第4話「再会を愛と呼ぶ少年」
夜は静かで、冷たい。
「umbrella」の扉を開けると、微かなグラスの音とアルコールの香りが迎える。カウンターには、いつも通りの無口なマスター。奥の棚に並ぶ酒瓶の陰から、彼は一枚の封筒を差し出す。
「アレ絡み、と……聞いております」
アキヒトがそれを受け取り、ポケットにしまう。マスターはそれ以上、何も言わない。ただ目の前のグラスを磨き続けるだけだ。
オトハはマスターを一瞥し、無言のままカウンターの端に座った。
その場に長居はせず、二人は車へ戻る。エンジンがかかると、車内に低くラジオの音が流れた。
《ネット上で絶大な人気を誇る音楽家“Masquerade”の新曲『rain-free』が、今週もストリーミングチャート1位をキープ。専門家の間では、聴覚に作用する独自の音構成が話題に――》
アキヒトがため息をついてラジオを切る。
「……ったく、どこに行ってもオンパの曲じゃん」
助手席のオトハは、目を閉じていた。代わりにアキヒトが封筒からメモを取り出し、読み上げる。
「標的は小規模な組織の元幹部、名前は不明。数年前に行方をくらましてたが、最近港の倉庫で誰かと接触したって通報があったらしい。依頼人曰く、“情報を売った可能性がある”と」
オトハは目を開けずに呟いた。
「……兄貴、じゃないかも」
「けど“アレ絡み”ってマスターが言ってたんだ。行って、確かめるだけだろ」
“アレ”――それは、オトハの実の兄。どこかの組織で暗躍している人物。数年前、両親が惨殺された事件の裏には、その兄がいるとオトハは信じている。だが警察は、その頃起きていた連続殺人の犯人が犯行に及んだとして事件を処理した。真犯人は別にいて、その罪をかぶせる力が働いた――それが、兄だ。
オトハは、その兄を殺すためだけに裏の世界に足を踏み入れている。
車はゆっくりと湾岸の方へ向かっていく。
*
湾岸の倉庫街。海風に吹かれて錆びついたシャッターが、ぎい、と微かに揺れている。
アキヒトが車を降り、倉庫の外壁沿いを一周すると、裏口の鍵が壊されているのを見つけた。運転席のドア越しに、軽く二度ノックする。それがオトハへの合図だった。
助手席の扉が開き、音もなくオトハが車から降りる。足音を殺して、アキヒトのすぐ後ろについた。
中は静かだった。異様なほどの沈黙――波の音も、遠くの車の走行音も、何もない。
照明はすでに落ち、月明かりが高い窓から斜めに差し込んでいる。
そして、倉庫の奥に進んだ先。
血の匂い。鉄と腐臭が混じり合った生々しい気配。
アキヒトが目を細め、低く呟く。
「……また、やられてる」
床に転がった死体は、顔が潰れ、内臓は引きずり出されていた。肉の一部は削がれ、噛まれた痕跡まである。
そこへ――
ひたり、ひたり。肉を踏む湿った音が、背後から忍び寄ってくる。
「……きみ、いた。また、きみ」
血まみれのシャツを着たタナバタが現れる。口元は赤黒く汚れ、目は興奮の光を宿していた。
「さっきまで、たべてた。おいしかった。でも、きみのほうが、ずっと……からだ、あつくなる」
タナバタは胸を押さえながら、アキヒトを見つめる。目線はまるで獲物に吸い寄せられる獣のようだった。
「近づくなよ」
アキヒトがナイフに手をかける。
それでもタナバタはふらりと寄ってくる。そのまま、そっとアキヒトの肩に触れようとする。
「触んじゃねえ!」
アキヒトがナイフを抜く寸前で止めると、タナバタは無邪気に笑った。
「だって……きみ、きれい。匂いも、すごく好き。食べちゃいたいし、僕を食べてもらいたい……な」
「……マジで気持ち悪いんだけど」
「おなかの中、ぐちゃぐちゃにされたら、気持ちよさそう。だめ?」
「アウトだっつってんだろ、バカか!」
タナバタはくすくす笑いながらアキヒトの手の中のナイフを覗き込む。
「ねえ、それで斬られるの、ちょっと楽しみかも……ねえ、少しだけ刺してみて?」
「こっち来んな!」
アキヒトが一歩引くと、タナバタも一歩詰め寄る。
その距離が縮まりすぎたところで――
「もうやめとけ」
倉庫の高台から、サザナミの声が響く。
「俺たちの邪魔をしに来たわけではないのだろう? なら、退け」
アキヒトは静かに息をつきながら応じる。
「ああ。……けど、ひとつだけ確認させてくれ。そいつ、情報は?」
「売ってない。くだらない組織に怯えて逃げていただけだ。もう、必要ない」
アキヒトは短く頷いた。
タナバタの声が、まだ後ろで続いている。
「ねえ、また……くる? きみのにおい、すき。みただけで、ぐるぐるする」
「……帰れ」
「なまえ……おしえて。おしえてよ……」
アキヒトは答えず、スマホを取り出してマスターに連絡を入れた。
「件の標的は既に死亡。現場には、あの二人。アレ絡みじゃなかった。処理、頼む」
『了解』
それきり、アキヒトは通話を切って歩き出す。
タナバタの囁きが、闇の中に残る。
「いたくてきもちいこと、いっぱいしよーねえ」
その願いは、夜風に攫われていった。