消え失せていく意思
恐ろしい悪夢の中に来てから、何日経っただろうか。
一ヶ月前にトニーと暮らすようになってから、私は何も考えられなくなった。
サラやグレイと一緒に食事を取ったり散歩に出ることは許されていても、今日はとてもそんな気分になれなくて、一日中ベッドに横たわっている。
サラとグレイ、グレイス家の人達の生活のために、毎晩トニーに身体を触られ、男女の営みに関わることを何度も覚えさせられた。
私が抵抗する気力を無くしてからは、手枷などを使って動けなくされることはなくなった。しかし、その分トニーの行為はエスカレートしていて、昨日は自分からトニーの身体に触るように命令された。
(私…いつまでこんないやらしいことをされたり…しなきゃいけないの……?もし…結婚した後も…同じようなことをされたら……っ)
誰か助けて欲しい。だが、されていたことは誰にも言えない。この先もどうにもならない苦しみを味わうと分かっていても、それを憂いて泣く力も出なかった。
動く気にもなれず、ベッドに横たわっていると、小さいノック音が聞こえた。
「……サラです、お嬢様。お伝えしたいことが…」
「……サラ……?うん、分かった…入って」
互いに小声で言葉を交わすと、トニーの侍女達がいないのを確認しながら、サラが部屋に入ってきた。
この頃は、グレイだけでなく、側付きの侍女であるサラでさえ私と会話をすることが制限されている。最低限の身の回りの世話の時以外は、私的な会話をすることすら許されない。
勿論、アレンのことを少しでも話せば、トニーからもっと酷い辱めを受けてしまう。トニーが外出中の今しか、サラとは私的な会話ができなかった。
「……それで、何かあったの?」
「一つは朗報で、アレキサンドラ様がセルレウス様の手で幽閉から解かれ、今は反撃の準備をしているそうです」
「っ!!良かった…アレンが無事で…!」
トニーから度々、ヴィクトワール公爵がアレンに対してまともに食事も与えないなどの酷い仕打ちを行っていると、嘲笑いながら話すのを聞いていたため、ずっと心配していた。
トニーは新しい王にグランディエ様を当てにしていたらしいが、こうなっては難しくなるのかもしれない。仮にグランディエ様が王になったとしても、政略結婚を強いられた人が簡単にトニーと私の結婚を許すとは思えないが。
「……サラ、一つって言ってたけど、もう一個は?」
「ユリアナ様のことなのですが…お嬢様がこの家に引き取られた頃から病に悩まされていたそうです。幸い、今は回復なさったとのことですが…」
クローズ家に引き取られてから、外とはまともに取れない状況だったため、ユリアナが病に罹っていたことなど全く知らなかった。本人が治るまでお見舞いに行けなかったことは、非常に悔やまれる。
否、トニーがいる限り、お見舞いに行くことは反対されたかもしれない。それはそれとして、最後の一言の続きをサラが言い淀むのを見て、嫌な予感がした。
「……ユリアナに何かあったの?まさか…後遺症が!?」
「いえ、目立った症状はないそうです。ただ、今までのユリアナ様とは………」
「何だと!?アレキサンドラが末弟のセルレウスに救出された!?それに…ヴィクトワール公爵はルベウス家のレイヴァンを王にするつもりか!?」
サラの言葉の続きを遮るように、部屋の外からトニーの焦ったような大声が聞こえた。
「……ったく声がでかいんですよあのドラ息子は…」
トニーのうるさく騒ぐ声に、サラはいつになく不快感を露わにした。まるで怒っている時のグレイと大差のない憎悪の表情を、ドアの向こうに向けている。
「左様でございます。あの気弱なレイヴァンさまが王として担ぎ上げられるであろう今、アレキサンドラ・サッピールスがまた復位をしようと企む可能性は十分にあります。そうなれば…旦那様の望む結婚は認められなくなるでしょう」
トニー直属の侍女であるカンナと思わしき冷たい声が、今起きている外の情勢を淡々と述べるのが聞こえる。
カンナの話を聞いたトニーが「クソッ!!」と叫ぶなり、強い力で壁を殴る音が響き渡った。
「ひっ……!!」
「お嬢様っ…!だ、大丈夫ですからね…」
サラも恐怖を感じて青ざめているにも関わらず、私の背を撫でで落ち着かせてくれた。もしサラがいなかったら、一人で震えるしかできなかったかもしれない。
「俺のことを邪険にしないグランディエ様が国王となれば結婚を認めてくれると思っていたのに…っ…クソ!!あの男はいつも俺を不快にさせる!!」
アレンがまた王に戻れば、トニーと結婚しなくて済む。アレンはトニーのなすことは全て否定するため、私との結婚も認めないはずだ。
前王の弟家であるルベウス家出身のレイヴァン様も、お父様のように心優しく、トニーのすることは絶対に許さないような人だと、噂には聞いている。しかし、アレンとは違ってお人好しで押しに弱い所が欠点なせいで、トニーが強気に出れば認めてしまうかもしれない。
今の私には、アレンが国王に戻ることだけが唯一の希望だった。
ーーーーーーーーーー
自分が望んでいたグランディエ様ではなく、ルベウス家のレイヴァン様が次期王となる前にアレンが復位する可能性がある話が余程効いたのか、トニーはショックで塞ぎ込むようになった。
そのせいか、私の部屋に来る回数も減って、来ても人形を愛でるように服越しに私の身体を触るだけだった。
