「もう一人の勇者 ― 記録を背負う者たち」
蒼塔の麓。
霧の晴れた地平に、足音が二つ、響いていた。
一人はユート。
もう一人は――“神格転移体”として召喚された、篠原ケイ。
夕陽が差し込む荒野の小高い丘の上。
かつては結界で隔離されていた塔の周囲にも、風が流れ、草が揺れている。
だが、二人の間には、どこか異質な“静けさ”が漂っていた。
「よう、篠原」
「久しぶりだな、東雲。……いや、こっちじゃ“ユート”だったか」
「まあ、名前なんざ呼びやすいほうでいいさ。でも、お前が“神様”になってるってのは聞いてねぇぞ?」
「神になんてなっちゃいない。……ただ、神の代わりに“背負わされた”だけさ」
篠原ケイは、あくまで静かだった。
だがその瞳は、まるで数百年を旅してきた老人のように深く、重い。
「この世界に来たのは、お前より二年早かった」
「知ってる。リリアが記録で見つけた」
「……そうか。じゃあ、全部は語らなくてもいいな」
ケイは腰に帯びた黒刃の短剣に手をかけるが、抜くことはなかった。
「おれは……神格を移植された“実験体”だった。世界にとっての“神の再演算”のための試金石」
「……つまり、魔王ゼクルスの“原型”ってことか?」
「ある意味、そうだ。“神を模倣する存在”が、何に成り果てるかの――な」
ユートは目を細める。
相手の力はわかっていた。ゼクルスほどではないが、確実に“あちら側”に片足を突っ込んでいる。
だが同時に、彼の言葉に――“覚悟”を感じた。
「おれがここに来たのは、ただ一つ。お前にこれを渡すためだ」
ケイは、黒の核を取り出す。
それは、小さな球体――だがその内部には、圧縮された無数の記憶と演算式が詰め込まれている。
「これは、“神々の最終因果式”。おれの中に埋め込まれていた、ゼクルスの最深部」
「……渡してどうするつもりだ?」
「俺は、もう限界なんだよ」
その言葉に、ユートは目を見開いた。
「おれは……もう、正しく人間じゃない。自我の維持が怪しい。
このままじゃ、おれ自身が“ゼクルス第二段階”になりかねない。だから――おれの中から引き剥がした」
彼の身体には、無数の“転移痕”が刻まれていた。
それは魔法でも外傷でもない。内側から、自己が崩れていく兆候――“概念暴走”。
「東雲……この世界の未来は、お前が背負ってくれ」
「……都合よく投げてくるなよ、神様のくせに」
「皮肉は今も健在だな。だが……正直、羨ましかった」
ケイの声が、少しだけ震える。
「お前は、“誰かのために動ける奴”だった。おれは、ただ選ばれて、役目を押しつけられて、それに耐えるだけだった。
……でも、お前は“自分で意味を選んだ”。だから――託したいと思ったんだ」
その瞬間、ユートは踏み込んだ。
右手を伸ばし、ケイの手から黒核を受け取る。
触れた瞬間、意識が引き裂かれる。
ゼクルスの記録。
滅びた神々の演算式。
千の記憶と、無数の因果構造――その全てが、ユートの頭を駆け巡る。
だが、彼は――“壊れなかった”。
黒核を、両手でしっかりと抱える。
「任された」
その声に、ケイの肩がふっと落ちる。
「……よかった。本当に」
だが、次の瞬間。
空が、ひび割れた。
塔の上空に、再び“あの気配”が戻ってきた。
ゼクルス――ではない。
それは、“ゼクルスが作ろうとしていた、次なる神格”の断片。
黒核の引き渡しを察知し、引き寄せられた“因果の災厄”だった。
虚空に漂う、翼のない天使のような影。
だがその体は不完全で、常に揺らぎ、悲鳴のような魔力を発している。
「来たか。俺の……置き土産」
ケイが呟いた。
ユートは振り返る。
「ケイ……お前、まだ動けるか?」
「動けるうちは、戦う。……最後までな」
二人の“元高校生”が、再び肩を並べる。
かつて同じ日常を歩んだ少年たちが、今や“世界の神格”と戦うために立ち上がる。
空から降り注ぐ“再定義の雨”。
蒼塔を守る結界が軋みを上げる。
「よし、ケイ。……お前が神だったってんなら、今度は人として戦おうぜ」
「望むところだ、東雲」
二人の演算が、同調する。
リリアがその場に駆け寄り、塔の力を彼らへと送る。
そして始まる、次なる戦い――
それは“神の再誕”を止める、人間たちの意思の戦いだった。