姫様、お茶のおかわりをお持ちできません
王女宮――ホワイトリリー
男子禁制のその場所は、たとえ神官であろうと国王であろうと、足を踏み入れることは許されていない。
全てを白で統一された宮殿に仕えるのは、洗練された八人の侍女と百人に満たないメイドのみ。料理人から庭師に至るまで、全てが女性であった。
その全員が、体の線を拾いにくいふわふわとした柔らかな布地でできたメイド服を着用し、メイドキャップに豊かな髪を一本の乱れもなく押し込めている。
十四歳から王女がこの宮で暮らし始めてからというもの、たびたび訪れてはお茶を嗜んでいく彼女の母である王妃は朗らかに笑いながら、この修道院よりも静謐な空間を楽しんでいた。
この国において、カリオン新正教に正式に名が刻まれるのは十五を数える歳である。
すなわち、王女のデビュタントが目前に迫っていた。
王女宮の中は慌ただしく半年後の準備に追われており、許可の下りた商家や賓客、次代の侍女候補となる見習いたちの出入りが許されていた。
無論、そのすべてが女性である。
「ねぇ、リゼット姉様はどこ?」
リゼット・ド・ヴァルモン。
この王女宮で、十八歳という異例の若さで侍女頭を務める伯爵令嬢である。
一番格式の高い応接間にて、デビュタント用にデザインされた可憐で真っ白なドレスの試着を丁寧に施されていた美少女が、くるりくるりと踊るように回されながら、そう微笑んだ。
「ヴァルモン様は、ただ今姫様の湯浴みの準備にかかっておいでです」
「なら、よろしくてよ。それと、シンディ。リゼット姉様の式典用の衣装は私の寝室に運んでおいて。試着も、いつものようにあなたとカリンが手伝ってあげてちょうだいね」
「かしこまりました」
侍女の淡々とした返事に満足そうに一度頷くと、王女はまたされるがまま、くるりくるりとドレスの裾のレースをはためかせた。
今の会話を聞いていないふりをしてやり過ごしていたドレスのデザイナーと採寸係の女たちは、心の中で落胆していた。
また今回も、噂の侍女頭にお目にかかることができなかった、と。
そんな彼女たちの心の内を見透かしたように、リリーローズ王女とシンディが示し合わせたような含み笑いをした。
「……五年の間に三回、だったかしら?」
「いえ、五回かと」
「そうだったわ。未遂も含めると五回ね」
「私たちの侍女頭は、大変魅力的ですので……不届者による強引な求婚に、大変悩まされておりますから」
「私たちのリゼット姉様を拐かそうとするのを、いい加減諦めてほしいわぁ。表舞台に立つことを頑なに固辞しているのは、一部のはしたない者たちのせいだというのに」
そこまで言って、リリーローズはくるりとデザイナーたちへ顔を向けた。
「あなたたちが昔からリゼット姉様を可愛がっているのは知っているわ。でも、余計なところへ話を漏らしたり、外へ連れ出そうとしたりしないでね」
「ひ、姫様。我々はそのようなことは……」
「ええ、知ってる。だからあなたたちはここにいるのよ」
にっこりと笑って、リリーローズは再び正面を向いた。
「これからもよろしくね」
「肝に銘じます」
実を言うと、このアトリエは五年前までヴァルモン伯爵家専属として名を馳せていた。
当然、当時まだ十三歳だったリゼット・ド・ヴァルモンとも何度か顔を合わせている。
あと二年。
十五歳を迎えた彼女が社交界へ出るその日のために、どんなドレスを仕立てようか。
デザイナーたちは、それはそれは楽しみにしていた。
しかし、その機会が訪れることはなかった。
リゼットは十五歳でカリオン新正教の洗礼を受けながら、デビュタントを行わなかったのである。
そして、リゼットに対して何も問題を起こさなかったこのアトリエは、五年前よりめでたく王家御用達となったわけである。
少しの気まずさを含んだ空気の中、王女の採寸は問題なく終わり、ドレスの納品日まで決まった。
