オバーチュア
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グレーの作業着を着た男たちが玄関から出ていった。真昼間からの搬送作業のせいで、男たちの作業着は汗を吸って洗濯した後のように暗く色が変わっていた。今年は猛暑と言われるだけあって、彼岸を過ぎても一向に太陽の力が衰えず、ピーク時そのままの真夏日が続いている。気の毒に思って冷たい麦茶を用意したのだが、やんわりと断られてしまった。客から物をもらってはいけない決まりになっているのかもしれない。
あんなに苦労して仕事しているのに、客にはへこへこと頭を下げないといけないんだな、と圭二郎は男たちの態度を思い出して「お疲れさま」と苦笑した。自分が接客とは無関係な仕事であることがありがたい。
圭二郎はリビングに残された麦茶を手にとると、今しがた我が家へとやってきた巨大な楽器へと目を向けた。新品のアップライトピアノ。アップライトピアノという言葉自体を知ったのが最近なのだが、コンサートホールで目にするようなグランドピアノに対し、一般家庭向けにコンパクトになったピアノの種別らしい。それでも安い中古車ぐらいの値段はするため、圭二郎にとっては思いきった買い物であった。いざ買ってみると、我が家がピアノを置いたことで急に高尚になった気がして悪くなかった。
娘の郁美はもうすぐ十五歳になる。音楽、とりわけクラシックが好きで、小学校二年生のとき自分からピアノを習いたいと言い出した。圭二郎は洋楽、それも八十年代に流行ったようなものばかり聴いているし、妻の景子はJポップをたまに聴くぐらいである。郁美はまるでアヒルの両親の間に生まれた白鳥だ、とよく笑ったものだ。だからピアノ教室へ熱心に通う郁美になかなかピアノを買ってあげられなかったのは心が痛かった。花を栽培して出荷する圭二郎の収入は決して多いとはいえず、細々とした貯金が貯まってきた今になってようやく踏ん切りがついたのだった。
「ただいま」
圭二郎がソファに身をあずけてしみじみとピアノを眺めていると、玄関から威勢のいい声が響いてきた。ドタドタと慌ただしい足音を立てながら、シュンがリビングへと入ってきた。
「おう、おかえり」
シュンは乱暴にランドセルを放り出すと、テーブルの上にあった麦茶入りのコップをひったくるようにして掴み、あっという間に空にしてしまった、そして再び猛々しい音をたてながら「いってきまーす!」と言って玄関から出ていった。部屋の脇に堂々と鎮座しているピアノに気づこうともしない。
圭二郎が窓から顔を出すと、シュンのことを待っていたらしい友達の姿が見えた。シュンは靴もちゃんと踵まで履かずに慌てて友達のもとへ合流すると、家の前の路地を楽しそうに走っていった。
「おーい、車に気をつけろよお」
圭二郎が子供たちの後ろ姿に声をかけると、シュンが振り向きもせずにブンブンと手を振った。心配しなくても大丈夫だ、の合図だと解釈して、圭二郎は窓を閉めた。
行き先を言っていなかったが、どうせいつもの神社に決まっている。圭二郎が幼いときに神社で友達と遊んでいた頃のように、シュンたちは大人からみたら何が面白いのか分からないような遊びをしているのだろう。最近の子供はテレビゲームばかりしていると聞くが、自分の息子やその友達を見ている限り、まだまだ男の子は元気いっぱいだなと感じる。草や泥をいっぱいにつけながら、腹が減ると餌付けされた猿のように家へと戻ってくる姿が、圭二郎には懐かしくも羨ましくもあった。
「うそ! すごーい」
中学から帰ってきた郁美の反応は、圭二郎の予想よりはるかに上々だった。何も知らずにリビングへと入ってきた郁美はまず口をあんぐりと開け、それからニヤニヤしている圭二郎と景子へと顔を向け、次にぴょんぴょんと興奮して跳ねまわりはじめた。リビングの床に投げ出されたカバンを見て、姉弟で変なところが似ちゃったなと可笑しくなった。
「えー、これ、だって、嘘でしょう?」
