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第2話「揺らぐノイズと先客」




 ワイパーが一定のリズムで雨を掃く。

 その音が、車内の静けさに染み込んでいくようだった。


 後部座席には黒のハードケース。助手席では、オトハが濡れた髪をタオルで拭っている。肌にはまだ水滴が残っていて、それを気にする素振りもなく、彼――彼女はじっと前を見ていた。


 運転席のアキヒトが、バックミラー越しにオトハを見た。


「……オンパ、今回の依頼、ちょっと特殊だ」


 返事はない。いつものことだ。アキヒトは続けた。


「ターゲットは、“事故死”で消される仕事を請け負ってる掃除屋。依頼主はそいつに命を狙われてるってビビってる。今回の仕事は、護衛じゃなくて――」


「排除」


 オトハの声は低く、静かに割り込んだ。


「そう。“自衛のための先制攻撃”ってわけ。ま、俺らのよくあるやつだな」


 オトハは無言でうなずき、タオルを静かに畳んだ。


「場所は新宿の裏。古い雑居ビル。情報屋が言うには、今夜あたり動く可能性が高い」


 アキヒトはハンドルに片肘をつき、視線を後部座席に向けた。


「……で、マスターが今回用意した“楽器”な。あれ、すげぇぞ。カスタムされた小型のエレクトリック・ライアー。見た目はクラシックだけど、完全にお前仕様らしい。弦の配置も音階も、普通じゃねえ。鳴らせば即、ってやつだろ?」