そして帰り際、アトリエの代表は一足先に仕上がっていた式典当日の侍女八人分の衣装を納めていった。侍女の衣装は細かな調整を彼女たち自身で行うため、王女のドレスよりも早く納品される手筈となっていたのだ。
「では、ヲーノヴァルの晴れの日に衣装を納めに参ります」
「楽しみにしているわ」
そうして、一団が王宮を去った後。王女は、噂の侍女頭リゼットに自慢の美しい絹糸のような金髪を優しく丁寧に洗われながら、夢現でリゼットが王宮へ上がることになった五年前のことを思い出していた。
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リゼット・ド・ヴァルモン。
王女が降嫁した由緒あるヴァルモン伯爵家の第二子にして長女である。
百余りある貴族家の中でも、とりわけ財政に明るい一族として知られ、代々王家の財政を預かる財務大臣を務め、「王家の金庫番」と呼ばれる名門である。
父母と兄に可愛がられ、メイドや乳母にも愛され、すくすくと、それはそれは愛らしく美しく育っていった。
そして彼女は、かつてヴァルモン家へ降嫁した王女ハリエットのひ孫にあたる。
事件は、リゼットが十二歳の誕生日を迎えた年のことだった。
『財務大臣を辞したい』
バランド王家の名君にして賢王、ルイアーノルド二世のもとへ届いた謁見の申し出に、宮廷は騒然となった。
それほどヴァルモン家は忠義に厚く、何より職務に対して誠実であった。
なんの前触れもなく、任期の途中で辞職を願い出るような一族ではなかったのだ。
――そんなのは建前で。
本音を言えば、四代前の王が残しやがった負債の後始末にようやく目処が立った今、新たな財政改革を進めるためにも、大黒柱であるヴァルモン家を失うわけにはいかなかった。
この申し出に、宮廷どころか官僚たちの屋敷まで蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
「して、辞する理由は?」
「……その、娘が」
「そちの娘、名をリゼットであったな」
ルイアーノルド二世は記憶を辿った。
まだ十二歳。
社交界へ顔を出すような年齢ではないが、その容姿については王の耳にも届いていた。
「我が大叔母ハリエットの生き写しだと、もっぱらの噂ではなかったか?」
「それです。問題は」
「ん?」
「亡き王女ハリエット殿下の生き写しどころの騒ぎではありません。……生まれ変わりと言っても過言ではないのです」
「…………」
王は、亡き大叔母ハリエットを思い出していた。
ハリエットは、夏の夜を溶かしたような艶やかな黒髪と、伏せるだけで人の目を奪う長い睫毛を持つ女だった。
彼が五歳の頃、四十七歳という若さで亡くなったが、身内から見ても……いや、色気がなんたるかを理解する前の幼い自分から見ても、大変に蠱惑的で妖艶な美女であった。
病床を見舞った際、気怠げに儚く微笑んだ彼女は、一枚の絵画に留めるべき至宝だとさえ思ったほどだ。
そんな死の間際にあってなお、匂い立つような色香を孕むハリエットは、実弟である“前王ーールイアーノルドの祖父“に、困ったように笑っていた。
『死にかけた姉さんを、いまだに拐おうとする不届きものが三人も出たのよ。困っちゃうわ』
自室の窓に厳重に嵌め込まれた鉄格子を見ながら、アンニュイな吐息を溢していた。この物々しい寝室は、ハリエットを閉じ込めているのではなく、敵から身を守るための苦肉の策なのだと察した。
その少しカサついた彼女の唇は、それでも芳しい花のように見るものを惹きつけて離さない不思議な色香があったからだ。
『おいたわしや、姉上。その賊らはヴァルモン伯爵に頼んで城壁に吊り下げておきましょう』
普段は穏やかで慈悲深かった祖父王が、たおやかな微笑みを浮かべたまま、初めて聞く苛烈な言葉をなんてことなく言い放っていた。
幼いルイアーノルドは、色々と衝撃的だったそれをよく覚えている。『幸薄い、匂い立つような色気を持った妙齢の美女が刺さる』という性癖に歪まなくて本当に良かった、とカリオン神に感謝したのは秘密であった。
