この世界の大事な人達
昨日から、私の身の回りにはさまざまなことがあった。
知らない間にミーシャ・グレイスと呼ばれる少女になっていた上に、私は天音美加理という名前以外何も覚えていない状態だった。
最初はそのことに加えていきなりミーシャの時の記憶を思い出したりすることがあったため、かなり混乱していた。そして、混乱中に綺麗な男の人に話しかけられて驚くあまり、サラに泣きついてしまうという子供みたいな姿を見せてしまった。
あの日から一日経った今では、段々と気持ちが落ち着くようにはなり、突然記憶を思い出して混乱することもなく過ごせている。
この家の人たちが優しいおかげなのだろう。
突然記憶がなくなって他の人の身体になって混乱していても、サラだけでなく養父のレオンさんも皆、私が落ち着けるように配慮してくれていた。
あれから、サラを筆頭とした私の身の回りにいる侍女や、使用人の人達とは割と打ち解けられるようにはなった。
しかし、まだレオンさんやその近くにいつもいる白髪の執事の人とはまだ距離を感じている。
サラ曰く、少なくともレオンさんは優しいから大丈夫とのことだ。優しいのは何となく分かっているが、この国で地位が高い方の貴族と聞いたため、自分が何かやらかしたらいずれ怒られるのではないかと心配になってしまう。
そう思って、緊張しながらレオンさんに朝の挨拶に行こうとしていた。
「…………レオン…さん…?」
「えーっと今日必要な書類は……わぁああッ!!折角纏めたのに全部崩れちゃった!!あ、ミーシャおはよう!そろそろお父様か父上と呼んでくれると嬉し…うわぁッ!!」
目の前で繰り広げられるレオンさんのドジを見て、今までの緊張感はどこかに行ってしまった。
それもそうだ。必要なものを探そうとして積み上げられた書類を崩してバラバラにしてしまったり、私に挨拶をしようとしたのに落ちていた紙ですっ転んでしまう大人の姿を見れば、誰だってそうなるとは思う。
「旦那様!!必要なものだけを机の上に出して後回しにして良いものは引き出しにしまって下さいと昨日はあれほど言いましたよね!?」
「うう…すまない…グレイ…」
駆けつけてきた白髪の男性改め、グレイはレオンさんに対して先生みたいに注意しながらテキパキと書類をまとめていく。
「全く…今日必要なのは何ですか?」
「……今日やる議会で必要な議会録の書類…」
「なんでそんな大事なもんを適当に纏めとくんだよアンタは!!ほんと頭良い割にうっかりしすぎで……あっ…!!」
「っ……!?」
突然私に気づいたかのようにグレイが顔を上げると、ちょうど目が合った。その条件反射でビクッとなっていると、グレイは咳払いをしてにっこりと紳士的な笑顔を浮かべた。
「ミーシャお嬢様、おはようございます。旦那様は自らのド…不手際によってお忙しいので、しばらくお茶でも飲みますか?」
「そう……します」
私に話しかける前まで、グレイは執事とは思えない言葉遣いをしていたような気がする。それに対してレオンさんは怒っていなさそうだったので大丈夫なんだろうけど、その変わり様がちょっとだけ怖かった。
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「……だ、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ。ちょっと尻餅ついたところが痛いけど大したことないよ」
やっと宮廷での用事が終わり、帰ってきた時のレオンさんの姿は、何故か転んだような傷がいっぱいだった。服もちょっとだけ汚れているような気もする。
尻餅だけでここまでなるのだろうか。
「それよりミーシャ、もう遠慮して名前にさん付けしなくても良いんだよ。本当に…親父でもなんでも良いから…」
そう呟くレオンさんは寂しそうに目を虚にさせていた。余程今まで父と呼ばれなかったのか、記憶がないせいで名前にさん付けされたのが悲しいのだろうか。
どちらにせよ、申し訳なく感じる。
「えっと…なんでも良いのですか?」
「ああ、間抜け親父でも構わないよ…」
「流石にそれはしないです…!じゃあ、その…おと…………っ」
無難に貴族らしくお父様と呼ぼうとしたら、何故か自然に"お父さん"と呼びそうになった。
天音美加理だった頃に、何度もその呼び方で父を呼んでいたことがあったような気がする。
(私の知ってる"お父さん"は…こんなに抜けててほわほわした人じゃない…私には比較的優しかったけど…他の人には違ってて…むしろ厳しかったような………)
父を思い出そうとした途端、"美加理"の身体だった頃の記憶が断片的に蘇った。
