話していたくなりそうだったから、切り上げる。

「また明日ね。カスミソウは高温多湿嫌うからね」

「わかった。気をつけるよ」

「ばいばーい」

  玄関の扉が閉まるまで、そこにいた。花束を見て、嬉しくて笑みがこぼれた。


  6月に入って、カスミソウが苦手そうな梅雨時期が来た。雨が降る日も多くなり、千津と遠出することはしばらくお預けになってしまった。

  梅雨が明ける前に一度だけ、千津の家にお邪魔した。

  千津のお母さんは、性格がとても千津に似ていた。いや、この場合は千津の性格が母親に似ているってことになるのか。

  千津はお父さん似だなと思った。どこがどうと言われると困るけど、目が一番似ている気がした。娘は父に似るとも言われるし。

  2人とも優しくて、僕の緊張はすぐに溶けた。

  千津の家で夕食もいただいて、楽しい時間は過ぎていった。

  最後に父親はこう言った。

「うちの娘がお世話になりました」と。すぐに、なります、かと父親は笑っていたけど。僕は苦笑いしか返せなかった。

  梅雨が明けてからも、その言葉はずっと僕の中に残っていた。

  7月には期末テストと夏休みがある。

  期末テストでしくじると例のごとく赤点ノートを夏休み中毎日持っていかなければならない。それだけは嫌だ。

  今回は千津の情けもあって、僕と松島と中間テストで学年最下位で僕の後ろの席の鹿島(かしま)の男子3人とあの時の女子3人で勉強することになった。教えるのは千津と女子3人の中で一番勉強を頑張ってクラス2位だった遠田(えんだ)さんだ。おまけで僕が得意な教科を教えることになっていた。

  結果を言うと、松島は赤点0、鹿島は残念ながら1つ、女子は全員0、そして僕ももちろん0、千津は言うまでもなく0で学年2位だった。

  嬉しかったのは、僕の教え方が上手いとなかなか評判だったことだ。

  これで夏休み楽しむぞと浮れる松島。赤点0ではあったけど、ギリギリセーフが多かった。

  最後のテスト用紙が返された日の昼放課ーー

「これで夏休みが楽しめる。ありがとう坂宮、遠田ついでに桐野」

  ーー松島がうるさい。

「なんだよついでって。それにお前ギリギリだろ」

「坂宮が言わないと桐野教えてくれねえだろ」

「しょうがないよ、松島くん。桐野くんと坂宮さんはラブラブだし」

  遠田さんが松島に乗っかる。

  僕が何かを言おうとすると、千津が小さく手を叩いた。

「鹿島くんは惜しかったけど、みんな頑張ったよ。おつかれ!」

「「「「「「おつかれ!」」」」」」

  みんなで一番合計点の低かった松島に奢ってもらったジュースで乾杯した。そう、赤点は0だったけど基本ギリギリだった松島は合計点で鹿島に負けていたのだ。

  みんなが夏休みのことを話している時、千津は何も言わなかった。話を振られても曖昧な返答をするだけだった。

 

  無事、終業式を終えて夏休みに入った初日。千津がLINEをしてきた。

『しょーくん、今暇?』

『暇だよ。どうした?』

『今から、分かれ道に来て欲しいんだけど……』

『行くよ』

『待ってるね』

  既読して、手短に支度を済ませると家を出る。自転車で分かれ道に向かう。

  嫌な予感しかしない。そして、大抵嫌な予感は当たるものだ。

 

  分かれ道に着くと、文面通り千津が待っていた。

  車の邪魔にならないとこに自転車を止めて、千津に歩み寄る。

「急にどうした?」

「来てくれて嬉しいよ」

  緊張と不安で心臓はバクバクしていた。

「焦らしても、気分悪くなるだけだから単刀直入に言うね」

  暑さも手伝って、汗が滴れる。

「もう、終わらせようかなって」

  千津は静かにだけどはっきりと口にした。

「別れるってこと?」

  この後に及んで、僕はまだ目をそらそうとしていた。

「違うよ。もう言いたいなって」

  情けない僕が出てしまう。

「いいよ、言わなくて。代わりに僕が言うからさ。あ、なんなら手紙は? 手紙でも気持ちを込めれば」

「手紙もダメなの。心の中で言うのは大丈夫なのにね。意味わからないよね」

  千津が自嘲気味に笑った。僕の目を見て、一瞬逸らしたあとまた僕の目を見た。

「でもさこの約2ヶ月間うまくいってたんだからこれからだって。それに今じゃなくても」

  少し早口になる。僕は目をそらしてしまった。

「しょーくん」

  千津に名前を呼ばれて、再び見つめ合う。

「私だって出来ることなら、このまましょーくんと歩きたい。けどね、怖いんだ。ふとした拍子に言っちゃうかもしれない。きっとその場面は言うのにふさわしい、言うべき場面なんだと思う。でもやっぱり嫌だよ」