そして、そんな彼女の生き写しどころではない、と。
目の前のヴァルモン伯爵は言っているのだ。
「……まずいな、それは」
「財務大臣をやっている場合ではないほどに……ハリエット様にはなかった泣き黒子があります」
「その黒子は国宝だな」
「言ってる場合ですか……。まさか、あの曰く付きの祖母の私室を娘に与えなければならない日が来るとは、考えもしませんでしたよ。祖母のおかげで皮肉にもノウハウがあるとはいえ、家を留守にすることが多い現状では、家格が上の者たちへの急な対応がままならないのです」
押しかけ女房ならぬ押しかけ婿が既に六人はやってきて、そのうち二人はリゼットより二十以上も年上だったのだというので、カリオン神も真っ青である。
寄越すならせめて同年代に収めておいて欲しかった、とヴァルモン伯爵は深く深く頭を垂れた。
二人は考えた。
頭の中心が沸騰するくらい考え抜いた。できるだけ短い時間で。
そうして、賢いルイアーノルド王は臣下の深刻な悩みを解決するために、ある一つの妙案を思いつく。
「ハリエット大叔母様が使っていた宮殿……『王女宮ホワイトリリー』を近く再び開く」
「王女宮を、ですか」
「いずれ十四を迎えれば、余の娘が移り住むことになる。その前に、そなたの娘リゼットを侍女見習いとして住み込ませてはどうだ?」
ヴァルモン伯爵が驚いたように顔を上げた。
「なに……私も娘に悪い虫がつくのは好かんからな。これを機に、かつてのような男子禁制に戻そうと考えているのだ」
それは確かに妙案だった。
たとえ神官であろうと国王であろうと、男である以上は立ち入ることのできない王女宮。
そこへ伯爵令嬢を侍女見習いとして正式に召し上げてしまえば、様々な押しかけ婿が門前までやって来ようと、その先へ進むことはできない。
なにより、王家の庇護下である。いつかの祖父王が言っていたように、城壁に吊るしてしまっても問題は無い。
「しかし、そうなると……年に数回程度しか娘と面会できなくなるがなぁ」
「悲しいけれど、背に腹はかえられませぬ。うちの娘を国家権力で護ってもらえるなら、我が一族は世が滅びるまでこの国の財源を潤してみせましょう! ただし、王子殿下の嫁にはやりません」
「息子には言い含めた上で、婚約者を早めに決めておくから」
「身を粉にして働きます」
こうして、話はまとまった。
そして半年後、リゼット・ド・ヴァルモンは、再び開かれた王女宮ホワイトリリーへ、侍女見習いとして住み込むことになった。
当時十三歳。
当然、侍女としては異例の若さである。
しかし、正式に王女が入宮するまでにはまだ時間があったため、リゼットはその間に、先に集められた侍女やメイドたちに囲まれながら、王女宮での作法から仕事の手順、宮殿内の決まり事に至るまで、一つひとつ覚えていった。
伯爵令嬢として何不自由なく育てられたリゼットだったが、不思議と人に仕えることを嫌がらなかった。
新しい仕事を教われば、楽しそうに鼻唄を歌いながらこなしていく。
失敗すれば「あらまぁ……申し訳ございません」と落ち込みつつ、素直に周りへ頭を下げた。
そして、翌日にはきっちり復習し、同じ失敗は繰り返さない。
容姿ばかりに注目されてしまう娘ではあったが、共に働く者たちが彼女を慕った理由は、決してその理性を破壊する美貌だけではなかった。
その生活の中で、リゼットの色香に惑わされて彼女へ狼藉を働こうとした女たちは速やかに修道院へ送られた。
そうして数年。
十四歳を迎えたリリーローズ王女がホワイトリリーへ入宮した頃には、リゼットは既にこの白い宮殿での暮らしを誰よりもよく知る侍女の一人となっていた。そんな彼女と過ごしてきた仲間たちは、リゼットの何気ない仕草から滲み出る暴力的な色香にも動じない強靭な精神を培っていた。国宝級の泣き黒子を添えた瞳で流し見られても、鼻血なんか噴き出さない!そのうなじに齧りつかない!!押し倒さない!!!姫様万歳!!!!
