見知らぬ世界の美しい景色
何も分からない状態で、私は育ての父らしき人と私の侍女であるサラという女性に手を取られ、邸宅にある寝室まで連れて行かれた。
そこで医者に診てもらった後、自分に関わる全てのことを説明された。
自分が"ミーシャ・グレイス"という、もうすぐ15歳になる娘であること、東洋人と西洋人の混血の出身であり、その親が亡くなって孤児となった自分がレオン・グレイス侯爵に引き取られたことだけではない。
この場所がディアナ王国という国の中にあること、サッピールス家の長男アレキサンドラが王として統治し始めたばかりであることを、私が分かるまで丁寧に説明された。
しかし、全てを聞かされても、何も思い出せない。この場所で過ごしたことや、"美加理"として過ごしたらしい前世の思い出も何もかもだ。
簡単な能力テストのようなものを受けた後、医者からは記憶喪失と診断された。
にも関わらず、脳には異常が全く無く、テストの結果で学習機能は正常だと判明している。それどころか、元々悪かったらしい体調もすっかり回復していたとのことだ。
そのためか、記憶喪失の治療を受けさせるよりはもう一度学ぶなり自然と思い出していくしかないという結論になった。
「……記憶を失ってしまったからには、しばらく社交の場には出せないな…体調も心配だし…」
私が何も覚えていないため、育ての父レオンさんが灰色の髪を手で乱れさせながら頭を抱えているのを見て、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
私がじっと見ているのに気づいた父は、緑がかった青色の目と眉を下げて微笑んだ。
「とはいえ、初めて社交界に出した時もあの欲望の渦巻く場所にか弱いミーシャを送り出すのはまだ早いとは思っていたから、特に問題はないよ。だからそう泣きそうな顔をしないでおくれ」
「……あの…私は一体どうすれば…?」
「今までの記憶も学んできたことも少しずつ思い出していけば良い。私もできる限りのことはしていく。だから今日はゆっくり休みなさい」
「……………はい」
邸宅の中に向かうレオンさんを見送り、美しい花々のことが気になった私は、サラさんの付き添いで並ぶ広い庭を歩き回ることにした。
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「お嬢様、足元にお気をつけ下さい。まだふらつくようでしたら私が支えますが…」
「だ、大丈夫です…えと、サラ…さん…?」
「私のことはサラとお呼び下さい、ここの家では旦那様以外のことはいくらでも呼び捨てで気軽に口を聞いて下さいませ」
「はい…あ、うん…」
綺麗な黄緑色の目と、柔らかいカーキブラウンの髪を団子みたいに結んでいるサラは、にっこりと笑って話してくれた。優しくて親しみやすい人が侍女で良かったと安心する。
「最近のお嬢様は病がちで本当に心配でしたから、倒れた時は本当に旦那様も私も心臓が止まるかと思いましたよ…」
「し、心配かけてごめんなさ…っ…ごめん…サラ」
いくら優しい人でも、やはり遠慮気味になってしまう。まだ緊張しているせいかもしれない。
「けど…良かったですよ。急に病も治ってお医者様も驚いてはいましたが、外で歩いても問題はないと知って安心いたしました」
ずっと話を聞いていると、サラだけじゃなくてレオンさんもミーシャである私のことを大事に思ってくれているみたいだ。少なくも怖い人たちばかりでなくて、少しずつ安心を覚え始めた。
「サラ、少し手伝ってくれないか?」
真っ白で右目を隠すように伸ばした前髪が特徴的な背の高い男性が、サラを呼んだ。
「分かった、今行くわ。お嬢様、しばらくここでお待ちください。すぐに終わりますから」
「あ、うん…待ってる…ね」
サラと白髪の男性がいなくなり、私は一人になった。
ずっとただ待つのも退屈なので、広い庭で咲く花々を見て回ることにした。
(本当に綺麗…私は今までこんな綺麗な場所で…あの優しい人達に囲まれて過ごしてきたってこと…?それなのに…何も思い出せないなんて…)
世間では疎まれるとされる東洋人と西洋人の混血の娘を、快く引き取ってくれた優しい育ての父親。面倒見が良くて自分を主人の娘というよりも、本当の妹のように可愛がってくれる侍女や執事、使用人達。
しかし、記憶を失ってしまったことで、そんな優しい人達を悲しませてしまっているのだと思うと、胸が苦しくなる。
けれど、それ以上に何か重要なことを忘れてしまっているような気がしてならない。けれど、思い出してはいけないと命令するかのように、頭がズキズキと痛む。
頑張って思い出そうとすると、頭が痛くなるのも、何が深い理由があるのではないかと思えてならなかった。
「…………あ、あれ…?ここどこ?」
考え事をしながら足を進めていたら、いつの間にか森らしき場所まで入り込んでしまっていた。
迷ってしまったのだと気づいたが、戻ろうにも来た道が分からず、途方に暮れるしかできない。
(………そういえば…私はどんな姿をしてるんだっけ…?やっぱりサラについて行ってついでに家で鏡見てくれば良かった…)
自分の姿が気になり、近くで流れている川に姿を映す。
