ロザリア
……どれくらいの時間が経ったのだろうか。長いようで、長い時間だった。しかしそんなことはどうでもいい。重要なのは今、目を覚ましたばかりの少女のことだ。
確かな体温を伴って、彼女は自分に向けて、言葉を紡いだ。
「おはよう」
当たり前の挨拶。だけどそのたった一言を、どれほど待ち望んでいただろう。
/1.
「夏祭りに行かないか」
「え」
「嫌ならいいんだ。だけど、去年は行きたがっていただろう。今年こそどうだ」
首筋を爪でなぞりながら、もう一度「嫌ならいい」と繰り返した。
彼が自分のうなじを掻くのは、緊張している時のサインだ。そのことを知っているミクは、だから迷うことなく「うん。行こう」と答えた。
夏祭りというのは、自分達の住む市が毎年行うもののことだろう。八月最後の三日間がそれに費やされ、それを締めくくるべく打ち上げられる盛大な花火は、ちょっと見ものであるらしい。見たことはない。昔あったかもしれないが、覚えていない。現在は鬱蒼と葉の生い茂った木々に遮られて、音も、光も、窓からは伝わってこないのだ。
ミクは体も起こさず、ベッドに横たわったまま少年に応対する。正確には、起こせない。腕にも、足にも、力を入れることができない。
八歳の時に体に異変を覚えて、そのまま四年間、こうして病室に引きこもっている。はっきりとは誰も言わないが、治る見込みはないようだ。始めのうちは、毎日のように友人だったり、親戚だったりが見舞いに来たが、数年も経つとやがて諦めたかのように来なくなった。
それでも病院の要求する費用は膨大だ。毎日のように足を運んでいた両親は、それを稼ぐ為に身を粉にして仕事に邁進している。おかげでなかなか会えないが、それに文句をたれるのは筋違いというものだろう。そう思える程度には、ミクは子どもであることを諦めていた。
誰も隣にいなくなって、唯一残ったのが、今自分を背負って歩いているこのヒロという少年だった。
「重くない?」
「重いわけないだろ、病人」
ざく、ざく、という砂利を踏みしめる足音のみが、二人の進む道に響いた。外出の許可は取ってあるとヒロは言っていたが、わざわざ裏口から出て、こうも静かなところを歩いているのを鑑みると、その言葉はあまり信用しないほうがいいかもしれない。
「……あんまり人のいるところは、体に障るだろうが。正面から出ると看護師がうるさいし」
許可は取ったぞ。言い訳っぽく呟きながら、ヒロは足を止めた。
「――ん。着いたの?」首を動かして、周囲を見回す。「……誰もいないけど」
「穴場なんだよ、ここは……」
はぐらかすように言って、地面に腰を下ろす。「座れよ」
「座れない」
「……だったな。補助ロボットは使わないのか」
使ってないわけではない。腕には、それを装着してある。でないとおんぶなんてしてもらえるわけがない。最低限、しがみつく程度の腕力が発揮できるようにはなっていた。しかし、それ以上の補助は望むところではない。
「金がかかるからか? この国は保険体制も整ってるし、そんな気にする必要はないと思うけどな」
まあしょうがない。本人の自由だ。ヒロは諦めたように、崩した足の上にミクを乗せた。
「くっつかれると暑いんだけどな……」
それが本音のようだった。
花火が上がった。
夜空に広がる色とりどりを眺めながら、ふと思いついたようにヒロは呟く。
「アンチエイジング」
「んー?」
ぼんやりと目を奪われていたミクは、意識も半分持っていかれながら生返事する。
独り言に近いのかもしれなかった。気のない返事を意に介すことなくヒロは続けた。
「現在のアンチエイジング技術が、もはや『不老』の域に達していることは知ってるよな?」
「そうなの?」
「そうなんだ。例えばあの病院にいるナースたちは平均して二〇代に見える。だけど実態は全員五〇過ぎ。そんな感じだ」
「えっ」さすがに花火どころではなかった。「それって本当?」
「冗談でも言えないだろ」
嫌な世の中だ。
「……それで結局どういう話? あなたは実年齢ではとっくに成人してるってこと?」
「違う。おれはちゃんと小学校に通う歳だ。大体そうだとしてもこんな外見で得することなんてないだろ……」
めんどくさそうに答えるヒロ。ありえそうな話だと思ったのだが。
「小学生っぽくないんだもん……」
「お互い様だ。よっぽどのことがない限り、おれは自分でそんな技術は使わない」
それは。
よほどのことがあれば、ためらいなく利用すると言っているようにも聞こえた。
「……これを応用すれば、もしかしたらお前は助かる――」
いや。と否定。「今死ぬことが、なくなるかもしれない。病の進行を遅らせることができるかもしれない。……成長と引き換えに」
独り言。思いつき。ヒロはばかばかしいと首を振った。
「……私は」ミクはぽつりとこぼした。「たとえそれで解決しても、嬉しくないかなあ」
だって、大人になりたいもん。
子どもでいることは諦めた。だけど、自分は未だ大人ではないのだ。
現在を諦め、未来に憧れる。
「なるほどな……」そう呟いた少年の表情は、光量が足りなくて、よく見えなかった。
……それが、一年前のことである。
/7305.