見知らぬ宮殿へ移り住んできた王女にとって、四つ年上のリゼットは侍女というよりも、頼れる姉のような存在だったのだろう。いつしか、「リゼット姉様」と呼ぶようになった。
リゼット自身は十五歳でカリオン新正教の洗礼を受けたものの、そういった事情から、やむなくデビュタントを行うことはなかった。これもまた社交界を騒がせ皆の好奇心を刺激することになったため、王女宮の門番の仕事が国一番の激務になり、その結果、門番二人は休日に軽い気持ちで出場した王国主催の武闘大会で優勝した。(ちなみに、彼らは脇目も振らない愛妻家である)
話を戻して。
リゼットは、そのままホワイトリリーに残り、侍女として経験を積み続けた。
そして十八歳となった現在。
見習い時代から数えれば五年。
リゼット・ド・ヴァルモンは、八人の侍女を束ねる侍女頭となっていた。
異例の若さではあったが、誰よりも長くホワイトリリーを知る彼女がその役目を担うことに、異を唱える者はいなかった。
ただし、
「うちの娘、出世しとる」
人事異動の昇進欄を見て、呆然としている財務大臣はいた。
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そうして、待ちに待ったリリーローズ王女のデビュタントは、春の花々が美しく綻ぶ頃、盛大に執り行われた。
王太子の立志式から五年が経っており、王家の大きな催しとしては久しぶりのことであった。
そのため、招かれた国内外の貴族たちは、久方ぶりの盛大な式典に心を色めき立たせ、単純に浮かれていた。
入場の口上とともに、リリーローズ王女が会場の中央に敷かれた深紅の絨毯の上を、真っ白な上品で可憐なドレスを身にまとい、堂々と歩いていく。その愛らしくも美しい顔の中でも、一際目を引くのはエメラルドグリーンの大きな瞳だった。豪華なシャンデリアの灯りを受け、宝石のように煌めいている。
まるで春の妖精のような彼女の真っ直ぐに伸びた姿勢に、幼い頃から彼女を知る者は涙ぐみ、初めて見る者は感嘆のため息を吐いた。
その後ろを、同じく真っ白なドレスを身にまとった三人の侍女が、王女の影のように静かに首を垂れ、付き従っていた。
三人とも同じデザインのドレスで揃えており、ベールを被って顔が見えないようにされている。
これは、王家のデビュタントにおける侍女や侍従のしきたりであった。
ようやく王女が父母である二人の玉座の御前まで静々と歩き切ると、王たちも厳かにデビュタントの手順を進めていった。
そして、リリーローズ王女の頭上に、国王からの成人祝いであるティアラが掲げられた。
王女が感謝の言葉を言い終えると、それまで沈黙していたオーケストラが荘厳な演奏を奏で始めた。
王女があらかじめ用意されていた玉座に腰掛けると、侍女たちは手早くティアラを髪へ固定し、身だしなみを整えていく。
そうして全ての支度が整うと、いよいよ招待客たちが王女へ祝いの言葉を述べる時間となった。
名を呼ばれた者から順に深紅の絨毯へ進み出て、王女の御前で礼を取り、祝いの言葉を述べていく。
公爵家、侯爵家、伯爵家。
国内の高位貴族に続いて、遠路はるばる訪れた国外の賓客たちも、次々と王女へ祝辞を捧げていった。
リリーローズはその一人ひとりに笑顔を向け、時には親しげに言葉を交わしながら、王女として堂々と応えていた。
そして、次の名が呼ばれた時だった。
呼ばれたのは、とある男爵だった。
虚ろな目をした男は、ふらり、ふらりとゆっくり足を進め、王女の前へと進み出た。
しかし、本来なら立ち止まり挨拶をするはずの場所を越えても、その足は止まらない。
近衛騎士の一人が、場を壊さぬよう穏やかに声をかけ、一度目の警告とともに所定の位置へ誘導した。
それでも、止まらない。
異変を察知したもう一人の近衛騎士が、静かに王女の後ろから一歩前へ出た。
誰もが、この素晴らしい晴れの日を成功させたかった。
だからこそ、静かに、静かに、男を王女から遠ざけようとした。
残りの挨拶は、あと二組。
これさえ終われば、ダンスが始まる。
異変を察知した残り二組の男爵夫妻たちは、ほんの少しだけ横へ広がり、後方からの視線を遮るように自然と壁を作った。
その異例の動きに、すでに挨拶を終えた者たちも次々と気づいていく。
そして皆、何も気づいていないかのように振る舞った。
近衛騎士たちの配置も、静かに変わっていく。
気がつけば王女の周囲には五人。
誰もが静かに、腰の獲物へ手を添えて立っていた。