青みがかった淡い紫一色のシンプルなドレスに包まれた肌は桃色がかった白に近いベージュだが、家にいる人達とは違って、シルクのように滑らかでハリがある。
顔については、彫りは深くあるものの、東洋人特有の顔立ちの面影が感じられることは否めない。長い睫毛で縁取られたブルーグレーの瞳が、唯一西洋人と言い切れるものだった。
だが、自分の姿を眺めていて、一番目についたものがあった。
光に照らされてブルネットから明るい茶色に変わるサラサラとした髪。
そよ風で揺れる、頬の横の髪を束に両括りにした赤い組紐。
その二つが一番印象的に映り、見つめているうちに、何故か胸が締め付けられる感覚を覚えた。
(………ッ…どうして……?自分の姿を確かめたかっただけなのに…そこにいるのは自分なのに…なんで見てるだけで悲しくなって…っ)
見つめているうちに、無性に悲しい気持ちよりも、腹立たしい気持ちになっていく。
特に、光に照らされる髪を括った赤い組紐が、鬱陶しくてたまらない。
我慢できず、組紐を乱雑に一つ解く。それでも、気持ちが晴れることがない。
「ッ………ぐすっ……ぅ……」
訳の分からない悲しみが胸の中で広がるのが耐えられなくなり、涙を流すしかできなくなった。
「………そこに誰かいるのか?」
グレイス家にはいない声が、耳に入ってきた。男性特有の低さはあるが、優しそうな声だ。
(…………誰か来た…?この声は…男の人……?逃げたいけど……足が動かない………)
家の人間以外の男の人が近くにいると知った途端、無性に怖くて動けなくなる。
(…………前にも…こんな気持ちになったこと…あった気がする……)
男性という存在に恐怖心を抱いた時の過去が、一気に脳内で再生されていく。
私が10歳の時、一度だけグレイス家の親戚の家に来たことがあった。そこで、混血であることを、そこにいた四つ年上の息子トニーに揶揄され、混血の身体はどうなっているのかと服を剥がれそうになった。
未遂で済んだものの、それ以降は年頃の男子がいる親戚の家のに行っても、トニーほどではなくても、似たような問題は何度も起こった。
息子を誘惑したと言って、親戚の家の女性達に詰られた私は、どこの家にも行けなくなり、実質家に篭ることとなった。
このまま、先程話しかけてきた人が近づいてきたらと思うと恐怖心は益々増し、涙は止まらない。
「驚いたな…まさか誰も近寄ることがないこの場所に人がいたとは…家が近いのか?」
「ッ………!!」
同じ声が、今度ははっきりと聞こえてきた。声のする方を見ると、背が高い黒髪の男の人が近くに立っていた。貴族とは分かるが、それにしては質素な服装だ。それを差し置いても、その人の青い瞳が宝石みたいに美しくて、見惚れるほど印象的だった。
(………綺麗な男の人…)
その男の人の絵画のような美しさに、思わず涙がピタッと止まった。
「この深い森に迷い込んでしまったが、可愛らしい天使と出会えたのは不幸中の幸いだ。退屈しのぎに少し私と話でもしないか?」
「………わ……たし…は……っ」
どうしてこの人は、まだ出会ったばかりで素性も知らない私に優しく話しかけてくれるのだろう。レオンさんと家の人達以外は、平気で恐ろしいことをしようとするのに。
私はそれが不思議でならない。
「名は何という?」
「っ…ミーシャ・グレイス……」
「…ああ、あのグレイス侯爵が引き取った孤児の娘というのは貴女のことか。心優しい方に救われて幸せ者だな」
「っ………幸せ…」
この人は他の男性とは違うようだ。初対面なのにやたら話しかけてはくるけど、実際の距離は変わらないままでいてくれている。
私が男性を怖いと思っていると分かってのことだろうか。
「それで、そんな幸せ者の貴女は何故泣いていたんだ?余程辛いことがあったのか?」
そうだった。私はどうして泣いていたんだろう。この人に言われて、思い出してはいけない何かを思い出そうとする。
けれど、いくら考えても、頭の中にもやがかかってしまう。やっと止まった涙がまた溢れてくる。
「………………私……何も……分からな……」
「お嬢様!!ここにいらしてたんですね!!旦那様がお探しです!!早くこちらへ!!」
「ッ…………!!サラ……?」
サラが、茂みの中から呼びかけてきた。
私はサラを見た途端に一気に安心感を覚え、胸に飛び込みたくなった。
「サラ…ッ…!!」
「あらあら、どうかなされたんですか?甘えん坊さんなのは変わりませんね…」
「ぐすっ…ぅ…ぅうっ……」
いきなり飛び込まれてびっくりはしてるけど、サラは優しく頭を撫でてくれる。
「……ッ!?まさか…そこにいる方が……!?」
サラが見つめる先には、さっきの綺麗で優しい人がいる。その人は私に向かって小さく手を振って森の中を出て行く。
けれど、サラは険しい顔でそれを眺めているような気がする。
「………サラ?あの人がどうかしたの?」
「ッ…!!い、いいえ、なんでもございません。さあ、旦那様の元に向かいましょう。今日はお嬢様の大好きな食事をたくさんお出ししますから」
「うん……」
今日はとても忘れられない日になる。記憶喪失になって、その後にあんな綺麗で優しい男の人と出会えたから。
(あの人の名前…聞いておけば良かったな…あ、さっき解いた組紐一つ落としてきちゃった…けど見てるのも嫌だし…まあ良いか)




