「勇者様、宿がありません」
異世界に召喚され、王都に放り出され、パン一個で野に放たれた勇者――ユートは今、宿屋の前で途方に暮れていた。
「……満室、か」
「すみません、今日は商人の大集会でどこもいっぱいなんです」
受付の女将が申し訳なさそうに頭を下げた。
隣に立つリリアも肩を落とす。
「王都なのに、泊まれる場所が一つもないなんて……」
「いや、王都だからこそって感じだけどな。観光地あるあるだわ……」
ユートは溜め息をつき、残りわずかのパンを噛みしめた。冷たくなった硬い生地が、妙にリアルに現実を突きつけてくる。
◆
その後も何軒か宿屋を巡ったが、どこもかしこも「満室」。
理由を聞けば、明日から開催される「魔物討伐隊の出陣式」に合わせて、各地の冒険者や軍人たちが集結しているらしい。
──そして今、ユートは街外れの公園のような広場でベンチに腰掛けていた。
「つまり今夜は野宿ってことだな」
「…………」
「え、ちょっと泣いてない?」
「泣いてません。ただ……私、初めて……外で寝るので」
「そっか……」
リリアの言葉には、彼女の過去の境遇を滲ませる何かがあった。聞かなくても、彼女が今までどれほど慎ましく、そして孤独に生きてきたのかがわかる。
ユートは、ふぅと息を吐き、上着を脱いで差し出した。
「ほら、これ掛けとけ。オレは暑がりだからさ」
「え……でも、それじゃあなたが……」
「最強だから風邪とか引かない。っていうか、引いたことない」
冗談めかして笑うユートの口元を、リリアはじっと見つめた。
そして、静かに「ありがとう」と言った。
◆
それから夜半――。
ベンチでうとうとしていたユートは、不穏な物音に目を覚ました。
「……ん?」
草むらの奥、何かが這い出る音。
「……このパターン、まさか……」
その“まさか”は当たっていた。
現れたのは、猪のような体格に甲殻をまとった魔物──装甲猪獣。
「うわ、出た出た。ゲームだったら序盤の雑魚っぽいやつ」
「ユートさん……っ!」
リリアが恐怖に声を震わせる。彼女の足元には、散らばった食べ物。どうやら深夜の腹ごしらえが、魔物を呼び寄せたらしい。
──牙を鳴らして突進してくるアーマーボア。
その直線上に、リリアがいる。
「──ちょ」
ユートは、リリアに向かって突進した。
◆
次の瞬間。
魔物が砕けた。
音もなく、力の反動もなく。
ただ、ユートが右手を軽く振っただけで、空間ごと裂けたように、猪獣の胴体が粉砕された。
周囲は静寂に包まれる。残骸が地面に落ち、鈍い音を立てた。
「…………」
リリアは呆然とした目で、その光景を見ていた。
ユートは、軽く笑った。
「……あ〜あ。せっかく寝てたのに」
そして、何事もなかったかのようにリリアの前に立ち、言った。
「だいじょぶ? ケガしてない?」
「……あ、はい。えっと……さっきのは……」
「あー、うん。ちょっとばかし、力入っちゃって」
「ちょっと、であれですか……?」
「まぁ、オレ最強だからな?」
それは、冗談とも本気ともとれるセリフだった。
だがリリアの心に、その言葉は妙に響いた。
◆
その後、街の見回りをしていた衛兵が駆けつけ、魔物の死体を見て驚愕した。
誰が倒したのかと問われたが、ユートは「知らないっす。寝てたし」ととぼけ通した。
そして早朝。騒動を聞きつけた宿屋の女将が、謝罪と共に一室を空けてくれた。
「助けてくださったんですよね、本当に……。リリアちゃん、よかったらいつでも来ていいのよ」
「……あ、ありがとうございます……!」
「じゃ、今日はベッドで寝られるな」
「……はいっ」
そしてその夜。
ユートはふかふかのベッドに寝転びながら、天井を見上げてぼそりとつぶやいた。
「魔王討伐、か……。この調子だと、マジでオレ一人で終わりそうだな」
彼の言葉は軽い。
けれど、その背中に宿る力は、どんな将軍や騎士よりも重く──
世界は、まだそれを知らない。