  本当の意味で、千津の言いたいことはわからない。ありがとうなんて身近な言葉だから。でも、わかることもある。もし本当に最後のありがとうになるのなら納得のいくありがとうがいい。

  それでも、僕はまだ拒む。

「そんなの、なんで今。卒業式後とかさ夏休み初日じゃなくても……」

「私がいなくなったあとしょーくんが立ち直る時間が欲しいかなって。先生になって欲しいから……。あとさ、卒業式なんて感謝することばっかりじゃん、辛いよ。中学のときも、あと少しってわかってたから、あまり言わなかった。やっぱり、みんな言うんだ、ありえないって」

  千津の目から雫が落ちる。

「言いたいのに言えないってこんなに辛いんだってその時に思った」

  僕は、どうしたらいいのかわからない。ただ、千津の目を見つめるしかできない。

「それに卒業式が終わってからも成人式とか結婚式とかいろんなところで言うべき時が来るんだよ……耐えられる気がしない」

  僕の口がまるで何かに操られているかのように動く。

「出なければいいよ。感謝しなきゃいけないところに出なきゃいい。結婚式もあげなきゃいい。感謝なんてしなくていい。僕は……」

  なんて身勝手なんだろう。我ながら殺意が湧く。

「嬉しいよ。そんなに想ってくれるしょーくんに……言いたいな」

「僕に感謝なんてしなくていいから、そばに居てよ」

  千津はボロボロと涙をこぼしながら首を振る。

「それは、私が嫌だよ。だってしょーくんには感謝したいことがいっぱいあるんだもん。一回じゃ足りないくらい」

  情けない僕は、まだ逃げ道を探していた。

「千津がいないと僕は、進めないよ。1人じゃダメだ。地図の無い旅なんて僕には無理だ」

  千津が目を細める。止まらない涙を手の甲で拭う。それでも止まらない。

「そのまんま私が地図だってこと? でも字が違うよ」

  ここに来て改めて思う。僕は本当に千津が好きだ。

「でも、僕にとっては……」

  僕の言葉に被せるように、千津が言葉をつなぐ。

「誰かの受け売りかもしれない生意気かもしれないけど、生きること死ぬことに説明書がないように人生に地図なんてないと思うよ? みんな分かれ道についたら直感でどっちか決めたり迷ったら分かるとこまで戻ったり、行ったり来たりしながら進んでるんだよ。私だって、出来たらしょーくんと一緒に2人の人生を歩きたい。だけどそれじゃダメなんだ。しょーくんは、本当の本当に本気で感謝したことある? 私は、最後を使ってでもしょーくんに言いたい、な……。ね、言わせて?」

  僕は何も考えていなかったのかもしれない。千津が、どれだけの想いを殺してこれまで生きてきたのか。僕たちが普段何気なく使っているありがとうは千津にとってはかけがえのない言葉で、毎日一体我慢するのにどれだけ精神をすり減らしているのか。

「……千津、僕も言いたいよ。ありがとうって」

「うん……」

「千津、ありがとう。本当の本当にありがとう。千津と同じクラスになっていなかったら、きっと僕には悲惨な高校生活しかなくて、先生になりたいとも思わなかったかもしれない。千津がいてくれて、出会えて本当に良かった。今までで一番の幸せだよ。カスミソウは一生大事にする。本当にありがとう」

  千津が頷いた。気持ちを込めるように深呼吸する。

「私もね。しょーくんと同じクラスになれて良かったよ。実はね、初めて言葉を交わしたあの日、みんなが帰った教室から外を見てたときしょーくんが来たのが分かったの。なんとしてでも印象付けたいと思って机の上でブリッジしたんだ」

  その時の光景を改めて思い返して吹き出してしまった。そんなつもりはなかったけど、口を挟む。

「あれは衝撃だった。大成功だね」

「うん。いつ来るかわからなくて、本当にびっくりしちゃったけど」

  千津も笑っていた。

「きっと、しょーくんはこうなることがわかってたんだと思う。それなのにこんな私と付き合ってくれて、そばにいてくれて、笑ってくれて、感謝してくれて、ほんっとうにーー」