(あんな風に触られるのも嫌だったはずなのに…いつの間にか今の方がマシだと思うなんて…)
それでも少しだけ改善された状況に、少しは身体を動かそうと思えるようになった。私は約二ヶ月ぶりに部屋の外に出て、サラを呼ぶことにした。
「サラ…私散歩に出たい」
サラの目の下にはクマができていて、ろくに眠れていないようだ。もしかしたら呼ばない方が良かったのではないかと、後悔しかける。
「ッ……!!お嬢様…体調はもうよろしいのでしょうか?」
「……うん。今日は少し気分が良いから…」
「そうですか…良かった…!グレイも心配で眠れないと言っていたので…」
「グレイに今日ぐらいは休んで欲しいって言っておいて。サラも…散歩に出るのは今度にするから…」
「いいえ…お嬢様が少しでも元気になられたのなら私はいくらでもお願いを聞きたいくらいです」
そう言うサラの瞳には涙が滲んでいた。こんなになるまで心配をかけていたことが申し訳なく感じる。
「お嬢様、行きましょう」
「うん…!!」
トニーに悩まされずに外に出たのは久しぶりだ。春の兆しが見えるお陰で、冬の寒さが少しだけマシになっている。
歩いているうちに見かけたクローズ家の中庭は、元いたグレイス家ほどではないが、綺麗に手入れされていた。
庭に咲く白百合を見ていると、あの時のことを思い出しそうになる。
「アレン……もう大丈夫かな…?」
二度目にアレンと会った時も、純白の美しい百合が咲き誇っていた。
アレンと色々な話をするのはとても楽しかった。市民の祭りに出かけた時、買ってもらった青い組紐は今でも大事に取ってある。普段はたくさん会えなくても、その分一緒にいられる時間は幸せだった。
しかし、あの純粋に楽しかっただけの頃は、もう二度と戻ってこない。アレンの正体を知り、ずっと恋心を向けられていたと知ってしまった今、ただの友人関係に戻ることは叶わない気がしている。
それを改めて思うと寂しくなり、胸が締め付けられる。トニーの元にいなくても結局は同じことだと思うと、余計に辛い。
「お嬢様、アレキサンドラ様のことはもう忘れた方が…」
「……ただ心配してるだけだよ。それに向こうも私にはもう会いたくないと思ってるだろうから、また会えるなんて思ってない…」
傷つけたことを二度と謝れないのは辛いが、せめて無事でいてくれれば良い。
それなら、再び会うことが叶う日は来なくても構わない。
(もう会えなくて良い…本当にそう思ってるのに……寂しくて堪らないのは何故…?)
複雑な気持ちを抱えたまま、また時は少しずつ過ぎて行った。
立夏特有の、ほんの少しの暑さを感じ始めた今、アレンはヴィクトワール公爵を倒すための兵を集めようと、他国に渡っていったらしい。ヴィクトワール公爵の方も、渋るレイヴァン様に王になるよう説得し続けるよりも兵を集める方針に切り替えたとのことだ。
それを聞いたトニーはヴィクトワール公爵に加勢しようとしたらしいが、戦力にもならないと断られ、プライドを傷つけられたと烈火の如く怒っていた。
私はあと一ヶ月で18を迎えようとしており、アレンと最後に会った日から随分経っている。もうアレンは私のことなんて忘れているだろうと、なんとなくだった考えが確定し始めている気がした。
(アレンは私に恐ろしいことをしようとしたことも…それで引っ掻かれたことも全部忘れちゃったのかな…)
もう会うことはないから、アレンことは忘れてしまおうと決意したはずだった。だからこそ、こちらのことも忘れられても気にしないようにするつもりだった。
それでも落ち込んでしまう私は、側から見れば愚かなのかもしれない。
「おいミーシャ!!」
「ッ………は、はい!!」
私が胸中を曇らせていることも知らず、トニーはノックもせずに部屋にずかずかと入って来た。
「俺はレイヴァン様を説得しに国境付近のベリルまで行くぞ!!だからお前もついて来るんだ!久々にこの領地の外に出してやるから感謝しろ!!結婚を許してもらうにはそれしかない!!」
嫌だ。結婚を認めてもらうためにレイヴァン様を説得しにいくのは嫌だ。
しかし、トニーに少しでも逆らえば、サラとグレイを含めたグレイス家の人達の生活が奪われてしまうかもしれない。
「ッ…………わかり…ました…」
言うことを聞くしかできない状況下に置かれている私は、従順に返事をするしかできなかった。
ーーーーーーーーーー
その翌日に、私はトニーに連れられ、レイヴァン様の居城に向かうことになった。
ディアナ王国の首都であり、サッピールス公爵領の統治するイオスの境界にあるクローズ家から何時間もかけて、国境付近にある都市ベリルに。
「いいか?絶対にレイヴァン様に失礼がないようにしろ!!分かったな!!」
「…………はい」
馬車から降ろされ、邸に向かう最中もトニーは私に強い口調で命令する。
これでも最近のトニーはあの服越しに触る以上の恐ろしいことをしてこないから、まだマシな方だと思ってしまう。
早歩きで行ってしまうトニーの後を必死でついていくと、多くの人の視線を感じながら広間に入った。
すると、まとめ上げた金髪と青みがかった緑色の瞳を持つ背の高い美しい女性が、主が座るはずの席を立ち、ゆっくりとこちらの方に歩いてきた。
「…貴方がトニー・クローズ?ラルフ・ヴィクトワールの味方に真っ先についた方だと聞いているわ」
背の高い金髪の女性は、青色がかった緑の瞳でトニーを見定めるようにそう言った。