その頃の私には、10歳離れた兄と、6歳離れた姉がいたことを。
"お父さん"は、私には優しかったが、兄や姉には厳しかった。「ちゃんとしろ」、「努力が足りない」と怒られている所を見るたびに、胸が痛んだ。特に姉に対しては、親戚の人が小間使いみたいに要求をするのを見て怒りが湧いていた。今の家にはいない"お母さん"は、兄や姉にも優しいけれど、無自覚に自分勝手な所に何度も疲れた。
じわじわと、前世で過ごした時の家族を思い出していく。
それでも、名前と顔は思い出せなかった。
自分の娘みたいに可愛がってくれた兄と、親からの重責故に私に冷たかったけど、それでも助けたいと思ったはずの姉を思い出せない。それでいて、両親に対しては思い出せなくても構わないと自然に考えてしまう。
わかっていることは、今だけでなく美加理にとっての大事な家族のことさえも忘れてしまうことへの申し訳なさや、悲しみが深いことだけだった。
「……ミーシャ?どうしたんだ?」
「…………お父…様…」
悲しいと言う感情で一杯になったせいなのだろうか。
貴族らしくと思って呼ぼうとした呼び方が、口から自然と溢れた。今目の前にいる"父"のことを、かつてこの身体はそう呼んでいたせいなのだろう。
「っ………!!今お父様と呼んでくれたのか…!?」
「………何も思い出せなくて…ごめんなさい…っ…」
今はどう呼べばいいのかなんて考えていられない。
孤児だった自分を拾ってくれたレオン・グレイスのことを何も思い出せず、悲しませていることが申し訳なくて、ひたすら辛かった。
「……無理に思い出さなくて良い。ゆっくりで良いから。だから泣かないでくれ…ミーシャ」
それでも、いきなり泣いてしまった私を、レオンさん…お父様は優しく慰めるように背を撫でてくれていたことだけは、絶対忘れないようにしたい。
私はそう強く心に決めた。
レオンさんもといお父様と、やっと打ち解けられるようになった気がした。
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あの日から、一週間が経った。
私はグレイス家で過ごすことに慣れてきて、今では誰が相手でも緊張せず話せるようになった。
けれど、どれだけ月日が経っても、私はどうしても忘れられないことがある。
青い宝石みたいな瞳が印象的で、優しくて美しい男の人に出会ったこと。
あの人は他の男の人とは違って、無理やり触ろうとしなくて、私が怖がっていると気づいたのか、距離を詰めて来なかった。
(……また会いたいけど…でもお父様にはあの森の中は迷いやすいから入っちゃダメだって言われてるし…)
どうすれば会えるのだろう。
こんなにも会いたいと感じたのは、あの人が初めてだった。
「お嬢様、ご友人のアイリス伯爵令嬢のユリアナ様がお会いしたいとのことです」
私が悩んでいると、サラに呼ばれた。
どうやら、私の友達が来たようだ。けれど、私はその名前を聞いても、誰だったかを思い出せない。
それでも、私に友達がいるというのは嬉しい話だ。
「すぐ…行くね」
どんな友達なんだろうと楽しみにしながら、ユリアナ・アイリスさんがいる玄関の間に向かう。
(ッ………!!あれが…ユリアナさん…?)
玄関の間で立っている、ボルドー色でウェーブがかった長い髪を持つ少女こそが、ユリアナ・アイリスさんだと理解する。同じ年頃のはずなのに、スラッとして背が高く、物語のお姫様かと思うぐらい、綺麗な女の子だ。
そんな彼女の吊り目でぱっちりしたマリンブルーの瞳が、私を捉えた。
「ッ………ミーシャ!!」
私を見つけるなり、ユリアナさんは駆け足で向かってきて、ぎゅうっと抱きしめてきた。
「え、えぇ…!?」
「ミーシャ…!!良かった…元気そうで…!!身体の具合はもう大丈夫?倒れたって聞いてから居ても立っても居られなくて…!!」
私が戸惑っていることに気づかず、ユリアナさんは体調を涙目になりながら心配する。
「………あの…ユリアナ…さんは…どうして私をそんなにも気遣ってくれるんですか…?」
とても嬉しいことだけど、私は彼女がなぜそこまで心配してくれるのかが分からない。
それほどの仲だったのかすら、思い出せなかった。
「本当に…私のことも忘れてしまったの…!?」
ユリアナさんのショックを受けた顔を見て、心底申し訳なく感じる。また私は、誰かを悲しませてしまった。
「………ごめんなさい…」
「ッ……謝らないで。記憶喪失のことも聞いてたから覚悟は出来てたわ…また改めて友達になれば良いだけのことよ」
「ッ……!!」
本当に大切な人たちを忘れてしまった最低な自分のことを受け入れてくれるなんて、ユリアナさんはなんて良い人なんだろう。