「姫様……」
王女のすぐ後ろから、柔らかな女の声がした。
近衛が二人がかりで男爵の両脇から力強く腕を掴み、その歩みを止めようとする。
しかし、男は異常な力で二人を引きずりながら、ゆっくりと前へ進み続けた。
いよいよ、近衛が切り捨てる射程圏内に入った。
その時だった。
「ねぇ、リゼット。私、紅茶のおかわりが飲みたいわ」
王女は微笑みを湛えたまま、唐突にそう言った。しかし、この時、王女はまだ何も口にしていなかった。
その言葉を聞いた瞬間、側に控えていた者たちの配置が一斉に変わる。
それでも誰一人として表情を崩さない。全員が、目の前にいる男などまるで見えていないかのように振る舞っていた。
「姫様……少々、お待ち下さい」
王女の声が、鈴が鳴るような可愛らしく軽やかな響きだとするならば、その侍女頭の声は、濃密な花の香りをそのまま音にしたような、腰を砕くほどの色気を孕んでいた。
近衛騎士たちは動揺を押し殺したが、男爵の方は、その声に一瞬だけ足を止めた。
その一瞬を、淑やかな足取りが詰める。
男の目の前まで歩み寄ると、リゼットは真っ白なベールの端に指をかけた。
そして――男にだけ覗かせるように、ゆっくりと持ち上げてみせた。
瞬間、腰が砕けたかのように、男はその場で膝から崩れ落ちた。
しかし、その顔は恍惚と輝いている。
息も絶え絶えになりながら、それでもベールの奥に覗いた顔から目を離すことができないようだった。
両脇に立っていた近衛騎士二人は、崩れ落ちた男を咄嗟に支える形となり――当然、見た。
彼らは、気合いで色々を乗り越えた。鼻血なんか噴き出さない!うなじに齧りつこうと考えない!!押し倒さない!!!賊を離さない!!!!
「それと、この方。体調がお悪いようですので、救護室へご案内くださいませ」
心配そうに男爵の耳元で囁いたリゼットの言葉を合図に、全員が動き始めた。
「御仁、我々がご案内いたします」
近衛二人に引きずられるようにして、男爵が退出していく。
途中、何かに気づいたように男が声を上げようとしたが、
「おや、可哀想に。鼻血が出ているじゃないか」
近くにいた伯爵の一人がすかさず声をかけ、給仕係から受け取ったナプキンを、その口へと詰め込んだ。
近衛たちのために、皆が皆、微笑みとともにそっと道を開けていく。
その見事な連携に、リリーローズ王女がコロコロと鈴を転がすように笑うと、王女の前で壁を作っていた残り二人の侍女が、ようやく安堵のため息を吐いた。
残り二組の夫妻に、リゼットはベールで顔を半ば隠したまま、いたずらに成功した子どものように笑って、静かに頭を下げた。
夫妻は気合いで色々を乗り越えた。鼻血なんか噴き出さない!うなじに齧りつこうと考えない!!押し倒さない!!!後世に語り継ぎます!!!!
そんな彼女の後ろに、人影が差した。
「私の婚約者になるのだから、あまり無茶をしてくれるな」
「あらぁ……初耳ですわぁ」
「たまらないな、その声も」
そう嬉しそうに微笑んだのは王太子レグルスであった。
再会の喜びを噛み締め、宝物を自分の腕の中に仕舞い込むように大切にリゼットをその腕に捕まえると、ベール越しに彼女のこめかみへキスを送った。こいつだけは、鼻血は出さなくても、うなじに齧りつくし、押し倒すし、嫁にするのだろう。
一瞬の沈黙。
どこからか、
「初耳ですわぁ!!!」
という財務大臣の叫び声が響いた。
そして玉座からも、
「余も初耳ですわぁ!!!」
国王の叫び声が響いた。
全員、無視した。
王太子に抱きしめられたまま、半ば強引に、それでいて丁重にエスコートされて戻ってきたリゼットは、困ったようにリリーローズ王女へ話しかけた。
「姫様……お茶のお代わりをお持ちできそうにありません」
【ついでの設定】
ハリエットについては純然たる政略結婚でしたが、ヴァルモン伯爵の誠実かつ奥ゆかしい性格に惹かれていきます。2男1女に恵まれました。
「旦那様、私、魔性の女なんですの」
「君は案外ウブじゃないか…」
「嫌です、魔性なんです。だから、一生涯、私に振り回されてくださいまし」
「無茶苦茶だな君は」
奥様に口説かれ誘われ振り回される仲睦まじい夫婦をしていました。
すぐ攫われそうになる奥様のために屋敷を大改造したり、信用できる使用人たちと毎月作戦会議していました。
後妻は娶らず、70歳で亡くなるまで月命日には墓前へ欠かさず花を手向にいくほどには、相思相愛でした。