最近色気づいてきたと思っていたが、無邪気に喜ぶ姿はまだまだ子供だ。こう素直に喜ばれると、無理して買ったかいがあったというものだ。
「誕生日プレゼント。まだちょっと早いけど」
景子が微笑みながら言うと、郁美がばっと抱きついた。
「おいおい、買ったのはおれだぞ」
圭二郎がアピールして両手を広げた。郁美は「ありがとう」と言ってくれたが、飛び込んできてはくれなかった。まったく、男親は損である。
郁美はピアノを早く弾いてみたい反面、どこか躊躇があるらしく落ちつかなかった。その様子がまるで恋人の前でそわそわしているようで少し嫉妬した。ばっきゃろう、お前に娘はやらんぞと圭二郎がピアノを睨んでいると、「ただいま」と声がしてシュンが帰ってきた。
これだけのお祭り騒ぎだ。さすがのシュンも本日二回目の帰宅にしてピアノの存在に気づいたようだった。
「なにあれ」
シュンが口を開けた顔は郁美そっくりだった。
「なにって、ピアノに決まってんだろ」圭二郎が笑った。
「シュン、あんた絶対触っちゃダメだからね」
郁美がピアノを庇うように体で覆った。郁美の言い方にムッとしたのか、シュンがずんずんとピアノに近づいていった。
「あっ、ちょっと、触っちゃダメだってば!」
「なんで」
ムキになったシュンと郁美が腕をつかみあって取っ組みあいを始めた。喧嘩なんていつものことだが、大金を叩いて買ったピアノの危機だ。圭二郎が慌てて仲裁に入った。
「こら、喧嘩するなら外へ行ってやれ」
「じゃなくて、喧嘩はするな、でしょ」
景子が呆れながら言った。圭二郎はシュンの脇を抱えてピアノから遠ざけた。
「べつに、こんなのどうでもいいよ」
圭二郎に引きはがされると、シュンはふくれっ面をして洗面所へと歩いていってしまった。実際ピアノなんてどうでもいいのだろうな、と圭二郎は思った。触っちゃダメと言われたから触ってみたくなっただけのことなのだ。
「郁美も、あんまりシュンのこといじめないの」
「いじめてなんかないじゃん」
景子に窘められると、郁美も口をとがらせた。それでも洗面所に行って「シュン、ごめんね」と謝りにいくあたり、いい子に育ってくれたなあと思う。
我が家の日常に初めて参加したピアノが、圭二郎にはニコニコと微笑んでいるように見えた。
久々に雨が降った。畑で育てている野菜にはいいお湿りになったが、肝心の花を育てているハウスにとっては厄介事だ。熱気がこもるのを防ぐために昼間はハウスの上部を開けているので、雨が降ったら急いで閉めにいかないといけない。シャツを絞れるほどに濡らしながら仕事を終え、ハウスから戻っていると、車のワイパーが片方突然動かなくなってしまった。幸い運転席側のワイパーは生きていたので、視界が半分になったフロントガラスのまま、ゆっくりと我が家まで運転していくことができた。この軽トラックも相当古いので、新しいものに買い替えたかったのだが、ピアノを買ったことでしばらくは無理になった。
狭い路地を抜け圭二郎が家へと着いたとき、ピアノの音が聞こえてきた。メルセデスベンツじゃなくて、そんなような名前の作曲家が作った「春の歌」という曲だ。いま郁美が練習している曲らしく、前に圭二郎に作曲者と曲名を得意気に教えてくれたのだ。車のドアを閉めながら正確な名前を思い出そうとしたが、一度メルセデスベンツが浮かぶとそこから離れられなかった。
それにしても、郁美がこんな早い時間から家にいるのは珍しい。郁美は中学から吹奏楽部に入り、ほとんと毎日部活をしてから帰ってくるようになった。今日は休みなのだろうか。
生ぬるい雨の中を駆け抜けて玄関の前に立ったとき、ピアノの音が止んだ。シャツの裾を絞ってから家の中へとあがると、リビングにはシュンが一人、カーペットの上に横になっていた。
「おかえり」
圭二郎が言った。帰ってきたのは圭二郎のほうなのだが、つい癖で言ってしまう。
シュンは猫のように体を伸ばしながら「おかえり」と返してきた。雨のせいで今日は遊びに行かないようだ。
