五十七話『フェンリル』
またしても遅くなり申し訳ございません……。
色鮮やかに、不吉な夜空を彩る紅色の螺旋が、男が掲げた腕より放たれた。
そしてそれは、意志を持つかのように流れ、軌道を曲げるとフェンリルめがけて一気に降り注ぐ。
やがて、流星の尾の如き螺旋が一通りフェンリルの中へと収まると、彼の首元にて緩やかに回る光輪は輝きを増して、力強く脈打った。
彼の毛並みを伝う血色の稲妻は、様子を見守る冒険者たちの動きを止めさせるには十分なもので。一同が何かが起こる予感――――いや、それは既に確信と呼んだ方が良い感情を抱く。
『ウオォォォォォォンッッ!!』
耳をつんざく遠吠えをあげ、フェンリルは覚醒した。
以前より赤かった双眸には殺意の具現ともとれる光を宿し、嵐のような魔力の塊が渦巻いている。
「一体何が――――」
その先はゴウゼルが遥か後方に吹っ飛ばされる音でかき消された。
彼以外の全員が、何が起こったかの理解も追いつかず、ただ呆然と驚愕に表情を染めた。そして、一呼吸の間を置いて、ようやくフェンリルが攻撃したのだと理解する。
『フゥゥゥッ! フゥゥッ!』
息を荒げる狼には、もはや先ほどまでの気品など微塵たりとも存在しなかった。
あったのは、ただ目の前の獲物の息の根を止めることしか頭にない、一匹のケモノの姿。
「目で、追えねえ……だと」
ようやく状況を理解できたサイケが、フェンリルが見せた、その音すらも上回る超常的な身体能力に息を呑む。
そして、その事実は彼の脳裏に考えたくもない現実を突きつけた。
――――冒険者の、長年培ってきた頂点に最も近い自分たちの五感が、この魔物には全く通用しない。
『A』ランクにのし上がってから久しく味わうことのなかった無力感が、今この場でサイケに襲い掛かる。
……だが、その僅かな『硬直』は、決定的な『隙』を生んだ。
フェンリルは前傾に体を倒し、次の獲物に狙いを定める。ほんの一瞬の間に満たない予備動作に、サイケはこれから引き起こされる惨状を幻視し、背筋に悪寒が走る。
直後、彼は細槍を握る手と地を踏みしめる足にありったけの力を込めた。
「――――させるかァァッ!」
両者の姿が消えるのはほぼ同時。しかし、初動はサイケが遅れを取った。
まだ認識すら追いついておらず、唖然とした表情に間抜けな声を漏らした冒険者にフェンリルの爪が迫る。
だが、辛うじて間に合ったサイケの槍によってそれは阻まれた。
――――ガキッッ!!
おおよそ爪と槍が衝突したとは思えない衝撃と金属音が発生し、そこでようやく標的にされた冒険者は今しがた己が命の危機にあったのだと理解する。
受け止めたサイケといえば、両の腕に途轍もない負荷がかかると同時、骨にひびが入る音と一部の筋線維が裂けたような感覚を覚え、冷や汗をにじませていた。
「ゴウゼル……はやく起きてこいッッ!」
聞こえているかも定かではない言葉を、自身の仲間に対してヤケクソ気味に言い放つ。
「……クソが。ついに本気ってわけか?」
守るので手一杯にさせられた屈辱を晴らすように、言葉を解さない魔物に問いかける。
返事は予想通りの唸り声。
沈み込む下肢に苦笑いを一つ。後はないと、温存していた魔力をここぞとばかりに練り上げはじめる。
「……ったく、ひどすぎて笑えるっつうの。本来は奥の奥くらいの手だが――――『剛化』ッッ」
――――『剛化』
『強化』を遥かに上回る筋力、耐久力を与え、さらに『強化』にはない『感覚強化』をも付与する。だがその代償として、生命維持に必要な最低限の魔力以外全て消費されるという、まさに諸刃の剣である。
そして、詠唱と呼ぶには短すぎるそれを吐き捨てた彼は、たった今物理の枷から解き放たれた。
そんな肉体に物を言わせ、強引に槍にかけられたフェンリルの前脚を振り払う。次いでに繰り出すは超高速の刺突。
『グルゥッ!』
宙に浮いた右前脚に初めてまともな一撃が入った。
その機を見逃さず、傷を広げるためにサイケは手前に槍を振り上げる。毛皮が切り裂かれて、鮮やかな肉がその隙間から覗いていた。
それを見た者らは一斉に表情が明るくなった――――が、しかし、その直後に再び驚愕と絶望に昏くすることになった。
「――――が、はっ」
見ていた者らは、サイケの体が横に向かって『く』の字に折れ曲がった幻を見た。
あれが現実であってたまるかと。砲弾のごとく、水平方向に飛ばされていく彼は、きっと混乱に陥った自身の頭が見せている“幻”なのだと。
……そうでなければ、『A』ランクの冒険者二人が、魔物相手になすすべなく瞬殺されたということになってしまう。
そして、満足げにフェンリルは鳴いた後、次の獲物を狩るべく吟味を始めた。
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「てめえッッ!! 何しやがったッ!」
胸倉を掴んで、焦燥に満ちた形相で自分を揺する名も知らぬ冒険者。
何も知らぬなら当然の反応だろうと、侮蔑と憐みを込めた視線と共に答えた。
「何、手加減をやめろと命令しただけのことだ。気持ちばかりの俺の魔力を授けてな」
「――――お前は、何が目的なんだ。こんなことをして……・なにが楽しい?」
「目的、か」
理解ができない者を見るかのような眼差しと共にそう問われ、僅かに考えを巡らす。
正直、ここにいる者達に恨みは全くない。だが、興味がないのもまた事実。