ミクは目を開けた。寝起きの頭で時間を確認する。午後五時。昨日眠りに就いたのは午後四時頃だから……、! 眠り過ぎてしまった。起きていてもできることなどないのだから、別にいいのだけど。
しかし、ちょっと肌寒い気がする――『肌寒い』? 夏なのに?
風邪かな? と考えて、苦笑い。不治の病に罹っておいて、今さらなんで風邪なんかに怯えるのだろう。怯えてはいないが。自分のことがよくわからない。
「……ん。おはよう」
ずっといたのだろうか。自分が横たわるベッドの脇に見慣れた少年の姿を見つけた。ヒロは挨拶を返さない。それはいつものことだ。
「昨日の……」
「うん?」
「昨日の、夕方。最後の会話のことを……覚えているか?」
急に何をと面食らったが、素直に思い返す。
確か。
「ロザリアがどうとか……」
「そうだ。ああ、その通りだ」
ほっとしたように言った。「よかった……」
む。「そこまでリアクションが大きいと……なんだか、ばかにされてるみたいに思えるんだけど」
たった丸一日前……体感的にはついさっきのことを、簡単に忘れると思われているのだろうか。
「いや、違うよ。こっちの話だ」
見たこともないくらいに柔らかな笑みを浮かべて、ヒロは言った。
ちりっと海馬を刺激する感覚があった。見たことは、ある。去年、はっきり見えなかった表情が、今のこの顔に近かったはずだ。
けれど、全体、なんで全く違うシチュエーションで、同じ笑顔ができるのだろう。
去年の花火。
今年はまだ、誘われていない。
昨日は自分の方からさりげなく匂わせたものの、上手く逃げられた感がある。
「行くか」
ヒロは立ち上がった。ミクは慌てて「どこに」と訊ねる。
「夏祭りだ。……今年こそ行こう」
ヒロは厳かに告げた。
ミクは言う。
「去年も行った」
「そうだったな」
ざく、ざく、と砂利を踏みしめる音。
擦れる木の葉の音色に包まれる病院。こんなに古かったろうか? 去年、あの夏祭りの日に見て以来、外に出ていないが、一年とは、案外長いのかもしれない。
「ロザリアの話をしよう」ヒロは汗を拭いながら、呼吸は乱さず口火を切った。
「昨日、それは聞いた」
「まあ聞け。
……ロザリア・ロンバルド。【世界で最も美しいミイラ】の名前だ。一九二〇年一二月六日、二歳で命を落とした。それを嘆いた両親が、彼女の姿を残そうとして、それは現在も果たされている」
「うん」とりあえず頷く。何が言いたいのだろう。
ヒロはミクを背負い直すと妙に平坦な口調で続けた。
「それは、ロザリア本人が、望んだことなのか?」
「……? 望むもなにも、死んでるんだし、二歳だし」
「ロザリアの写真を見たことがある人間なら、彼女が死んでいることに、違和感があるかもしれない。じっと見ていると、いつか目を覚ますんじゃないかと、そんな気持ちになるんだ」
ぴたり。と止まる。
「……着いたんだっけ。『穴場』に?」
「いや、まだだ……。ちょっと、ここで話そう」
なんとなく、言いたいことがわかるような気がした。「やっとか」という気分にさえなった。
多分、自分はそろそろ死ぬのだろう。
昨日までが順調すぎたのだ。健康な人間でさえ、ふとした弾みで死ぬというのに、今まで生きていたのがおかしいのである。
つまり、これは死ぬ前の思い出作りというやつだろう。花火は、綺麗でいい。
止めようもなく震えるミクの体、それに気づいていないように、ヒロは淡々と言った。
「死んでいない人間を、ミイラみたいに、勝手に死の領域に突っ込むこと。それは罪だろうか」
「え?」何を言ってるんだろう、とミクの頭に空白が生まれた。どうも、先ほどまでの予想とは違うみたいだけど。
ヒロは言う。例えば。
「例えば、冷凍睡眠。おれは、お前を、不治の病が治る時代まで眠らせた」
………………。
さすがに予想外だった。しかし自分の頭の回転は思った以上に早い。口をついたのは質問だった。
「えっと、何年くらい……?」
「花火を見てから、二〇年になる」
「二〇……」想像がつかない。まだ、その半分くらいしか生きていない自分には。「外見が変わってないのは……ああ、アンチエイジング?」
「お前が起きた時、混乱させたくないから」
「えっと、えっと、えっと」
「あれ、混乱させたか?」
しないとでも思ったのだろうか。こいつ、実はばかなのかもしれない。
もうなんていうか、なんていうか、いうか、
「言おうよ!」
冷凍睡眠時は、言うまでもなく『仮死状態』になっている。
そして、『再起動』できずに、死ぬリスクもある。死なずとも、脳に異常をきたすかもしれない。
絶対に本人の許可が必要なはずなのだが。
「悪かったよ」
「悪いですむ問題じゃ、確実にないんだけど……」
そこで、花火が上がった。
ヒロは歩き出した。誤魔化しているように思えたが、花火は楽しみだったので、動けない以上は黙るしかなかった。
「とりあえず、まあ」
二〇年分の重さを感じさせない幼い表情で、ヒロは言う。「退院おめでとう」