恐らく、記憶を失う前から彼女とは深い友情を築いた関係だったに違いない。
「改めて自己紹介するわ。私はアイリス伯爵の娘のユリアナよ。貴女がグレイス侯爵に引き取られた時以来何度も遊びに来たことがあるのよ」
「私は…ミーシャ・グレイスです。よ、よろしくお願いします…ユリアナさん」
「さんも敬語もいらないわよ。肩の力を抜いてちょうだい」
「は、はい…!」
「はいじゃなくて"うん"って言って!」
「…う、うん…!ゆ…ユリアナ…!」
ユリアナは、本来は幼馴染だけど、私にとっては初めてできた友達となった。
何となく慣れないが敬語を使わないで返事をすると、彼女はニコッと笑顔を浮かべた。
「ねぇミーシャ、明日からは宮廷でもお喋りしましょうよ!」
「あ、その…お父様がしばらく社交の場には出せないって…」
折角誘ってくれたのに、断らなければならないなんて辛い。またユリアナに対して申し訳ない気持ちになってしまう。
「なら…私がここに遊びに行くわ。それなら貴女のお父様に叱られずに済むでしょ?」
「ッ………!!」
ユリアナは怒るどころか、私に気遣って別の提案をしてきた。
やっぱりユリアナは優しい人なんだ。またちゃんと友達になれて良かったって改めて思う。
「あ…ありがとう…ユリアナ…っ」
あまりに感激してしまって、涙が溢れた。
「ちょっ…なんで泣くの!?」
「だって…もう友達やめるって言われると思って…っ…」
「もう…そんなこと絶対言わないから安心して…っ!!」
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ユリアナとは、色んな話をした。
彼女は、話してみると意外とおしゃべりで、無限に話題を振ってくれる。
なので、宮廷の人たちのことを教えてくれて、家での両親の話や、幼少の頃から一緒に過ごすことが多い幼馴染の話もしてくれた。
そして、ユリアナの幼馴染であるクロード・サイネリアという、眼鏡をかけた18歳の宰相子息の話題が広がっていた。
「ユリアナはその人のことが好きなの?」
「へっ…!?いや…そんなことないわよ!!クロード様のことは単純に顔立ちが良いって思ってるだけの幼馴染で…っ…」
「なら…顔立ち以外は嫌なの?」
「き、嫌い…じゃないけど…っ…」
そう言うユリアナの顔は、真っ赤に染まっていく。彼女の華やかな顔立ちからは想像がつかなくて可愛らしいと思う一方で、私には分からないことがあった。
クロードさんを好きなのかと聞かれて、ユリアナがここまで顔を赤くする理由が。
「そ、そういうミーシャには気になる男性は……ってまだ記憶喪失になってからは出会ってなかったわね…」
「………いるよ、気になる人」
名前も知らない、青い瞳の美しい男の人だ。ずっと頭から離れないくらいに、気になっている。
「えぇ!?教えて頂戴!!誰にも言わないから!!」
「えっと……名前は知らないんだけど…」
「じゃあ特徴!!どんな見た目かだけでも良いから!!」
食いつくユリアナの勢いに気圧されつつも、私は覚えているその人の特徴を話す。
「…目の色は、宝石のサファイアだったの」
引き込まれるような瞳。宝石みたいに煌めいていて、どうしても忘れられないぐらい美しかった。
「うんうん!」
「黒髪で、顔立ちも絵みたいに綺麗で…そ、それに背がとても高かった!!最初はちょっとだけ怖かったけど…でもとっても優しい人で………」
ユリアナは、何故か黙っている。さっきまで相槌を打って聞いてくれていたのに。
もしかして、夢中になって話し過ぎたんだろうか。
「……そんなに美しい人、この周辺にいればすぐ噂になるはずだけど…」
「え、そういうものなの?」
「そうよ!貴族ってのは情報戦が大事だってお父様が言ってたわ。それこそ、ミーシャが言っていた美しい男の人がいたって情報があればすぐに広まって婚約の申し込みがその方に殺到するんだから!」
「情報一つでそこまでなるなんて…」
もしかしたら、今私が話した男の人のことが知られたら、貴族の間で結婚の申し込みが殺到して困ることになるんじゃないかと思うと、私は迂闊なことをしたのかもしれない。
「でも噂になってないってことは、まだミーシャが一番その殿方とのチャンスがあるわよ!」
「っ!それなら良かった…!またいつか会えたらいいなぁ」
「………まあ、そういうのは人それぞれゆっくりでも良いとは思うわ」
あの男の人が困るようなことは起こらなさそうで、私は安心した。
密かに会いたいと願う人のことを話したのは、ユリアナが初めてだ。友達同士の秘密と考えると、少し胸が高鳴る。今度またあの人に会えたら、真っ先にユリアナに話そう。
私は心からそう思った。




