第3話「流行と静寂」
午後のキャンパス。
汗ばむような陽射しの中、学生たちの会話はどこか浮ついている。
「Masqueradeの新曲、聴いた?」
「もちろん。あれ、ヤバいよな。聴いた瞬間、頭ん中ぐにゃってなる」
「マジで“聴く麻薬”って呼ばれてる理由わかるわ。気づいたらループ再生してんの、あれこわいよ」
芝生の上、輪になって座る学生たちが、興奮気味にスマホを見せ合っている。
画面に映るのは、仮面を被ったシルエット。素顔も性別も年齢もわからない、正体不明の音楽家――Masquerade。
突如ネットに現れ、曲を投稿するたびに再生数が跳ね上がり、数ヶ月で世界的なバズを巻き起こした存在。
歌詞はなく、ジャンルも定まらず。ただ、耳にした者の精神に強く作用すると噂されていた。
その話題の只中を、アキヒトが無表情に通り過ぎていく。
耳にイヤホンはない。スマホにも音楽アプリは入っていない。
彼は知っていた。Masqueradeの正体が、オンパ――オトハであることを。
だからこそ、彼は決して聴かない。聴いてしまえば、オトハの音に取り込まれてしまう気がして。
(お前の曲、人気すぎだろ、オンパ)
スマホが一度震える。
――今夜、umbrella。
*
陽が落ち始める東京の街。
ビルの谷間に赤く染まる空を背に、細い路地を抜けた先にひっそりと灯る看板のない店がある。
扉を開けた瞬間、涼しい空気と古い木の匂いが迎えてくれる。
「こんばんは〜。暑っ……マスター、タオルある?」
アキヒトは手を振りながら、カウンターの奥にいる男に声をかけた。
無言のまま、マスターが棚から白いタオルを投げてよこす。
「さんきゅ」
アキヒトがそれで汗を拭いていると、後ろから気配もなく一人の影が現れる。
オトハ。いつもの黒いフードを被り、無言のままアキヒトの隣に腰を下ろした。
マスターは黙って、白い封筒を滑らせるようにカウンターに置く。
アキヒトはそれを無言で受け取り、中身を確認せずそのままジャケットの内ポケットにしまった。
マスターがさらに鍵を置く。
アキヒトはそれを手に取り、隣のオトハの肩を軽くトントンと叩く。
「行くぞ、オンパ」
オトハは小さく頷き、立ち上がる。
*
車の中。
東京の夜が、ガラス越しに過ぎていく。
アキヒトが運転席、オトハが助手席。
しばらくの沈黙の後、アキヒトが内ポケットから封筒を取り出し、中のメモを読みながら口を開く。
「整理対象は、元殺し屋。足がつく仕事を何件もやって、クライアントが処理を決めたみたいだな。潜伏先は、東側の廃病院。監視カメラにそれっぽい姿が映ったってさ」
オトハは何も言わず、窓の外を見つめている。
「なあオンパ、お前のMasqueradeって、やっぱ“仕事のため”にやってんの?」
オトハは視線を逸らさず、ぽつりと呟いた。
「……“音”で、先に、緩める。動かずに、済むように」
「精神を、ってことか。……やっぱそうか。けど俺は、聴かねーぞ。お前の音、強すぎるんだよ」
小さく吹いた風が、窓の隙間から入ってくる。
会話はそれきりだった。
*
目的地の近くに車を停め、二人は無言で装備を整えた。
オトハはケースを開き、黒革の手袋と共に一つの楽器を取り出す。
艶やかな漆黒のクラリネット。
マウスピースに細工が施されたそれは、一般のものとは違う音を奏でるよう設計されている。
アキヒトはナイフを二本腰に差し、グローブのベルトを締めながら、ポケットから小型の通信機を取り出す。
「廃病院っつっても、3階建てだ。中は完全に電気止まってる。カメラはこっちで一部潰してある。……オンパ、お前はどう入る?」
オトハは答えない。
代わりに、建物を一瞥しただけで、靴音を立てず闇に溶けるように歩き出した。
その後ろ姿を見て、アキヒトが小さく笑う。
「了解、俺が囮なわけね」
*
廃病院の内部は、外観以上に荒れていた。
壁はひび割れ、床には瓦礫と書類が散乱している。手術室の扉には赤茶けた血の跡。
静寂。
どこかで水が落ちる音と、自分の足音だけが響く。
アキヒトは慣れた足取りで二階へ上がり、ナイフを構えて扉を開けるたび、空の部屋を確認していく。
その頃、一階の廊下では、音もなく扉が一つだけ開いた。
オトハが立っていた。
左手にクラリネット、右手はポケットの中。
室内の暗闇に目を凝らすと、奥に一人の人影が見える。
だらしなく腰を落とした男。髪は伸び放題で、肌は不健康に黄ばんでいた。
「……来たのか。俺を殺しに」
男がそう言った瞬間、空気がひとつ、震えた。
音は、鳴っていない。
だが、男の顔に違和感が走る。
ぐっ……と眉をしかめ、頭を抱えた。
「ッ……な、にを……ッ」
床に手をついた瞬間、男の体が揺らいだように見えた。
耳の奥で音が反響し、視界がにじむ――そのまま、意識が暗転する。
オトハはクラリネットを下げ、部屋の奥へ歩み寄る。
男の胸元に手をかざし、鼓動の消失を確認した。
*
そのとき、無線が震えた。
『オンパ、終わったか? こっちには何もいなかった。車、戻ってていいか?』
オトハは小さく息をつき、無言で通信機のスイッチを押した。
「……終わった」
*
夜風が吹き抜ける病院の外。
アキヒトが車へ戻る途中、軽く背伸びしながらポケットに手を入れる。
そのとき、再びくしゃみがひとつ。
「……誰だよ、また俺の噂してんの」
オトハの視線が、車の向こうから静かにアキヒトへ向けられていた。
その顔は無表情だが、どこかほんのわずかに笑っているようにも見えた。