自分の使命――――『魔物召喚』、高位の魔物に対する『隷属』の使用実験と、『剛薬』の生成に被験者のデータ収集――それら四つさえできれば、他はどうでもいい。
全ては王の御心のままに。だから、今もフェンリルの爪の、牙の、尾撃の餌食になっている者達を見ても特に心が動くことはない。
それを言ったところで理解されるはずもなかろうし、されたくもなかった。
「……お前に言って何になるというんだ?」
自分でも驚くくらいに、冷たく嘲るような声が出たのが分かった。馬鹿にされたと理解するまでに少々の時間を要し、やがて、みるみるうちに男の眦が吊り上がっていく。
「――――ッッッ! 貴様ァっ!」
そう叫んで、刃を振りかざそうとした男に、遠くで蹂躙される仲間たちの悲鳴が届いた。
「良いのか? ここで私を殺そうが、あのフェンリル自体の解決にはならないぞ。それなら、向こうで加勢した方がまだ可能性はあると思うがな。……尤も、お前ら如きにアレが倒せるとは思えないが」
「……クソがッ!」
荒々しく男は掴んでいたローブから手を離し、フェンリルが暴れる場所へと仲間を連れて走っていく。
その際、彼らからは散々な罵詈雑言を浴びせられたが、そのどれも心に響かなかった。
しかし。
「……何でこいつらは俺とフェンリルが来ることを知っていたんだ?」
仰々しい口調を正して、普段通りの調子に戻り一人呟く。
「アランか? ……いや、そんな自分が疑われるようなこと、あいつが言うわけがないか。となると、他に考えられるのは――――内通者の存在か」
もしもアランがフェンリルの存在を報告したとしたら、何故お前はその存在が認知できるまでの距離にいて無事だったのかと、逆に疑いの目を向けられることになってしまう。
他の人間がいたとしても同様。または、仮に本当に見たという者がいたとしても、常に自分の近くにいるフェンリルが気づかない筈もない。
つまり、消去法的にその結論に収束するわけだが、いまいち腑に落ちない。
というのも、ギルドに潜入しているのは王宮から送られた、ごく一部の信頼できる者だけであり、内通者になる可能性が限りなく低いのだ。
“よほどのことがない限り”、なんて考慮すら不要な程に陛下に対して忠誠を誓っている。そんな彼らが果たして情報を漏らすなんて真似をするだろうか。
「……それに、なんか上手く事が進みすぎている気がするな」
フェンリルを引き連れての登場に、冒険者達と健闘させた後、『隷属』を用いた『強化』を行い実力差を見せつける。そして、『剛薬』を服用したアランと、命令で手を抜くようにしたフェンリルを戦わせ、頃合いを見て撤退し、王都へと帰還。
清々しいまでの自作自演。それが今回の策の概要である。
今のところは順調なように見える。
しかし、何故だか、それが今はどうにも不安を煽るのに一役買っている。こういった仕事を続けた故か、こういった不吉の予兆には敏感になっている。
それが、今回は何かがズレているのだと予感させた。
『ポーション』は残り二本。残存魔力量はまだ半分以上。『隷属』の命令発動、アランへの合図、やむを得ない戦闘、それ以外のあらゆる要素を考慮してもまだ十分すぎるほどだった。
本来ならばそんな感情を抱く要素などない……はずなのに。
「……油断は禁物ってことか」
漠然とした不安感は、自分の口からそんな言葉を引き出させる。
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「――――あいつ、『迷宮』の魔物と同格かもな」
フェンリルの動きを見てそう思うと同時、いよいよ事態は終幕に近いと悟る。
あそこまでタガが外れたような速度で動かれては、流石の『A』ランクも対応できなかったのだろう。何やら『剛化』を使っていたような気配がしたが、あれによる感覚強化は『激痛』ほどではなかったようだ。
今もこちらに微かに悲鳴、叫び、僅かに武器が衝突する音が風に乗って聞こえてくる。
だが、それもそう長くはないだろう。もう少しばかり待っていれば、やがて立ち上がる者はいなくなり、晴れてアランの出番というわけだ。
そんな光景を、さも他人事かのように眺める零斗は「……それにしても」と続ける。
「なんでカリスは相手の策にのったんだ?」
報告をしてからこの件について全く関わっていないため、あの後どのような策が練られたのかは自分の知るところではない。
しかし、まんまと敵の策略に乗って、こんな意味のない戦闘を繰り広げるのはどういう思惑があってのことなのか。ただ単に流す必要のない血が流されているだけなのではないかと、そう思わずにはいられない。
そんなことを考えている間に、また一つ声が消える。
「……このままだとマジで死人が出るぞ」
眉間にしわを寄せ、そう呟く。
「まさか、本当の黒幕はあいつだったとか言うつもりじゃねえだろうな」
考えられない話ではない。
むしろ、そう考えれば、まるでお膳立てでもしているかのようなこの状況にも納得がいく。
だがあの、自分をして『食えないやつ』だという印象を抱かせた男が、そんな単純な理由で動くのだろうかという気持ちもある。
結局、今の時点では相手が望む状況ができている、ということしか俯瞰者の自分の目には映らなかった。
ここからはたしてどう動くのか。
そんな懐疑を抱いた胡乱な眼差しを、今も腕を組んで戦況を見守る彼に向けることしかできなかった。