「あれ、おまえ一人か?」
「うん」
「郁美は?」
「知らない」
圭二郎は郁美の部屋を覗いてみたが誰もいなかった。ドアを開けてからノックをしなかったことに気づき、郁美がいなくてよかったなと安堵した。
さっきのピアノの音は気のせいだったのだろうか。首を傾げながら圭二郎は洗面所へ向かい、たっぷりと水を吸ったシャツとズボンを脱いだ。下着までびしょびしょだったのでパンツも脱いだが、脱いでから替えの下着がリビングに干してあることに気づいて裸のまま取りに行った。郁美がいたら大騒ぎだ。最近は裸でいると景子までしかめっ面をするようになってしまった。
「さっきさあ、ピアノの音がしたような気がしたんだけど」
パンツを履きながら寝そべっているシュンに話しかけると、シュンが小さく震えた。
「知らない」
おや? と圭二郎は眉をよせた。何かを隠しているような、どこか不自然な言い方だったからだ。
「もしかして、ほんとは郁美帰ってきてるのか?」
言ってからそりゃ大変と圭二郎は慌ててズボンを履いた。シュンは黙ったままごろごろと転がっている。やはり様子がおかしい。
「なあ、なんか父ちゃんに隠してるだろ」
もしかすると郁美が部活をサボッて帰ってきていて、怒られないように隠れているのかもしれない。別にそんなことで怒りはしないのに。気分が乗らないときぐらい誰にだってある。
「ごめんなさい」
「え?」
シュンが唐突に細い声で謝ってきたので、圭二郎は面食らってしまった。シュンはもぞもぞと身をよじらせて、圭二郎とは反対のほうを向いた。
「なんだよ、突然」
「お姉ちゃんに言わない?」
「うん、言わない言わない。男の約束だ」
「ピアノ、触っちゃった」
質問に答えてもらったはずなのに、圭二郎の頭はますます混乱してしまった。
ピアノを触った?
「えーと、ってことは、なんだ。さっきまでピアノ弾いてたのか?」
頭の中を整理しきれないまま圭二郎が確認すると、シュンが申し訳なさそうにこくんと頷いた。郁美から「触るな」と言われたことをよほど気にしていたらしい。
圭二郎は信じられない気持ちでシュンを見つめた。だとすれば、さっきの演奏はシュンがしていたことになる。
「ちょっと、弾いてみせてくれないか。お姉ちゃんには言わないから」
圭二郎が半信半疑に言うと、シュンはぴょこんと起き上がってピアノの前に座った。ピアノの前に座るとシュンはますます小さく思えて、ふたを開ける仕草が幼さを強調していた。
だから、シュンがメルセデスベンツを弾きはじめた時は、自分が夢でも見ているのだと思った。
圭二郎よりも一回りも小さい手は、子供とは思えないほど力強く鍵盤を叩いていた。正直、ピアノのことなど圭二郎には分からなかったが、シュンは郁美にも負けず劣らず流暢に弾いているように思えた。新芽が芽吹き生命の喜びに溢れた春の美しさが、確かに圭二郎にも感じられた。
唖然とする圭二郎を尻目に、シュンはさらっと演奏を終えた。自分でも上手く弾けたと思っているようで、「どう?」と得意気に圭二郎を見上げている。
言葉を出そうとしても驚きでうまくいかなかった。まだ夢の中にいるような気がした。
黙り込んだ圭二郎を見て、シュンが寂しげな表情になったところで、ようやく圭二郎ははっと我にかえった。
「すごいじゃないか! シュン!」
圭二郎はわしゃっとシュンの頭を撫でてやった。シュンは再び満足そうな笑顔に戻って、マンガのようにへへっと鼻の下を擦った。
「おまえ、だって、いつの間に練習してたんだよ」
「今日、初めて弾いた」
「今日? え、じゃあほとんど練習無しか」
興奮しながら喋る圭二郎に対してシュンは冷静だった。これではどっちが子供かわからない。圭二郎は昂ぶる気持ちを抑えつけて、シュンから詳しい話を聞くことにした。