 オトハの視線が、後部座席のケースに滑った。まるでそれが呼吸しているかのような、静かな間が落ちる。


「……なるほど」


 それだけ言って、オトハは目を閉じた。


 アキヒトは肩をすくめる。


「お前、ホントにそれしか言わねぇな。せめて“ありがとう”くらい言ってくれても――」


「黙れ。鬱陶しい」


「はいはい。こっちが濡れたジャケット着たまま運転してんのに、冷てぇなぁ……」


 ワイパーが、さらに雨を切る。


 フロントガラスの向こう、新宿の灯りがじわりと滲む。


 この夜、弦が鳴るのは旋律のためではない。

 “音”は、今夜もまた、誰かの命を揺らすために使われる。






雨は止んでいた。

 新宿、雑居ビルの裏手。ぬかるんだアスファルトに靴音を響かせ、アキヒトとオトハは静かに目的のビルへと足を踏み入れる。


 人気のない階段を3階まで登ると、突き当たりの302号室の前で足を止めた。

 ターゲットが潜伏しているはずの部屋。


「オンパ、鍵は開いてる。けど……中、なんか変な匂いする」


 アキヒトがナイフを構えたまま、慎重にドアノブを回す。


 ギィ……と鈍く軋む音と共に開かれるドアの先、

 部屋の中に一歩踏み込んだ瞬間、鉄と臓物の匂いが鼻をついた。


「……うっ」


 アキヒトがわずかに顔をしかめる。

 室内の中央、床にべったりと広がる血溜まりの中、何かが「あった」場所。


 血の匂いが鼻を刺す。

 男の顔は判別不能なほど潰れ、腹部は引き裂かれ、臓物が床に垂れ下がっていた。


「……殺し方、めちゃくちゃだな……」


 アキヒトが眉をひそめたその時、奥の暗がりからひょこりと首を覗かせた影がある。


「だあれ?」


 子供のような声。

 現れたのは、ぶかぶかのシャツを一枚着ただけの細身の青年。

 白く痩せた四肢、血のついた指、にやけた顔。


「これね、たべたの。おなか、すいてたから」


 しゃがみ込んでいた彼は、血の滴る手で床をなぞると、それを舐めた。


「ぷちゅ、ってして、ぐにゅってなって、おいしかった」


 アキヒトが反射的に数歩下がる。


「……おい、オンパ。なんだこいつ……」


 オトハは何も言わず、その光景を無言で見つめていた。


 タナバタはまっすぐアキヒトを見ていた。

 まるで猫がおもちゃを見つけたときのような目だった。


「……なんか、すごいね、きみ。……みてると、どきどきする。……ふしぎな きもちになる」


 感情の意味を自分でも分かっていないような、不思議な興奮を含んだ声。


「さわったら、きもちいいかな……?」


 そうつぶやいて、一歩だけアキヒトに近づく。


 だが、背後からサザナミが無言でその肩を掴んだ。

 タナバタが「え〜」と口を尖らせる。


「つまんない。もっと みたかったのに」


「帰るぞ、タナバタ」


 タナバタは名残惜しそうにアキヒトを見つめたまま、ゆっくりと廊下の奥へと引かれていった。


「また あえるかな。……きみ」


 その言葉だけが、湿った空気に残った。




タナバタとサザナミが立ち去ったあと。

 残されたのは、臓腑を晒して転がる無惨な死体と、静まり返った廊下の空気。


 アキヒトは、ポケットからスマートフォンを取り出す。画面に「umbrella」の文字。


 ワンコールで繋がった。


「……マスター。ターゲット、もう殺されてました。……うん、ぐちゃぐちゃ。……いや、誰かは分かんない。変なやつだった。ガリガリのガキ。あと、つきそいの男」


 少し間を置いてから、アキヒトは続ける。


「……処理、どうする? こっちで片付けていい?」


 また数秒、無言。


「了解。回収部隊出すって。俺らは撤収でいいってさ」


 通話を切ると、アキヒトは軽く肩をすくめてオトハを振り返った。


「さて。オンパ、帰るか」


 オトハは無言でうなずき、足音を立てずに回れ右をする。


 二人の背後には、血と内臓の匂いだけが残った。



***



海辺の別荘。窓の外は風に揺れる松林と波音。

 灯りは最小限、照明のほとんどが落とされ、室内は薄暗い。


 ソファの上、タナバタは大きなシャツのまま体育座りをしている。

 血の染みた指を口に含んで、ゆっくりとしゃぶっていた。


「……うふふ。あのひと……すっごく、よかった」


 そばの椅子に腰掛けていたサザナミは、静かに新聞を畳んで顔を上げる。


「誰のことだ」


「ほら、あの、くるまで来たひと。おっきくて、にこにこしてた。……においが、すごかったの」


 タナバタはゆっくりと身をくねらせるように背もたれに寝転び、首を反らして笑った。


「なんかね……したくなっちゃった。あのひとに、いっぱいさわられたいなーって。さわって、なか、めちゃくちゃにされたら、どうなっちゃうんだろって」


 サザナミは無表情のままグラスに口をつける。


「……まだ名前も知らないだろう」


「でも……あの目、わすれない。ふふ。みつけられるもん」


 タナバタの視線は虚空に向いている。けれど、何かを確かに見つめていた。

 手のひらを腹に当て、まるで内臓の奥から震えがくるのを感じるように指をぎゅっと丸めた。


「からだのなかが、じんじんしてる……ねぇサザナミ。あれ、なんていうの? この、あついかんじ。さけびたくなるくらいの、ドクドク」


「……覚えなくていい」


 サザナミはタナバタに背を向け、立ち上がる。

 タナバタは小さく笑った。


「うそ。しってるくせに。……サザナミは、ぜんぶしってるんだもん」


 返事はない。

 タナバタはその背中に向かって、わざとらしく鼻を鳴らした。


「ねぇ。また、あのひとに会いたい。つぎは、もっと、ちゃんとみる。ぜんぶ、舐めるように、みる。……そうしたら、ぼく、なにかわかるかもしれない」


 遠くで雷の音がした。

 タナバタは、まるで祈るようにソファの上で小さく体を丸めた。






 雨は上がっていた。

 アスファルトに残った水たまりが、街灯をにじませて光っている。

 マスターが手配した黒い車の中。エンジン音だけが静かに響いていた。


 運転席のアキヒトは、窓を少し開けて外の空気を吸っていた。


「なんつーか……ああいうの、初めて見たかもな」


 助手席で腕を組んだまま、オトハは黙っている。

 目元にかかる髪からは、まだ少し湿った雫が落ちていた。


「おい、オンパ。あの死体の切り方、異常だろ? あれ絶対素人じゃねぇ」


 オトハは少しだけ顔を上げた。

 その瞳は窓の外――夜の奥に向けられていた。


「……」


「っていうかさ、あいつ何者だったんだ。人間かどうかも怪しいってレベルだったぞ。あのガキ」


 アキヒトがそう言った瞬間、唐突に――


「へっくしっ!」


 大きなくしゃみをひとつ。


「……誰か噂してんな、俺のこと。モテすぎてつれぇわ」


 アキヒトは鼻をすすりながらハンドルを軽く叩いた。


「寒いのかもしれないよ」


 ぽつりと、オトハが呟いた。

 アキヒトは一瞬きょとんとした後、笑った。


「お、珍しく気遣い? 俺の心配してんの?」


 オトハは答えない。ただ、濡れた髪を指先で弄っている。


 車は無言のまま夜道を走る。

 そして、その沈黙の奥で――

 どこか、背後に目を感じたような気がした。


 アキヒトはルームミラーをちらりと見た。


 そこには、いつも通りの暗い後部座席と、自分たちの影が映っているだけだった。


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