  千津が息を吸う。それから、満面の笑みを浮かべた。

「ーーありがとう!」


 

  ーー思い出はときに残酷でときに慈悲深い。こんなにも尊いものなんだな。

朝っぱらから何考えてんだと自嘲する。

  毎日、生徒が登校するよりも早く、学校に来て教室に立つ僕を見たら千津は笑うだろうか? それとも、僕らしいと言ってくれるだろうか。目の前の花を眺めながら、考える。

  念願叶って、今は高校の教師をしている。しかも、3年生で教室も当時千津と一緒だったクラスだ。

「先生、おはようございまーす」

  だいたい生徒の中で一番の女生徒が教室に入ってきた。名前は、草加糸花(くさか いとか)だったな。

「ああ、おはよう」

  その生徒はカバンを自分の机の横にかけると、こちらに近づいてきた。

「ずっと気になってたんですけど、それカスミソウですよね?」

  当時の僕が無知だっただけで、やっぱりそれなりの知名度はあったのだろう。女生徒は事も無げに言う。

「そうだよ」

「先生カスミソウ大事にしてるじゃないですか。カスミソウの別名って花糸撫子、ギプソフィラって言うんですよ」

「もしかして、糸花と花糸って」

  草加を見ると、得意げに笑っていた。

  そう言えば、カスミソウを千津と買いに行ったとき「別名は花糸撫子って言うんだよ」と得意げに言っていた。

「そうです。親がカスミソウ好きなんですよね、猫2匹飼ってるんですけど、ギプとソフィラってつけるぐらいですよ」

  僕も笑っていた。正直、猫にソフィラはまだしもギプはダサい。

「それはすごいな」

「でしょ。でも、先生毎日よく飽きないですよね。私なんて聞くのも飽きちゃいました。何か思い入れとかあるんですか?」

「ああ。大切な人から貰ったんだ」

  千津のことを思い返しながら言う。

「ええー、彼女さんとか?」

「まあね。もう手の届かないところに行っちゃったけどね」

  結局あの日も、通夜も葬式でも僕は泣くことができなかった。

「……そう、なんですね。でも、彼女さん本当に先生のこと好きだったんですね」

  草加は、幼さを残しながらも大人びた表情でそんなことを言う。

「だといいな」

「きっとそうです。だって、カスミソウの花言葉って無垢の愛とか幸福とかですよ。あと、ありがとうっていうのもありましたね」

  僕は、思わず草加をじーっと見つめてしまった。草加が戸惑いの表情を見せる。

「今、なんて?」

「えっ、無垢の愛とか」

「そこじゃない」

「えっと、ありがとうですか?」

  わからなかった問題がやっと解けた気がした。これが、泣けなかった理由か。

  生徒の前で泣くのはどうかと思ったけれど、止められなかった。

  涙が頬を伝う。

「ちょっと先生! なんで泣いてるんですか? なんか私が泣かせたみたいじゃないですか、いやある意味泣かせたんですけどっ」

  草加が慌てている。ハンカチをスカートから出すと、僕に差し出した。

「もう、しっかりしてくださいよ」

  僕は素直に受け取った。

「ありがとう」

  僕は、なんで千津がカスミソウをプレゼントしてくれたのか知ろうとしなかったのだ。自分で言ったのに、"知ろうとする努力もしないで"と。

  結局、またバスケをする日も来なかった。あんなにも、同じ日を過ごしていたのに。考えればきりがないほど後悔はある。それでも、戻りたいとは思わない。後悔も僕の原動力だ。今でも千津のことは好きだ。それでも、前に進むと決めた。僕自身のために、千津のために。

『ありがとう』

  千津の声が聞こえた気がした。

最後まで読んでくださった方ありがとうございます^^

矛盾点や誤字脱字等ありましたら、ご指摘いただけたら嬉しいです。


では、また。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 少しずつ仲良くなっていく主人公と千津の関係が面白かったです。特に出会いのありがとうが言えないという部分は興味深かったです。本当はありがとうと言いたいのだろうと、主人公が推察していくことで、…
[一言]  命を捧げてまで、感謝の気持ちを伝えた女性は素敵だと思います。
2017/03/04 16:23 退会済み
管理
[一言] ありがとうと言ったら死んでしまう。 面白い設定です! 最後に少し切なくなりました。
2017/02/12 16:15 退会済み
管理
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