シュンの話によれば、郁美が弾いているのを聴いて、真似をしてみたのだという。楽譜は読めないらしいが、聴いただけで演奏するほうがよっぽど凄い。シュンは我が家にやってきた巨大なピアノにそれなりに興味をそそられていた。触るなと言われてなおさら弾いてみたくなり、圭二郎がハウスへ行き、郁美が部活、景子がパートをしていて誰もいなくなったのを見計らって、今日ついに手を出してみたのだ。鍵盤をひとつひとつ叩いて音を確認しながら、感覚で曲を弾いていったようである。
「おまえ、ピアノの才能あるよ」
「そう?」
シュンが嬉しそうに笑った。
「なあ、郁美と一緒にピアノ教室通うか?」
「んー」シュンは首を振った。「だめだよ。少年野球があるから」
シュンはこの前から少年野球団に入団していた。地元の育成会による半分遊びのような活動だったが、当の本人は俄然やる気で、エースになるのだとはりきっていた。友達との遊びを一番優先したい時期だ。シュンがそう言うなら、と圭二郎はそれ以上勧めるのはやめた。
「ピアノ、好きなときに弾いていいんだぞ。これは郁美のじゃなくて、うちのなんだから」
「ほんと?」
「おう」
好きなようにやらせて、もしピアノを本格的にやりたくなったら音楽教室へ行かせればいい。それにしても、アヒルの両親から二羽も白鳥が生まれるとは。圭二郎はひょっとしたら自分もピアノが弾けるのではないかと思って試してみたが、そもそも右手と左手を別々に動かすこと事態ができなかった。
「シュン! あたしにも弾いてみせてよ!」
郁美がきつい口調でシュンににじり寄った。
シュンが恨めしそうな目つきで圭二郎を睨んだ。圭二郎は片手をあげてすまんと合図を送った。
圭二郎は我慢できなくてシュンの才能のことを景子に喋ってしまった。厳密に言えば「郁美には言わない」という男の約束は守っていたが、景子が郁美に話してしまうことは十分予想できたことなので、やはり屁理屈でしかない。
豆腐のハンバーグが湯気を立て、夕飯を食べ始めようというときに、シュンは郁美から問い詰められていた。
「やっぱり、冗談なんでしょう?」
様子を見守りながら景子が言った。圭二郎を見る目に疑いが込められている。
そりゃあ直接聴いた俺が信じられないくらいだから、話を聞いただけじゃ嘘だと思うわな。
「シュン、弾いてやれよ。別に郁美も怒ってるわけじゃねえんだ」
「でも、弾かないと怒るよ」
郁美が拳を振り上げた。
「ほら、さっきみたいにさ」
シュンは渋々ピアノへ向かうと椅子をひいてドサッと腰を下ろした。大儀そうにふたを開けると、ぽろんぽろんと鍵盤を叩きはじめた。
「あら、ほんと。上手ね」
景子が微笑んだ。郁美は「なーんだ」という顔をしてテーブルに戻った。
シュンは右手の人さし指でチューリップを弾いていた。ド、レ、ミ。ド、レ、ミ。圭二郎でも弾けそうだ。
どの花見てもきれいだな、とシュンが演奏を終えると、女性陣二人が惜しみない拍手を送った。
「すごい。誰にも教わらずに弾いたんでしょう? たしかに才能あるのかも」
景子が感心した。
「いや、違うんだ、さっきはもっと……。ほら、シュン、あれ弾いてみてよ、メルセデスベンツ」
「メルセデスベンツってなによ。もしかしてメンデルスゾーンのこと?」
郁美が侮蔑したように圭二郎を見てきた。
「メルセデスベンツなんて知らなーい」
シュンも調子をあわせて言い、そそくさとテーブルに戻ってきてしまった。圭二郎がちらちらとシュンに視線を送っても、シュンは目を合わせてくれなかった。
まあ、いいか。
シュンが弾きたくないならそれでも。俺だけが知っているってのも悪くない。
「メンデルスベンツね、覚えた覚えた」
圭二郎が言うと郁美は呆れたのか何も言い返さずにサラダをつつきはじめた。仕方ないので「あ、違うか」と自分で突っ込んだのだが、誰もくすりとも笑わなかった。俺も親父になったな、と圭二郎は大人しくハンバーグを食べ始めた。
arcadiaに投稿したものをまるっと改稿して掲載しました。
もうひとつの連載が終わったらこちらも進めていきたいと思います。
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